戦国時代126 秦王政(十二) 王翦と李信 前226~224年

今回は秦王政二十一年から二十三年までです。
 
秦王政二十一年
226年 乙亥
 
[] 冬十月、秦の王翦が燕都薊を攻略しました。
 
これは『資治通鑑』の記述です。『史記秦始皇本紀』によると、秦の王賁王翦の子)が燕都薊を攻撃し、前年から燕を攻めている王翦の軍を増強しました。その結果、燕太子の軍が破れて薊城が陥落しました。
 
資治通鑑』に戻ります。
燕王と太子丹は精兵を率いて東の遼東を守りました。
秦の李信がそれを急追します。『史記王翦列伝(巻七十三)』によると、この時、李信は数千の兵しか率いていなかったようです。
 
代王嘉が燕王に書を送り、太子丹を殺して秦王に献上するように勧めました。『史記刺客列伝(巻八十六)』に代王が送った書信の内容が書かれています「秦がなお燕を急追しているのは、太子丹に原因があります。王が丹を殺して秦王に献じれば、秦王は必ず兵を解き、社稷が血食(祭祀の犠牲)を得られるようになるでしょう。」
 
太子丹は衍水に隠れていましたが、燕王が使者を送って太子丹を斬りました。
資治通鑑』は「燕が太子の首を秦王に献上しようとしたが、秦王は再び兵を進めて攻撃を開始した」と書いていますが、実際に燕への進攻を再開するのは四年後(秦王政二十五年222年)の事です。
史記王翦列伝』には「燕王喜が遼東に走った。王翦は燕の薊を平定して兵を還した」とあり、この後、王翦と李信は楚攻略に、王賁は楚を攻撃してから魏攻略に向かいます。
 
[] 秦の王賁が南下して楚を攻撃し、十余城を取りました。
秦王は本格的に楚への進攻を考えます。以下、『史記王翦列伝(巻七十三)』と『資治通鑑』からです(但し、『王翦列伝』は三晋滅亡後の事としているので翌年になります。『資治通鑑』は本年に書いています)
秦将李信は若くて壮勇で、数千の兵で燕の太子丹を衍水まで追撃し、燕軍を破って太子丹を得ました。秦王はその賢勇を気に入っています。
そこで秦王が将軍李信に問いました「荊(楚。『資治通鑑』胡三省注によると、秦王政の父荘襄王の名が楚だったため、楚と呼ばず荊というようになったようです)を取りたいと思うが、将軍はどれくらいの人が必要だと思うか?」
李信が言いました「二十万を越えません。」
秦王は王翦にも同じ質問をしました。
王翦が言いました「六十万人いなければ無理です。」
秦王が言いました「王将軍は老いた。何を臆病になっているのだ。李将軍はやはり若くて壮勇だ。その言こそ正しい。」
秦王は李信と蒙恬(蒙武の子)に二十万の兵を率いて楚を攻撃させました。
王翦は病と称して故郷の頻陽に帰りました。

秦楚の対峙図を掲載します。『中国歴代戦争史』を元にしました。
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[] 『史記秦始皇本紀』によると、秦の新鄭が反しました。
 
[] 『史記秦始皇本紀』によると、秦の昌平君が郢に遷りました。
昌平君はかつて嫪討伐を指揮した人物で、秦の相を勤めたこともあります。『史記索隠』は楚の公子で考烈王の子としています(秦王政九年238年参照)
この年、なぜ郢に遷ったのかはわかりません。二年後に項燕に推されて楚王になるので、秦都から出奔したのかもしれません。
 
尚、この「郢」は楚の旧都・郢ではなく、当時の楚都・寿春を指すと思われます(翌年参照)
 
[] 『史記秦始皇本紀』によると、秦で大雪が降り、二尺五寸も積もりました。
 
 
 
翌年は秦王政二十二年です。
 
秦王政二十二年
225年 丙子
 
[] 秦の王賁が魏を攻め、黄河の水を引いて大梁に流しました。
三月、大梁の城が壊滅しました。
魏王假が秦に投降して殺され、魏の地には秦の郡県が置かれました。魏王假の在位年数は三年です。

こうして戦国時代初期には強盛を誇った魏も滅びました。残るは楚(旧趙)・燕・斉の四国です。

魏と燕・斉の地図を掲載します。
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秦王が人を送って安陵君(秦荘襄王三年・前247年参照)にこう伝えました「寡人は五百里の地と安陵を交換したいと思う。」
安陵君が言いました「大王は私に恩恵を加えて広い地を狭い地と換えようとしています。これはとても幸いなことです。しかし、臣は魏の先王からこの地をいただきました。終生、ここを守りたいと思います。交換はできません。」
秦王はこれを義と思い、同意しました。
 
史記田敬仲完世家』によると、この後、秦は歴下に駐軍しました。
 
[] 秦の李信が平輿を攻め、蒙恬(蒙武の子)が寝を攻めました。
資治通鑑』胡三省注によると、平輿は春秋時代、沈子の国でした。また、寝は楚の孫叔敖の子が邑とした寝丘にあたるという説と、孫叔敖とは関係ない固始という場所にある寝丘という説を紹介しています
秦軍は楚軍を大破しました。
 
