戦国時代 荊軻(二)

荊軻の故事を紹介しています。

戦国時代 荊軻(一)

 
久しく時が過ぎましたが、荊軻は動こうとしません。
その間に秦将王翦が趙を破り、趙王を虜にしてその地を全て併合しました。秦は更に兵を北に進めて燕の南界に至ります。
恐れた太子丹が荊軻に言いました「秦兵は旦暮(朝晩)にも易水を渡ろうとしています。そうなったら久しく足下を遇したいと思ってもできなくなります。」
荊軻が言いました「太子の言がなくても、臣の方から実行の許可を得ようと思っていました。しかし今、行動しても信用される物がないので、秦王は臣を近づけません。樊将軍に対して秦王は金千斤、邑万家を懸けています。樊将軍の首と燕の督亢の地図を得て秦王に献上すると言えば、秦王は必ず臣を接見するので、太子に報いることができます。」
しかし太子はこう言いました「樊将軍は窮困して丹を頼って来ました。丹には自分のために長者の意(心)を傷つけるようなことはできません。足下が考え直すことを願います。」
 
荊軻は太子が樊将軍を殺せないと知り、自ら樊於期に会いに行ってこう言いました「秦による将軍の遇し方はひどいものです。父母宗族が全て戮没され、今も将軍の首に金千斤と邑万家が懸けられていると聞きました。将軍はどうするつもりですか?」
樊於期は天を仰いで嘆息し、涙を流しながら言いました「於期(私)はいつもこのことを考え、常に悲痛が骨髓まで達しています。しかしいい考えが浮かびません。」
そこで荊軻が言いました「今、一言(一策)によって燕国の憂患を解き、将軍の仇にも報いることができます。如何でしょう?」
樊於期が前に乗り出して「どうするのですか?」と問いました。
荊軻が言いました「将軍の首を得て秦王に献上すれば、秦王は必ず喜んで臣に会います。臣が左手でその袖をつかみ、右手でその胸を突けば、将軍の仇に報い、燕も虐げられている愧(恥)を除くことができます。将軍の意見は如何ですか?」
樊於期は片腕を袖から出してもう片方の腕をつかみ(『索隠』によると勇者は奮激した時に左手で右腕をつかんだようです)、「臣が日夜、切歯腐心していた怨みです。今やっと教えを聞くことができました」と言うと自剄しました。
この事を知った太子は急いで駆けつけ、死体に伏せて哀哭しました。しかしすでにどうしようもありません。樊於期の首を函(箱)に入れて密封しました。
 

太子はこれまでに天下で最も鋭利な匕首を探しており、趙人・徐夫人の匕首を得ました。『史記集解』によると「徐夫人」は「陳夫人」と書かれることもあります。『索隠』は徐が姓、夫人が名で、男の姓名であると解説しています。

太子は百金で匕首を買い取り、工人に命じて毒薬を染み込ませました。試しに人を切るとわずか一筋の血が出る程度の傷だけで、皆、すぐに命を落としました。
こうして荊卿の出発の準備が進められます。
燕国には秦舞陽という勇士がいました。秦舞陽は十三歳で人を殺したことがあり、直視できる者は誰もいません。
太子は秦舞陽に荊軻を補佐させました。
 
荊軻はある人を待っていました。しかしその人は遠くに住んでいるため、なかなか来ません。荊軻はその人の旅の支度も終えましたが、まだ現れません。
荊軻が出発しないため、太子は荊軻が後悔して時間稼ぎをしているのではないかと疑い、こう言いました「残された日は多くありません。荊卿には行動する意思があるのでしょうか?秦舞陽を先に行かせてください。」
荊軻は怒ってこう言いました「太子はなぜこのように送り出そうとするのですか。去ることだけを考えて、使命を全うして帰ることを考えないのは豎子(不才の者)です。そもそも匕首一つで測り難い強秦に入るのは極めて困難です。僕(私)がここに留まっているのは客(友)を待って一緒に出発しようと思っていたからです。しかし私が時間稼ぎをしていると疑うのなら、決別を請うまでです。」
荊軻は出発しました。
 
