戦国時代 盗跖

春秋時代末期から戦国時代初期あたりに「跖」という「盗」が現れたといわれています。「盗」というのは、直接は「盗賊」を指しますが、もっと範囲が広く、統治者に逆らって蜂起した者も「盗」に含まれます。「跖」は通常、「盗跖」とよばれており、民衆反乱の首領とみなされています。
 
以下、楊寛の『戦国史』を参考にして簡単に「盗跖」を紹介します(『戦国史』をそのまま訳すのではなく、一部内容を添削します)
 

春秋から戦国に移り変わる頃は、軍事の支出が膨大になり、封建領主(国君、貴族)が財政難に苦しむようになりました。ところが、商品経済の発展が奢侈品や嗜好品の普及を促したため、領主貴族の貪婪な欲求は日増しに拡大し、宮殿は美しく飾られ、衣服は錦繍が選ばれ、食事は肉や魚の御馳走が好まれ、大国では百器の料理が、小国でも十器の料理が並べられるようになりました(国君の奢侈に関しては『墨子辞過篇』に詳しく書かれています)

このような奢侈贅沢は統治者階級の財政状況を更に悪化させました。そのしわ寄せは庶民(主に農民)に及ぼされます。国君や貴族は財政難を改善し、しかも奢侈な生活を満足させるために、民に対する搾取を強化しました。
墨子(辞過篇)はこう言っています「(統治者たちは)百姓に対して斂(財貨の徴収。賦税)を厚くしなければならなくなり、民から衣食の財を暴奪(強奪)した)。
民衆の苦しみはこれだけではありません。春秋戦国時代は絶え間なく戦争が続いた時代です。国君と国君の戦いだけでなく、卿大夫の間でも争いが繰り返されました。戦争に巻き込まれた民衆は命を落とし、財産を略奪される危険に曝されます。

このような状況下において、多くの民が路頭に迷って乞食物乞いとなるか、盗賊として活路を見出すようになりました。そして盗賊となった者達は統治者に対抗する闘争を繰り広げました。

 
墨子春秋戦国時代の盗賊について書いています「人々は淫暴(暴乱。「淫」は「ほしいままにする」という意味)、寇乱(攻撃、侵略)、盗賊の事を行い、兵刃(兵器)、毒薬、水火を使って罪もない者を道路率径(大小の道)で足止めし、車馬や衣裘を奪って自分の利とした(明鬼下篇)。」「天下の百姓は皆、水火や毒薬を使って害しあった(尚同上篇)。」「僻淫邪行の民(品行が悪く行動を律しない民。貧民、賎民)は外出するにも衣服がなく、家に入っても食べる物がないため、心中に奚吾(恥辱)を積もらせ、一緒になって淫暴(暴乱)を行っている。そして(統治者は)それを禁じることができない(節葬下篇)。」
墨子は民衆ではなく統治者階級の立場で「盗賊」の様子を書き残しましたが、これらの内容からも、「服もなく食べ物もない貧しい人々が協力して立ち上がり、統治者はそれを抑えることができなくなっていた」という当時の状況を窺い知ることができます。
 

呂氏春秋(孟冬紀安死)』にも記述があります「(盗賊は)多数の徒を集めて、深山や広沢、林藪で道を塞いで財貨を奪い(撲撃遏奪)、厚く埋葬された名丘大墓(陵墓となっている丘や山)を見つけたら、墳墓の近くに居を求め、隠れて盗掘して昼夜休むことがない。こうして得た利(財物)は必ず皆で分けている。」

「そのため、宋国が亡ぶ前に東冢(恐らく宋公族の陵墓)が掘られ、斉国が亡ぶ前に荘公冢(斉荘公の墓)が掘られてしまった。」

戦国史』はここでいう宋の滅亡を「戴氏による簒奪(東周顕王十五年354年参照)」、斉の滅亡を「田氏による簒奪(東周安王二十三年379年参照)」を指すと解説しています。

これらの記述から、「山沢や林藪に多くの人が集まって『盗賊』となり、財貨を求めて人を襲ったり陵墓を荒らしていた」ということがわかります。

但し、『呂氏春秋』は完全に国君貴族の立場から書かれているため、「盗賊」が生まれる原因をこう説明しています「耕稼(農業)採薪(芝刈り)の労苦を嫌い、仕官を望むこともなく(または「正しい民としてまっとうな労働をしようとせず」。原文「不肯官人事」)、美しい衣服や豪勢な食事を求めて智巧(智謀策謀)を使い尽くしても、それらを手に入れられなかったら、多数の徒を集めることになる(盗賊になる)。」

 
呂氏春秋』とは対照的に『墨子』はこう語っています「富貴の者はますます奢侈になっているのに、孤寡の者(身寄りがない者)は凍餒(凍えて餓える)しているので、乱が起きないことを願っても無理なことである(辞過篇)。」

荀子』にもこうあります「王公は上で(財貨の)不足に悩み、庶人は下で凍餒羸瘠している(飢え凍え、疲弊して痩せ細っている)。桀紂が群れとなって上におり(桀紂のような暴君が各国に君臨し)、盗賊が撃奪(攻撃略奪)して上を危うくしている(正論篇)。」

墨子』と『荀子』は、統治者の際限ない贅沢と、それによってもたらされる庶人の貧困が「盗賊」の原因であり、その結果、「盗賊」が統治者を危うくしている(脅かしている。原文「危上」)と説明しています。
 
実際、「危上」という事件は春秋時代末期から戦国時代にかけてしばしば発生したようです。
例えば、東周威烈王六年(前420年)、晋幽公が夜間に外出して盗(盗賊)に殺されたという事件がありました。
威烈王二十四年(前402年)には楚声王も盗に殺されています。
これらの事件は詳細が伝わっていませんが、困窮した民衆が「盗賊」となって国君を害した事件であるとも考えられます。
 
