戦国時代127 秦王政(十三) 天下統一 前223~221年

今回で戦国時代が終わります。
 
秦王政二十四年
223年 戊寅
 
[] 秦の王翦と蒙武が楚王負芻を捕えました。負芻の在位年数は五年です。
楚の地には楚郡が置かれました。
資治通鑑』胡三省注によると、秦の三十六郡には楚郡がないので、この楚郡は楚平定後に暫定的に置かれた郡のようです。後に九江、鄣、会稽の三郡に分けられます。

こうして南の大国楚が滅亡しました。残るは遼東に逃げた燕と、趙から生まれた代、そして東方の大国斉の三国です。
 
史記秦始皇本紀』はこの年に「秦の王翦と蒙武が荊(楚)を攻めて荊軍を破り、昌平君が死に、項燕が自殺した」としています。
資治通鑑』等が項燕の死を前年に書いていることは既に述べました。
 
 
 
翌年は秦王政二十五年です。
 
秦王政二十五年
222年 己卯
 
[] 秦が大軍を動員しました。王賁に燕の遼東を攻撃させます。
燕王喜は捕えられ、燕が滅亡しました。燕王喜の在位年数は三十三年です。
 
[] 秦の王賁が遼東から兵を還して代を攻撃し、代王嘉を捕えました。代王嘉の在位年数は六年です。
代の地にも秦の郡県が置かれ、趙(代)の祭祀が完全に途絶えました。
残るは斉国一国になります。
 
[] 秦の王翦が荊(楚)の江南の地(旧呉越の地)を全て平定し、百越の君を降しました。会稽郡が置かれます。
 
[] 五月、秦が天下で大酺(祝賀の宴)を開きました。
 
[] 以前、斉の君王后(太史敫の娘。襄王の后。斉王建の母)は恭しく秦に仕え、諸侯との間にも信がありました。また、斉は東辺の沿海地区にあったため、秦から遠く離れており、秦が日々、三晋、燕、楚の五国を攻撃している間も斉王建は四十余年にわたって兵乱を受けることがありませんでした。
君王后は死ぬ前に斉王建を戒めてこう言いました「群臣の中で用いるべきは某です。」
斉王が「書き取らせてください」と言うと、君王后は「そうしなさい(善)」と言いました。
斉王は筆牘を持ってきて君王后の言葉を待ちます。
しかし君王后は「老婦は既に忘れてしまいました」と言いました。
 
君王后が死んでから(荘襄王元年249年)、后勝が斉の相になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、后氏は元々郈氏といいましたが、後に「邑(阝)」を除いて后氏を名乗るようになりました。
 
后勝は秦が斉の君臣を離間させるために贈った賄賂を頻繁に受け取りました。
斉の賓客が秦に行った時も、秦は巨額の賄賂を贈りました。斉に帰った客は秦のために発言し、斉王に秦への入朝を勧めたり、「秦に対する備えは必要ない」「五国を助けて秦を攻めてはならない」と話します。そのおかげで秦は斉に邪魔されることなく五国を滅ぼすことができました。
 
ある日、斉王が秦に入朝しようとしました。すると雍門司馬(雍門は斉の城門)が進み出て言いました「国が王を立てるのは社稷のためですか?王個人のためですか?」
斉王が答えました「社稷のためだ。」
司馬が言いました「社稷のために王を立てるのなら、王はなぜ社稷を棄てて秦に入るのですか?」
斉王は車を返して斉に戻りました。
 
即墨大夫が入朝して斉王に言いました「斉の地は方数千里にわたり、帯甲は数百万に上ります。三晋の大夫は皆、秦に仕えることを願わず、阿と甄(または「鄄」)の間に百を数える者が集まっています。王は彼等を収めて百万人の衆を与え、三晋の故地を取り戻させるべきです。そうすれば(河東に兵を向けて)臨晋の関から秦に入れます。鄢郢(楚)の大夫は秦に仕えることを願わず、南城の下に百を数える者が集まっています。王は彼等を収めて百万人の師を与え、楚の故地を取り戻させるべきです。そうすれば南陽に兵を向けて)武関から秦に入れます。その結果、斉の威を立てて秦国を亡ぼすこともできます。これは国家を保つだけの策ではありません。」
斉王は進言を採用しませんでした。
 
 
 
翌年は秦王政二十六年です。
 
秦王政二十六年
221年 庚辰
 
[] かつて秦の范睢が「遠交近攻」の方針を立てました。遠い国と結んで近い国から倒していくという策です。この策を実行した秦は斉を油断させることに成功しました。斉は秦を友好国だと信じ、秦はその間に東方諸国を併呑していきます。
前年、秦が燕と代を滅ぼし、残るのは斉国だけになりました。
そして本年、秦の王賁が燕から南下して斉を攻め、突然、臨淄に進入しました。斉の民で抵抗する者はいません。
秦は人を送って斉王を誘い出し、五百里の地に封じると約束しました。斉王は秦に降伏します。斉王・建の在位年数は四十四年です。
秦は斉王を共(地名)に遷しました。斉王は松柏の間に置かれて餓死しました。
 
以上は『資治通鑑』を元にしました。斉王に五百里の地を与えると約束して誘い出す話は『史記』には見られず、『戦国策斉策六』にあります。
 
史記秦始皇本紀』は「斉王建とその相后勝が兵を発して西界を守り、秦との関係を断った。そこで秦は将軍王賁を燕から南下させ、斉を攻めて斉王建を得た」と書いています。
しかし『田敬仲完世家』は「秦が斉を攻撃した。斉王は相后勝の計に従い、戦わずに兵を率いて秦に降った」としています。
五国が滅ぼされて斉一国だけになった時、斉王と后勝はやっと危機感を抱いて秦を警戒したのかもしれません。しかし長い間、戦争を経験しなかった斉が秦にかなうはずがなく、民にも戦意がありません。そこに秦から投降の誘いが来たため、后勝が斉王に投降を勧めたのだと思われます。
 
資治通鑑』に戻ります。
斉人は王建が諸侯と合従せず、姦人賓客による言の是非を考えずに聴き入れて国を滅ぼしたことを怨み、こう歌いました「松よ、柏よ(松と柏は斉王が餓死した場所に生えていました)、王建を共(地名)に住ませたのは賓客客卿だ(松耶,柏耶。住建共者客耶)。」
 
斉の地にも秦の郡県が置かれました。
こうして秦が六国を併呑し、天下が統一されました。
紀元前770年から約550年間続いた春秋戦国の大分裂時代が幕を閉じます。
 
但し、六国は平定されましたが、秦の附庸国となっている衛だけは野王県で存続しています。国君は角です。
衛は秦二世皇帝の時代になって完全に滅ぼされます。衛君角の在位年数は『史記衛康叔世家』では二十一年になります(秦二世皇帝元年209年)
 
 
 
次回から秦帝国に入ります。