戦国時代123 秦王政(九) 韓非子 前235~233年

今回は秦王政十二年から十四年までです。
 
秦王政十二年
235年 丙寅
 
[] 秦の文信侯呂不韋が酖毒を飲んで死にました。
 
以下、『史記秦始皇本紀(『正義』含む)』と『資治通鑑』からです。
呂不韋の家人や食客が秘かに呂不韋を埋葬しました。
しかし秦王がそれを知り、呂不韋の葬儀に参加した者を調査しました。三晋の者は全て追放し、秦人で六百石以上の者は爵を奪って房陵に遷します。五百石以下の者で葬儀に参加していなくても、爵はそのままにして房陵に遷しました。
秦王が宣言しました「今後、国事を操って嫪や不韋のように振る舞う者は、その門()を没収する。これを前例とせよ。」
 
[] 六月から雨が降らず、大旱が襲いました。八月にやっと雨が降りました。
史記秦始皇本紀』はこれを「天下」の事としていますが、恐らく秦の出来事です。『資治通鑑』は地域を明記していません。
 
[] 秦が関東四郡の兵を動員し、魏を援けて楚を攻撃しました。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙が柏人(地名)に築城しました。
 
[] 『史記秦始皇本紀』によると、秋、秦が嫪の舍人で蜀に遷された者を帰らせました。
 
 
 
翌年は秦王政十三年です。
 
秦王政十三年
234年 丁卯
 
[] 秦の桓齮が趙を攻めました。趙将扈輒が平陽で敗れます。十万が斬首され、扈輒は殺されました。
資治通鑑』胡三省注によると、夏代に扈氏がいました。
 
戦いがあった場所を『史記秦始皇本紀』『資治通鑑』は「平陽」としていますが、『趙世家』は「秦が武城を攻め、扈輙が軍を率いて援けたが、敗れて死んだ」としています。
また、『六国年表』は趙の欄に「秦が平陽を攻略した」と書いていますが、秦の欄では本年に桓齮が平陽を攻め、翌年に平陽を平定したとあります。
 
以下、『資治通鑑』からです。
趙王は李牧を大将軍に任命し、宜安と肥下で秦軍に反撃しました。秦軍が破れて桓齮は逃走します。
趙は李牧を武安君に封じました。
 
資治通鑑』のこの記述は『史記廉頗藺相如列伝(李牧伝附。巻八十一)』が元になっているようです。しかし『廉頗藺相如列伝』では事件が発生した年がはっきりしません。
史記趙世家』は翌年の趙幽繆王三年(前233年)に李牧が秦軍を撃退して武安君に封じられたと書いています。
 
[] 『史記秦始皇本紀』によると、この年、秦王が河南に行きました。
正月、東方に彗星が現れました。
十月、桓齮が趙を攻撃しました。
『秦始皇本紀』は歳首がはっきりしません。十月が歳首だとしたら、この趙攻撃は翌年の事を指すのかもしれません。
 
[] 『史記韓世家』はこの年に「秦が韓を攻め、危急に陥った韓は韓非を秦に派遣した。秦は韓非を留めて殺した」と書いていますが、『秦始皇本紀』と『資治通鑑』は翌年の事としています。
 
 
 
翌年は秦王政十四年です。
 
秦王政十四年
233年 戊辰
 
[] 秦の桓齮が趙を攻めて宜安、平陽、武城を取りました。
 
これは『資治通鑑』の記述です。
史記秦始皇本紀』にも「秦が趙軍を平陽で攻め、宜安を取り、趙軍を破ってその将軍を殺した。桓齮が平陽と武城を平定した」とあります。
ところが『趙世家』は本年に「秦が赤麗、宜安を攻めた。李牧(趙将)が軍を率いて肥下で戦い、秦軍を撃退した。趙が李牧を武安君に封じた」と書いています。
『趙世家』が正しいとしたら、秦軍は李牧に敗れています。
 
『廉頗藺相如列伝(李牧伝附。巻八十一)』には「趙が李牧を大将軍に任命し、宜安で秦軍を撃って大破した。秦将桓齮を走らせた(走秦将桓齮)。趙は李牧を武安君に封じた」とあります。『資治通鑑』はこれを前年の事としていますが、『趙世家』に従うなら本年になります。
 
桓齮は秦の名将の一人ですが、この後、姿を消します。
楊寛の『戦国史』は「桓齮」を「樊於期」と同一人物としており、敗戦の罪を恐れた桓齮は燕に奔ったといっています。これが正しいとしたら、『廉頗藺相如列伝』にある「走秦将桓齮」の「走」は「逃走」「出奔」の意味になります。
樊於期は後に燕の太子丹が立てた秦王暗殺計画を成功させるために自殺します(秦王政十九年228年)
 
[] 韓王が秦に領土と国君の璽を納めて藩臣になることを請いました。まず韓非韓非子を派遣して秦を聘問させます。
資治通鑑』胡三省注によると、列国は天子に対して毎年小聘を行い、三年に一回大聘を行いました。
 