 
前置きが長くなりました。
以上のような原因により、各地で盗賊が発生しました。その代表が「盗跖」です。

荘子雑篇』に「盗跖篇」があり、盗跖を柳下恵の弟としています。柳下恵は春秋時代の魯の臣で、展禽、柳下季とも書かれます。しかし荘子は柳下恵を孔子の友人としています。実際は柳下恵と孔子の間には百年以上の隔たりがあるので孔子が後です)、「孔子と柳下恵は友人で、柳下恵の弟は盗跖」という『荘子』の記述はあてになりません。

しかし『荘子』が述べる盗跖の事績は、誇張があるとしても事実を反映しているはずです。以下、抜粋します「盗跖は卒(兵)九千人を率いて天下を横行し、諸侯を侵暴した。戸を破って部屋を破壊し(穴室枢戸)、人や牛馬を駆けさせて他人の婦女を奪った。貪婪なため、親族も忘れて父母兄弟を顧みることもなく、先祖の祭祀も行わない。彼が通った邑では、大国(大邑)は城を守り(城壁に兵を連ねて守備を固め)、小国(小邑)は中に入って安全を保った(人々は城壁の中に入って通り過ぎるのを待った)。万民がこれを苦とした。」
 
荘子』以外にも『孟子』『荀子』『呂氏春秋』『韓非子』等が「盗」の代表として「跖」に触れています。
孟子』は「蹠(跖)の徒」を「利に励む者(孳孳為利者)」と評しており、「善に励む者(孳孳為善者)は舜の徒」として、理想の人物(帝舜)と対比させています(尽心篇)

荀子』は「桀盗跖(勧学篇)」「桀(栄辱篇)」というように、盗跖を暴君と並列しています。

呂氏春秋』は「仁人が飴を得たら病人を養って老人に仕えるが、跖と蹻(荘蹻。戦国時代、楚国の盗賊)が飴を得たら閉じられた門の鍵を開けるために使う(原文「以開閉門取鍵。」溶けた飴を門の鍵に塗り付けて滑りやすくし、音を立てずに門を開いたようです。『孟冬紀異用』)」と書いています。

韓非子』も法家の観点からこう書いています「人主が法から離れて人心を失ったら(略)、田成(詳細は分かりません)や盗跖の禍から逃れられなくなる(守道篇)。」
これらの内容から、「盗跖の禍」は実際に発生した事件であり、「盗跖」は統治者にとって敵対する存在だったことがわかります。
 
「盗跖」の名は戦国時代の書籍から頻繁に見られるようになりました。そのため、春秋時代にはまだ存在しておらず、戦国時代に入ってから、それも墨子より後の時代になって現れた人物ではないかと考えられています。
 

盗跖は群衆を指揮するにあたって「聖仁」という行動の規範を提唱しました。

呂氏春秋(仲冬紀当務)』が盗跖の言葉としてこう書いています「室内に隠された物を妄意(推測)し、実際に当てることを聖(事理に精通していること。聡明)という。人よりも先に入ることを勇という。後から出ることを義という。時を知ることを智という。均等に分けることを仁という。この五者に通じていないのに大盗と成れた者は、今まで天下に存在したことがない。」

盗跖はやみくもに盗みをはたらくのではなく、狙った物がどこにあるのか、行動するべき時かどうか(成功の機会があるかどうか)を見極めてから動きました。そして実際に行動する時は、先に進んで後から退くことを奨励し、成功したら利益を分け合いました。
単なる烏合の衆ではなく、一定の規律があったようです。『荘子』が「卒九千人」と書いているように、軍隊に匹敵する組織を持っていたのかもしれません。
 

荀子(不苟篇)』は盗跖についてこうとも書いています「盗跖は吟口(口吃。どもり)だったが、名声は日月のようで(盗跖の名声は知らない人がなく、日月のように崇められており)、舜禹と一緒に語り継がれて絶えることがない。しかし君子が彼を貴ばないのは、礼義の中(中道。正道)にいなかったからだ。」

統治階級にとって盗跖は礼義(礼節道理。社会規範)を無視した存在でした。そのため荀子は「君子(知識人。統治者)は盗跖を貴ばなかった」としています。しかし一方では日や月のように、もしくは舜禹のように盗跖の名声は語り継がれていました。民衆にとっては盗跖の存在がとても偉大なものだったようです。

上述した『荘子雑篇(盗跖)』は盗跖の容貌をこう語っています「身長は八尺二寸、顔にも目にも光があり、唇は激丹(丹砂)のように赤く、歯は貝が規則正しく並んでいるようで、音(声)は黄鐘(鐘の一つ)を打ったように響く。」

ここに描かれた盗跖は賎しい小人ではなく、人々の尊敬を集める英雄豪傑の姿をしています。
 
盗跖が具体的にいつの人物だったのか、主にどのあたりで行動していたのか等、詳しいことは全く分かっていません。しかし盗跖やそれに類似する勢力が統治者に脅威を与えており、逆に民衆からは一定の支持を得ていたというのは確かなようです。

荘子』は「(盗跖の侵暴を)万民が苦とした」と書いています。争いが起きれば民衆に被害が及びます。盗跖が民衆に支持された群盗の領袖だったとしても、多数の人が盗跖の「侵暴」「寇乱」に巻き込まれ、それを苦としていたはずです。それでも盗跖は民間で舜禹のように語り継がれました。

明代の小説『水滸伝』は腐敗した統治者と戦う好漢達の物語として長く人気を博しています。戦国時代の民衆が盗跖に対して抱いていた感情も、後生の人々が『水滸伝』の好漢達に抱いた感情と共通している部分があるのかもしれません。