戦国時代 范睢と蔡澤(一)
戦国時代110 秦昭襄王(一) 荀子 前255年
蔡沢は秦昭王に謁見するふりをし、人を使って范睢にこう宣伝させました「燕の客・蔡沢は天下において雄俊弘辯の知士として知られています。彼が王に会ったらあなたを追いつめてあなたの位を奪うでしょう。」
蔡沢が問いました「秦の商君、楚の呉起、越の大夫・種のような終わり方を望みますか?」
范睢は蔡沢がこの三人の例を使って引退を促そうとしていることに気づき、わざとこう言いました「なぜそれがいけないのだ?公孫鞅(商鞅)が孝公に仕えた時の様子は、終生貳慮(二心)を抱かず、公を尽くして私を顧みず、刀鋸(刑具)を設けて奸邪を禁じ、賞罰に信を置いて太平をもたらした。腹心を割り(忠心を露わにし)、情素(真情)を示し、怨咎を受け止め、旧友も欺き、魏の公子卬を奪って秦の社稷を安定させ、百姓に利をもたらし、秦のために将を捕えて敵を破り、千里の地を拡げることができた。呉起が悼王に仕えた時の様子は、私によって公を害させることがなく、讒言によって忠臣を隠されることもなく、言論は苟合(迎合)せず、行いは苟容(追従)をせず、危難に遭っても行動を変えることなく、義を行って難を避けなかった。主の覇業を成就させて国を強くするためなら禍凶も辞さなかった。大夫・種が越王に仕えた時の様子は、主に困辱があっても忠を尽くし続けて怠ることなく、主が絶亡(国を滅ぼすこと)に臨んでも能力を尽くして離れることなく、功が成っても誇らず、貴富を得ても驕怠(驕って怠慢になること)にならなかった。この三子は義の至(頂点)であり、忠の節(見本)である。だから君子は義によって死難を受けたとしても、死を帰ることとみなして受け入れ、生きて辱めを受けるより死んで栄誉を受けることを望んだのだ。士とは身を殺して名を成すのが当然であり、義さえ存在しているのなら死んでも恨まないものである。なぜ(三子のようになるのが)悪いのだ?」
蔡沢が言いました「主聖臣賢(国君が聖明で臣下が賢能であること)、これは天下の盛福(最高の福)です。君明臣直(国君が明智で臣下が実直であること)、これは国の福です。父慈子孝(父に慈愛があり、子に孝心があること)、夫信妻貞(夫に信があり妻に貞があること)、これは家の福です。かつて比干は忠心があったのに殷を存続させることができず、子胥(伍子胥)は智謀があったのに呉を守ることができず、申生は孝心があったのに晋国が乱れました。彼等は忠臣・孝子でしたが、国家が滅乱したのです。その理由は、明君・賢父がおらず、彼等の言を聞かなかったからです。だから天下はその君父を恥と思い、臣子を憐れんでいるのです。商君、呉起、大夫・種を見ると、彼等は人臣として正しい事をしました。その君が誤っていたのです。だから世の人々は『三子は功を成したのに徳(恩。報い)を見ることができなかった』と言っています。良い世に出会えず死んだことを羨む者がいるでしょうか(人々は三子の功績を称えていますが、三子の不幸を羨むことはありません)。死を待ってやっと忠を表し名を成すことができるというのなら、微子は仁というに足らず、孔子は聖というに足らず、管仲は大(偉大)というに足らなくなります。人が功を立てる時には、成全(全てが完成すること。ここでは功を立てて身も守ること)を望むものです。身と名をどちらも全うできた者は上です。名は後世の模範になっても身を殺した者は次です。名が辱められて身を全うした者は下です。」