太子・丹と太子の賓客で計画を知っている者は皆、白い衣冠を身に着けて荊軻一行を送りました。荊軻は易水の辺で別れを告げ、秦に向かう道に就きます。高漸離が筑を演奏し、荊軻が和して歌いました。変徵(古代の音階。悲壮の音)の声を聞いた士が皆、涙を流しました。
荊軻が前に進みながら歌いました「風蕭々として易水寒く、壮士は一度去って還ることがない(風蕭蕭兮易水寒,壮士一去兮不復還)。」
荊軻が激昂した羽声(古代の音階の一つ)に変えて歌うと、士は皆憤って目を見張り、逆立った髪が冠を衝くほど憤激しました。
荊軻は車に乗って去り、二度と振り返りませんでした。
 

秦に到着した荊軻は千金の礼物を持って秦王の寵臣である中庶子蒙嘉を訪ねました。賄賂を受け取った蒙嘉が秦王に言いました「燕王は誠に大王の威信に震えており、兵を挙げて軍吏(秦の将兵に逆らうつもりはなく、国を挙げて内臣となり、(秦の)諸侯に列し、郡県のように貢職し(税を納め)、こうすることで先王の宗廟を守るつもりです。恐懼により自ら陳述に来る勇気がないため、樊於期の頭を斬り、燕の督亢の地図と一緒に献上することにしました。どちらも函封(箱に入れて封をすること。大切に扱われていることを表します)されています。しかも燕王は朝廷でこれらを送り出す儀式を行い(秦との関係を重視していることを示します)、使者を派遣して大王にこれを報告させました。大王の命に従うのみです。」

喜んだ秦王は朝服に着替え、九賓(外交上の礼)を設けて燕の使者を咸陽宮に招きました。
 
荊軻が樊於期の首が入った函を持ち、秦舞陽が地図の入った匣(箱)を持って順に進みます。陛(殿下)まで来た時、秦舞陽の顔色が変わり、恐怖のために震えだしました。秦の群臣が怪しみます。
すると荊軻が秦舞陽を振り返って笑い、前に進んでこう言いました「北蕃の蛮夷の鄙人(粗野な田舎者)は天子に謁見したことがないので、恐れて震えているのです。大王のお赦しを願い、大王の前で使命を完遂させてください。」
秦王が荊軻に言いました「舞陽が持っている地図を持ってこい。」
荊軻は秦舞陽から地図を受け取って秦王に献上しました。
秦王が地図を開いていくと、隠しておいた匕首が現れます。荊軻はとっさに左手で秦王の袖をつかみ、右手で匕首を持って突きました。しかし匕首は秦王の体にとどきません。
驚いた秦王は後ろにさがって立ち上がりました。その拍子に袖が破れます。
秦王が剣を抜こうとして長い剣の鞘をつかみました。しかし慌てており、剣も堅く鞘に入っているためなかなか抜けません。
荊軻が秦王を追い、秦王は柱の周りを逃げ回ります。
群臣は皆驚愕し、突然の出来事に度を失いました。
秦の法では、群臣が殿上に登る時には尺寸の武器も持ってはならないことになっています。郎中(宿衛の官)達も武器を持って殿下に控えていますが、詔召がなければ動けません。
緊急事態のため秦王には殿下の兵に命じる余裕がなく、荊軻が秦王を追いかけても群臣は素手で止めに入るしかありませんでした。
その時、侍医の夏無且が薬囊(薬袋)荊軻に投げつけました。
秦王は柱の周りを逃げ回っており、慌てているためどうすればいいか考えられません。
左右の近臣が叫びました「王よ、剣を背負ってください!」