李信は更に鄢郢を攻めて破りました。
かつて楚の都だった鄢郢の地は既に白起に占領されて南郡が置かれています。『資治通鑑』胡三省注によると、この鄢郢はかつての楚都ではなく、後に楚が都を置いた寿春が郢、その前に都とした陳が郢とよばれていたようです。もしくは、「鄢郢」ではなく「鄢陵」が正しいという説もあります。
 
李信は兵を率いて西に向かい、楚の北境に位置する城父で蒙恬と合流しました。
しかし楚人が三日三晩休むことなく秦軍の後を追い、李信に大勝して二つの楚営を占領しました。秦軍は七人の都尉が殺されます。
資治通鑑』胡三省注によると、この都尉というのは郡都尉で、兵を率いて楚討伐に従っていた者です。秦の郡には郡守、尉、監がおり、行軍する時には都尉が設けられたようです。
李信は秦に逃げ帰りました。
 
秦王は李信の失敗を聞いて激怒しました。
自ら頻陽を訪れて王翦に謝り、こう言いました「寡人が将軍の謀を用いなかったため、李信が秦軍を辱めてしまった。将軍は病だが、寡人を棄てないでほしい。」
しかし王翦は「臣は病のため将になれません」と言って謝りました。
秦王が言いました「充分だ。それ以上言うな。」
王翦が言いました「もしも必ず臣を用いるのなら、六十万人がいなければなりません。」
秦王が言いました「将軍の計に従おう。」
こうして王翦が六十万人を率いて楚を討伐します。
 
秦王は王翦を霸上まで送りました。
王翦が秦王に多数の良田美宅を求めます。
秦王が言いました「将軍は安心して行け。貧困を心配することはない。」
王翦が言いました「臣は大王の将となって功を立ててきましたが、いつまでも封侯されません。だから大王が臣を重視している今、子孫の業とするために田宅を求めるのです。」
秦王は大笑しました。
 
王翦が出発して武関に至った時、また使者を送って良田を求めました。これが五回繰り返されます。
ある人が王翦に言いました「将軍の乞貸(人に物を請うこと)は甚だしすぎます。」
すると王翦はこう言いました「それは違う。王は心が粗暴で人を信じない。今、国中の甲士を空にして私に全てを委ねたが、私が子孫の業を固めるという理由で多くの田宅を求めなかったら、王は理由もなく私を疑うだろう。」
王翦は秦王が猜疑心の強い人物だと知っていました。そこで敢えて田宅といった褒美を強く求め、権力には関心がないという態度を示しました。慎重な王翦の人柄を象徴する故事です。
 
 
 
翌年は秦王政二十三年です。
 
秦王政二十三年
224年 丁丑
 
[] 秦の王翦が楚に進攻して陳以南から平輿に至る地を占領しました。
楚人は王翦が兵を増やして攻めてきたと聞き、国中の兵を動員して対抗します。
すると王翦は営塁の守りを固めて出陣しなくなりました。楚人が何回戦いを挑んでも王翦は動きません。
 
王翦は毎日、士卒を休めて洗沐させ、豊富な飲食を与えて撫循しました。王翦自身も士卒と共に食事をします。
久しくして、王翦は部下に陣内を確認させてから、「軍中に戯(遊び)はあるか?」と問いました。
部下が答えました「投石や超距(跳躍。幅跳び)をしています。」
王翦は「このような兵なら用いることができる」と言いました。
 
楚軍が頻繁に挑発しても秦軍が動かないため、楚軍は東に引き上げました。
王翦はその後を追い、壮士に襲撃を命じて楚軍を大破します。
秦軍は蘄南まで追撃して楚の将軍項燕を殺しました。楚軍は敗走しました。
王翦は勝ちに乗じて周辺の城邑を平定していきます。
 
以上は『史記王翦列伝(巻七十三)』と『資治通鑑』の記述で、『史記六国年表』は秦の将を王翦、蒙武としており、『蒙恬列伝(巻八十八)』も「蒙武が秦の裨将軍になった。王翦と共に楚を攻めて大破し、項燕を殺した」と書いています。
 
また、『資治通鑑』は『史記楚世家』『六国年表』の記述から項燕の死をこの年に書き、翌年に楚王が捕らえられたとしていますが、『秦始皇本紀』は異なる記述をしています。以下、『秦始皇本紀』からです。
この年、秦が荊王(楚王負芻)を捕えました。秦王が郢陳を巡遊します。
楚将項燕が昌平君(二年前に秦から郢に遷りました)を荊王(楚王)に立てて淮南(または江南)で秦に反しました。
『秦始皇本紀』は項燕の死を翌年の事としています。
尚、秦が天下を統一してから反秦の挙兵をする項梁項羽の叔父)は項燕の子にあたります。
 
 
 
次回に続きます。