諸子百家 儒家・孔子と孟子
参考にするのは譚家健の『中国文化史概要』です(『中国文化史概要』の完訳ではなく、抜粋添削します)。
まずは儒家について書きます。
没落した貴族の家に生まれ、中年になってから政治に参与したこともありましたが、生涯の大半は弟子の教育に努めました。
「周礼」から離れて新しい政治体系を造ろうとする改革派は、孔子にとって許容できないものでした。
もちろん、孔子はあくまでも「周礼」の回復を願っていたため、「仁」も万民平等な愛ではなく、身分差がある愛でした。例えば、君子は臣下を大切にし、臣下は君子に忠誠を誓うという君臣間の愛(君仁臣忠)、父は子を慈しみ、子は父に孝を行うという父子間の愛(父慈子孝)、夫は義(道義)を守り、妻は夫の言を聴くという夫婦間の愛(夫義妻聴)というように、人々の立場や相手によって愛の形も変わりました。
哲学思想の上では、孔子は一方で天命思想を語りながら一方で天命の存在を否定するような発言もしています。例えば「畏天命(天命を畏れる)」「死生有命,富貴在天(死生、富貴は天命によって決まる)」と言うこともあれば、「天何言哉。四時行焉,万物生焉(天が何を言うのだ。四季は自然に移り変わり、万物も自然に生まれるものだ)」とも言っています。
鬼神に対しても同じで、「敬鬼神而遠之(鬼神を敬って遠ざける)」と言ったかと思えば、「不語怪力乱神(怪力乱神について語ることはない)」という姿勢も見せました。
孔子は天命や鬼神の存在を明確に否定したわけではありませんが、天命や鬼神が人々に対して大きな影響を与えることもないと考えており、鬼神にすがるよりも現実社会での行動を重視するべきだと主張しました。天命や鬼神が普遍的に信じられていた当時において、極めて進歩的な思想だったといえます。
孔子の認識論も二面性を持っています。一方では「生而知之者上也。学而知之者次也(生まれながらに知っている者は上である。学んで知ることができる者は次である)」と言いながら、一方では生まれながらに知ることができる者は存在しないと考え、自分自身についても「我非生而知之者。好古,敏以求之者也(私は生まれながらに知っている者ではない。古を好み、追及することに勤勉な者なのだ)」と言っています。
更に「性相近也,習相遠也(性は互いに近く、習は互いに遠い)」と言っています。「人が持つ性(本性。資質)はそれほど変わりないが、学ぶことによって遠く差が生まれる」という意味です。
孔子は、人の性は後天的な環境や学習によって変えることができると信じていました。高貴な家庭に生まれた諸侯や貴族だけでなく、貧賎な家庭の子弟でも教育によって徳行の人になれる、という信念があったので、「有教無類」という概念を確立します。教育を受けるにあたって身分の差は関係ない、という意味です。そのおかげで教育者としての孔子は身分の等級を越えて幅広い人々に教育の機会を与えることができました。
学生が自ら問題を発見し、自ら努力して解決に向かおうとしなければ、学生に答えを教えることはありません。
学生が一つのことを学んでから、その知識を二つや三つのことに発展できなければ、本当に学んだことにはならないと考えました。
孔子はとても博識な人物でしたが、それでも自分の知識が足りないと思っており、弟子達にこう教えました「知之為知之,不知為不知,是知也。」
「知っていることは知っている、知らないことは知らない、これをわきまえていることが本当の知るということである」という意味です。孔子自身も自分の博学に満足せず、自分が何を知らないかを把握して、学問に励んだはずです。
孔子にとって、どのようの人でも自分の師になることができました。自分にやる気さえあればどこからでも学ぶことができるのです。有名な言葉があります「三人行,必有我師焉。択其善者而従之,其不善者而改之(三人いれば必ず我が師となる者がいる。善い所を選んで従い、不善な所を見つけて改めればいい)。」