以下、『史記韓非列伝(巻六十三)』と『資治通鑑』からです。
韓非は韓の諸公子の一人で、刑名法術の学を修めました。申不害や商鞅の流れをくむ法家に属します。
韓非は口吃(訖音)の症状があったため話が苦手でした。しかし著作には優れています。李斯と共に荀卿荀子に学び、李斯は自分が韓非に及ばないと感じていました。
 
韓が衰弱したため、韓非はしばしば韓王に上書して意見を述べましたが、用いられませんでした。韓非は韓の治国を憂います。当時の韓は任賢を求めず、浮淫の蠹(虚名しかない小人)を用いて実際の功績よりも上の地位に置いていました。国が安全な時は虚名の者を重用し、戦になったら介胄の士武装した士)を用いるだけで、能力がある賢人は養われず、廉直の者が邪枉の臣に容認されず排斥を受けました。韓非はこのような状況を悲しみ、過去の得失の変化を考察して『孤憤』『五蠹』『内儲』『外儲』『説林』『説難』等の五十六篇十余万言の書(『韓非子』)を残しました(『史記・韓非列伝』は『韓非子』の内容を一部紹介していますが、ここでは省略します)
 
ある人が韓非の書を秦にもたらしました。秦王は『孤憤』『五蠹』の書を読んで著者の賢才を知り、実際に会ってみたくなってこう言いました「ああ、寡人がこの人を得て共に遊ぶことができたら死んでも悔いはない。」
すると李斯が「これは韓非が著した書です」と教えました。
 
ちょうどこの頃、韓非が韓の使者として秦を訪ね、秦王に上書してこう伝えました「今、秦の地は方数千里にわたり、師は百万を号し、その号令賞罰は天下に及ぶ国がありません。臣が命をかけて大王に謁見を求めたのは、天下の合従を破る計を述べたいからです。大王が臣の言を聞くようなら、一挙して天下の合従を破り、趙を占拠し、韓を亡ぼし、荊(楚)、魏を臣とし、斉、燕を秦に親しませ、霸王の名を成し、四鄰の諸侯を入朝させることができます。もしそうならなかったら、大王は臣を斬って国に晒し、大王に述べる謀計が不忠な者を戒めてください。」
秦王は韓非の上書を読んで喜びましたが、すぐには用いませんでした。
 
李斯と姚賈が韓非の賢才を嫉妬して秦王にこう言いました「韓非は韓の諸公子の一人です。今、王は諸侯を併呑しようとしていますが、韓非は最後には韓のために働くので、秦のためにはなりません。これは人の情というものです。王はまだ彼を用いようとしていませんが、彼を久しく留めてから帰らせたら後患を残すことになります。法に則って誅殺するべきです。」
秦王は納得して下吏に韓非の罪を探させました。
李斯は人を使って韓非に毒を送り、自殺を命じます。
韓非は冤罪を訴えるため秦王に会おうとしましたが、会えませんでした。
暫くして秦王が後悔しましたが、韓非に使者を送った時には、韓非は既に死んでいました。
 
史記秦始皇本紀』は「韓非は雲陽で死んだ」としています。
また、『韓世家』は韓非の死を前年の事としています。
 
『韓非列伝』は「韓非は説得、弁舌の難しさを知っており、それを『説難』の書に詳しく述べたが、自分自身はその難から逃れることができず、秦で死んでしまった」と書いています。
 
ここで少し韓非子の思想について述べます。
韓非子荀子に学びましたが、荀子の思想を更に発展させました。荀子は「礼」を重視しており、法の前に礼を置きましたが、韓非子は法を最重要なものとみなしました。そのため、荀子は通常、儒家とされますが、韓非子は法家に属します。
韓非子以前の法家には商鞅や申不害がいました。
秦の商鞅は「法」の大切さを称え、貴賎の区別がない法律を設けることで国家の秩序を築き、富国強兵を実現させました。秦は辺境の後進国から戦国時代最強の国に成長しましたが、商鞅の変法改革が原動力となっています。
韓の申不害は「法」だけでなく、「術」を重視しました。「術」とは上に立つ者が用いる「権術」「術策」「術数」です。「政治を行う技術」「国民を支配し、法を運営するための技」ともいえるものですが、やや漠然とした抽象的な概念です。
「法」と「術」以外に「勢」を称える法家もいました。慎到が代表です。「勢」というのは最高権力者の「威勢」「権勢」を指し、上から下に対する「威厳」といったものが含まれます。
韓非子はこれらを総合し、統治者には「法」「術」「勢」の三者が欠けてはならないと主張しました。
国君は法制規則を明らかにして公正な政治を行うことで秩序を築き、国を富ませることができる。これが「法」の役割です。
国君は人々を統治する際、国民に侮られることがないように様々な術策を用いなければならない。これが「術」の役割です。
国君は威厳を保ち、指示命令は上から下に流れ、しかも国民はその内容を尊重しなければならない。これが「勢」の役割です。
韓非子の主張は「仁」「義」「礼」「徳」といった道徳感情や礼節を基礎とする儒家思想から脱却し、「国の頂点に立つ国君が絶対的な法によって国民を制御することで、天下の秩序を維持できる」という法治と中央集権の概念を突出させました。
韓非子による法家思想の大成は、分裂戦乱の戦国時代から天下統一へ向かう機運が高まっていることを象徴しています。
 
 
 
次回に続きます。