長い剣を腰の横から抜こうとした場合、剣が鞘に引っかかって抜けません。しかし剣を背の後ろにまわして上に引き、鞘を下に落とせば抜きやすくなります。

秦王は剣を背負って抜き、荊軻を撃って左股を斬りました。荊軻は動けなくなったため匕首を秦王に投げつけましたが、外れて桐柱に中ります。
秦王が再び荊軻を斬り、荊軻は八か所に傷を負いました。
失敗を悟った荊軻は柱に寄りかかって笑い、両足を開いて座ると秦王を罵ってこう言いました「事が成功しなかったのは、(秦王をすぐに殺さず)活かしたまま脅して土地を返す約束をさせてから太子に報告しようと思ったからだ。」
左右の近臣が前に進み出て荊軻を殺しました。
 
秦王は久しく不機嫌でした。暫くして論功が行われます。群臣の中には賞を得た者もいれば罰せられた者もいました。夏無且には黄金二百溢(鎰)を下賜してこう言いました「無且はわしを愛しているから薬囊を荊軻に投げつけたのだ。」
 
荊軻の事件に激怒した秦王は兵を増やして趙に向かわせ、王翦に詔を発して燕を討伐させました。
十月、秦軍が燕都薊城を攻略します。

燕王喜と太子丹等は精兵を率いて東の遼東を守りました。

しかし秦将李信が燕王を追撃して手を緩めなかったため、代王嘉が燕王喜に書を送りました「秦が燕を厳しく追撃するのは太子丹のためです。王が丹を殺して秦王に献上すれば、秦王は追撃を解き、あるいは社稷も血食(犠牲。祭祀)を得ることができるでしょう。」

李信が太子丹を追撃し、太子丹は衍水に隠れました。

燕王は使者を送って太子丹を斬り、秦に献上しようとします。しかし秦は再び兵を進め、五年後に燕を滅ぼして燕王喜を捕虜にしました。

 
その翌年、秦が天下を統一して皇帝を号しました。
秦が太子丹と荊軻の門客を追放したため、門客は皆逃亡しています。
高漸離は姓名を変えて庸保(酒屋の店員)になり、宋子(地名)に隠れていました。
長い間、庸保として苦労します。
ある日、酒家の堂上で客が筑を演奏しているのを聞きました。高漸離はその周りを行ったり来たりして離れられません。
高漸離がしばしば「彼の演奏には善いところもあるが善くないところもある」と評価したため、酒屋の従者が主人に伝えてこう言いました「あの庸人は音楽を理解しています。秘かに是非を評価しています。」
そこで家の丈人(老人。主人)が高漸離を招いて筑を演奏させました。その結果、一堂の者が称賛して酒を進めました。
高漸離は久しく姓名を隠して人に拘束されていましたが、このまま恐れを抱いて生き続けてもきりがないと考え、いったん退席して匣(箱)にしまっていた筑と善衣を取り出しました。容貌を改めた高漸離が再び姿を現すと、堂上にいた人が皆驚き、席を下りて対等の礼で迎え入れます。高漸離は上客になりました。
高漸離が筑を演奏して歌を歌いました。感動した客達は涙を流して帰ります。
噂を聞いた宋子の人々が次々に高漸離を客として招きました。
やがて秦始皇帝もそれを知るようになりました。
始皇帝が高漸離を召すと、高漸離を知っている者がいました。高漸離の素性が明かされます。

始皇帝は筑の才能を惜しんで命を助けましたが、(馬糞を燻した煙で目をつぶすこと)によって盲目にしました。

 
高漸離が筑を演奏する度に、始皇帝は称賛して近くに置きました。
そこで高漸離は鉛を筑の中に隠し、始皇帝に招かれた機会を利用して、筑を持ち上げて殴りつけました。しかし筑は外れてしまいます。
始皇帝は高漸離を誅殺し、六国の諸侯に仕えていた者を二度と近づけなくなりました。