孔子は学ぶだけでなく思考することも大切だと考えました。しかし逆に思考するだけで学ばなければ、やはり成果はありません。「学而不思則罔,思而不学則殆(学んでも思考しなかったら困惑するだけで成果はなく、思考しても学ばなかったら疲れるだけでやはり成果がない)。」
このような孔子の考え方は現代においても大きな意義があります。
そのため、国君として相応しくない人物が君臨したらその地位を奪われても当然だと説きました。「君有大過則諫,反復之而不聴,則易位(国君に大きな過失があったら諫め、諫言を繰り返しても聴かなかったら位を換える)」「諸侯危社稷,則変置(諸侯が社稷を危うくしたら、国君を換える)」等の言葉が残されています。
孟子は君臣の関係についてもこう語りました「君之視臣如手足,則臣視君則腹心。君之視臣如犬馬,則臣視君則国人。君之視臣如土芥,則臣視君則寇仇(国君が臣下を自分の手足とみなして大切にするのなら、臣下は国君を腹心(心臓と腹部。大切な中枢)とみなす。国君が臣下を犬馬とみなすのなら、臣下は国君をただの国人とみなす。国君が臣下を土芥とみなすのなら、臣下は国君を仇敵とみなす)。」
孔子は君臣間の仁と忠を説き、そこには無条件な主従関係が存在していました。しかし孟子は君臣の間にも相対的な関係があると考えました。孔子と大きく異なる点です。これは孟子が生きた時代にはますます周王室の権威が失墜しており、「周礼」が既に通用しなくなっていたことを反映しています。
孟子は統治者と被統治者との関係をこう考えました「或労心,或労力。労心者治人,労力者治于人。治于人者食人,治人者食于人,天下之通義也(人には心を労す者(頭を使う者)と力を労す者(体を使う者)がおり、心を労す者は人を治め、力を労す者は人に治められる。人に治められる者は人を食べさせ、人を治める者は人に食べさせられる。これは天下の通義である)」。
労働には頭脳を使うものと体力を使うものがあります。孟子は頭脳を使う者が統治者、体力を使う者が被統治者になり、被統治者は生産活動を行って統治者を食べさせ、被統治者は統治者がいるおかげで生産活動ができると考えました。
上の者と下の者は絶対的な主従関係にあるのではなく、相互に依頼して成り立っているという考え方を表しています。
まず、「惻隠之心,仁之端也。羞悪之心,義之端也。辞譲之心,礼之端也。是非之心,智之端也」と言っています。
「惻隠之心」は人を憐れみ同情する心、「羞悪之心」は悪事を恥と思う心、「辞譲之心」は謙遜、謙譲する心、「是非之心」は是非をわきまえる心で、これら四つの心は仁、義、礼、智の端(始まり)だという意味です。
そして孟子は、「四端」は人の四肢と同じように、生まれた時から誰にでも存在すると考えました。人に善悪の違いがあるのは生まれた時の性(本性、資質)が異なるからではなく、成長の過程において四端を発展させることができず、生まれ持った性を失ってしまったからだと主張します。これが「性善論」です。
孟子は生まれながらに存在する能力があるとも言っています「人之所不学而能者,其良能也。所不慮而知者,其良知也(人が学ばなくてもできるのは、良能によるものである。人が考えなくても知ることができるのは、良知によるものである)。」
「良能」は天賦の能力、または本能、「良知」は天賦の観念、才能という意味です。
しかし先天的な才能だけでなく、後天的に得る知識も重視しています。孟子はこう考えました「耳目之官不思(耳目のような器官は思考できない)」「心之官則思,思則得之。不思則不得也(心の器官は思考するものであり、思考すれば得られる。思考しなければ得られない)。」
人は生きている間に様々な事象を見聞きしますが、それだけでは本当の知識や知恵を得ることはできません。知識や知恵を得るには思考が必要だ、と孟子は言っています。
次回は道家です。