戦国時代124 秦王政(十) 統一戦争の始まり 前232~229年
今回は秦王政十五年から十八年までです。
秦王政十五年
前232年 己巳
[一] 秦王が大挙して趙を攻めました。
一軍は鄴に、一軍は太原に至り、狼孟と番吾(または「鄱吾」)を取ります。
しかし秦軍は趙将・李牧に遭って還りました。李牧は秦に畏れられています。
[二] 以前、燕の太子・丹が人質として趙に行きました。
当時、秦の異人(子楚。荘襄王)も人質として趙におり、その子・政(現秦王。始皇帝)が邯鄲で生まれました。東周赧王五十六年(前259年)の事です。政は秦昭襄王五十六年(前251年)に秦に入りました。それまでの約八年で燕の太子・丹と知り合い、仲のいい友達になりました。
ところが、秦王・政が即位してから丹が人質として秦に来ましたが、秦王は礼を用いませんでした。
丹は怒って燕に逃げ帰りました。
翌年は秦王政十六年です。
秦王政十六年
前231年 庚午
九月、秦が士卒を発して韓の地を受け取りました。
内史というのは京師を治める官です。
[二] 魏人が秦に領地を献上しました。
翌年は秦王政十七年です。
秦王政十七年
前230年 辛未
韓王・安は捕えられ、韓の地には潁川郡が置かれました。韓王・安の在位年数は九年です。
韓はかつて平陽を都にしましたが、鄭を亡ぼしてから新鄭に遷都し、景侯が新鄭から陽翟に遷りました。秦は陽翟県を潁川郡の治所にしました。
こうして六国の中で最も弱かった韓が滅びました。秦の統一戦争が始まります。
秦と六国の地図を掲載します。『中国歴代戦争史』を元にしました。
残るは趙・魏・楚・燕・斉の五国です。
[四] 趙を大飢饉が襲いました。
[五] 衛元君が死に、子の角が立ちました。
翌年は秦王政十八年です。
秦王政十八年
前229年 壬申
楊端和も河内の兵を率いて趙を攻めました。
趙の李牧と司馬尚が対抗します。
秦人は趙王の嬖臣(寵臣)・郭開に重金を贈って李牧と司馬尚の讒言をさせました。郭開は趙王に二人が謀反を企んでいると訴えます。
讒言を信じた趙王は趙葱と斉将・顔聚を派遣して二人と交代させました。
李牧が趙王の命を拒否したため、趙人は李牧を捕えて殺してしまいました。
司馬尚は罷免されました。
『史記・趙世家』はこの年(趙幽繆王七年)に「秦が趙忽の軍を破り、顔聚は逃亡し、趙王・遷が降った」と書き、翌年十月に「邯鄲が秦に入った」としていますが、『六国年表』『資治通鑑』とも全て翌年に書いています。
巴郡で大人が現れ、その身長は二十五丈六尺もあったそうです。
次回に続きます。