暦について

中国古代の暦法や時間の概念、表し方等に関して、譚家健の『中国文化史概要』を元に、簡単に解説します(『中国文化史概要』の完訳ではありません。関係個所を抜粋し、一部加筆します)
 
陽暦 陰暦 閏月と閏年
中国は農業を主要な生産手段とする国なので、古人の時間に対する観念や認識は往々にして農作物の生長・成熟が基準になっています。
漢代の『説文解字』は「年とは穀物が熟すことである(年,熟穀也)」と書いており、「年」という漢字が「穀物が成熟する周期」を指すということがわかります。そしてその周期は太陽が地球を一周する周期とほぼ一致します。これが現代の太陽年です。
現代の天文学では、太陽が地球の周りを一周する周期(太陽回帰周期)を一年(太陽年)とする暦を「陽暦太陽暦」と呼び、月が満ち欠けする周期を一月(これを「朔望月」といいます。通常は、「朔」は新月の日、「望」は十五夜の日を指します)とする暦を「陰暦太陰暦」と呼んでいます。
中国は辛亥革命以降、陽暦を使うようになりました。しかし、それ以前に使っていた陰暦の方が中国の農事に即しているため、陰暦は農暦とも呼ばれるようになり、今でも中国の農事や伝統行事では主に農暦が使われています。
 
陰暦の一年は通常354日であるのに対し、陽暦の一年は通常365日なので、両者の間には十一日の隔たりがあります。
陰暦は月相(月の様子)の変化を一つの周期にして一カ月としました。しかし同時に太陽の運行周期を一年とし、しかも一年は名義上十二カ月であると定めました。
当然、354日しかない陰暦を使い続けていたら、実際の一年(太陽年)との間にずれが生じることになり、数年後には季節があわなくなります。
そこで通常の十二カ月の他に「閏月」という一カ月を作り、三年ごとに一つの閏月を置いたり、五年の間に二つの閏月を置くなどして調整を繰り返しました。試行錯誤の末、最後は十九年の間に七つの閏月を置くことになります。その結果、十九年における陰暦と陽暦の差は2時間936秒まで縮めることができました。
あくまでも基礎は陰暦ですが、太陽の周期に合わせて一年を調整するこのような暦を「太陰太陽暦」といいます。
中国の暦法では殷(商)周時代から閏月を導入しており、始めは年の終わりに閏月を置いていました。閏月がある年を閏年といい、閏年は一年が十三カ月になります。
しかし後には、閏月は不特定な月の後ろに置かれるようになりました。例えば三月の後ろに置かれたら閏三月、四月の後ろなら閏四月と呼びます。
 
 
一年の初め
古代は「三正」がありました。「正」は正月の意味で、「三正」は正月が異なる三つの暦(夏暦・殷暦・周暦)を指します。
夏暦は「建寅の月立春がある月。農暦の正月。建は北斗星の柄の部分で、建の向きが寅の方位に戻ったことを意味します。寅は東北の一定の位置です)」を歳首(一年の初め)にしました。殷(商)暦は「建丑の月(農暦の十二月)」、周暦は「建子の月冬至がある月。農暦十一月)」が歳首です。
夏商周三代の暦が異なるため、春秋戦国時代の各国の暦も統一されなくなりました。例えば晋国は夏王朝の墟(跡地)に国を建てたため夏暦を使い、宋国は殷墟(殷王朝の跡地)に国を建てたため殷暦を使い、魯国は周公の子孫の国だったため周暦を使いました。
 
秦国は三正に従わず「建亥の月(農暦十月)」を歳首にしました。これは漢代初期まで踏襲されます。
*秦の暦に関しては東周赧王五十年・前265年参照

戦国時代100 東周赧王(三十八) 趙の觸龍 前265年


しかし「建寅の月」を歳首とする夏暦が農事を行うのに最も適していたため、西漢前漢武帝元封七年(前104年)に導入された『太初暦』によって「建寅の月」が歳首に改められました(同年、太初暦を導入してから太初元年に改元されました)
その後、二千年以上にわたって「建寅の月」が歳首となりました。これが現在の旧暦(農暦)で、夏暦が基本になっているため、旧暦は夏暦とも呼ばれています。
 
上述の通り、春秋戦国時代は暦の制度が統一されていなかったため、古書に使われている暦にも違いが生まれました。例えば『春秋』や『孟子』は多くの場面で周暦を使っていますが、『左伝』『呂氏春秋』や楚辞(楚国の詩)は夏暦を多く使っています。『詩経』に至っては各地の詩を収録しているため、篇によって使われている暦が異なります。
 
 
次回は年について書きます。