日と時

譚家健の『中国文化史概要』を元に、中国古代の暦法や時間の概念、表し方等に関して簡単に解説しています。今回は「日」と「時」について書きます。
 
上古が「日」を記す時は、「初一日」「初二日」「初三日」というような数え方をせず、「天干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)」を使いました。数字を使うようになるのは後のことです。例えば夏代後期の帝王は「孔甲」「胤甲」「履癸」等といい、「甲」や「癸」が天干にあたりますが、これは帝王が生まれた日を表すといわれています。
商代の帝王名にも天干が使われていますが、商代が日を記録する時は「天干」だけでなく、「地支」も導入されました。河南省安陽小屯村から出土した殷墟の甲骨文に「六十甲子(干支による六十の組み合わせ)」が刻まれており、日付を記録する際に使われた「干支表」ではないかといわれています。
春秋時代、魯隠公三年(前720年)二月己巳に日食が発生し、史書『春秋』に書き残されました。これが中国史上で記録された最も古い日食の記録とされています。『春秋』以降、歴代の史書が干支による日付を記録し、二千年以上にわたって継承されました。
但し、民間では数字を使った日付が主に使われたようです。
 
古人にも日付の前後関係に明確な概念がありました。例えば、今日は「今」、昨日は「昨」、明日は「翌日」、明朝は「詰朝」、二日前は「前日」、過去の日は「昔」「曩者」、二日後は「後日」、明日または明日以降の近い日は「来日」と称しました。
 
 
古人は一日を細かく区切りました。
まず、空の様子で一日をいくつかに分けました。空が明るくなる頃は「昧旦」「昧爽」といい、空が既に明るくなったら「平旦」「平朔」といい、日の出の時間を「旦」「早朝」「晨」といい、太陽が真上に昇ったら「日中」「日極」「正午」「中午」といい、正午に近づいたら「隅中」といい、太陽が西に傾いたら「日昃」といい、日が沈む頃を「日曛」「日入」「日夕」「暮」といい、日が落ちてからを「黄昏」「昏」といい、完全に夜になってからを「人定」「夕」といい、寝る頃の時間を「宵」といい、深夜を「子夜」といいました。
 
古人は一日に二食しか食べないのが普通でした。
朝食は「饔」といい、日の出から「隅中」の前、だいたい現在の午前九時頃にとりました。この時間帯を「食時」「蚤食(早食)」といいます。
夕食は「飧」といい、「日昃」の後から日の入りまで、だいたい現在の午後四時頃にとりました。この時間帯を「哺時」といいます。
 
古人は一日を十二の「時辰」に分けて十二地支で表しました。
子時=夜十一時から深夜一時  丑時=一時から三時
寅時=三時から五時  卯時=五時から七時
辰時=七時から九時  巳時=九時から十一時
午時=十一時から午後一時  未時=一時から三時
申時=三時から五時  酉時=五時から七時
戌時=七時から九時  亥時=九時から十一時
です。
後に一つの時辰に「初」と「正」を設けました。例えば「子時」には「子初」と「子正」があり、「子初」は夜十一時、「子正」は十二時(零時)を指します。
 
古人は一晩を五つに区切りました。「甲夜」「乙夜」「丙夜」「丁夜」「戊夜」といい、後に「五更」に改められます。一更ごとに太鼓(更鼓)が敲かれたため、「五鼓」ともいいます。
一更は二時間で、夜七時から始まります。
一更(一鼓) 夜七時から九時
二更(二鼓) 九時から十一時
三更(三鼓) 十一時から一時
四更(四鼓) 一時から三時
五更(五鼓) 三時から五時
です。
 
古人は元々一昼夜を百刻に分けましたが、百刻では十二時辰に合わないため、後に九十六刻に改めました。八刻で一つの時辰になります。一刻は現代の十五分です。
 
 
以上で暦や年、月、日、時といった概念の解説を終わります。
(最初に書いた通り、譚家健の『中国文化史概要』を元にしましたが、完訳ではありません。省略した部分や一部表現を変えた部分があります。)