諸子百家 墨子

今回は墨子です。
 
墨子墨家学派の創始者で、名を翟といい、魯国の人です。
「賎人(庶民。身分が低い者)」の出身で、かつては木匠でしたが、後に各国を周遊して学説を唱えました。多数の門徒を抱え、しかも厳密な組織を形成するようになります。多くの門徒が下層階級の出身でした。
墨翟の教えは『墨子』という書にまとめられていますが、墨翟本人の手によるものではなく、弟子が編纂したものだといわれています。
 
墨子は「兼愛」「非攻」「尚賢」「尚同」「節葬」「節用」「非楽」「非命」「尊天」「明鬼」という十の主張をしました。
墨子は、天下が混乱して民衆が困苦にあえぐ原因は「交相悪(互いに憎しみ合うこと)」にあると考えました。そこから「兼相愛,交相利(互いに愛し合い、互いに利をもたらす)」という「兼愛」の思想が生まれます。具体的には「有力者疾以助人,有財者勉以分人,有道者勧以教人(力がある者は速やかに人を助け、財がある者は人に分けるように勉め、道がある者は人に教えることを勧める)」と言っています。
人々が愛し合うことができれば、天下は太平になるという考えです。
「兼愛」が目指したのは身分や関係を無視した平等な愛でした。
これに対して儒家が説く「愛」は立場や身分によって愛の形式に差がありました。儒家の愛を「愛有差等」といいます。孟子墨子の兼愛を「無父(父と子の秩序もない状態)」と批難しました。
 
墨子は「兼愛」の思想を原点にして「非攻」を説きました。侵略戦争や兼併戦争に反対するという意味です。但し、防御の戦いや無道な相手を誅伐する戦いは積極的に支持しました。
政治においては「尚賢」を説きました。貴族階級の世襲に反対し、賢才があれば誰でも尊重するという意味です。墨子は「兼愛」が実行されれば身分に関係なく賢才を用いることができ、「農工商肆(商人)之人」でも官位に就けると考えました。墨子はこう言っています「官無常貴,民無終賎,有能則挙之,無能則下之(官に就いた者がいつまでも尊貴の地位にいるとは限らず、民として生まれた者が一生卑賎な身分で終わるとも限らない。能力があれば登用し、能力がなければ退ける)。」
 
墨子は天下泰平のために「尚同」を主張しました。思想を統一し、政令を統一するという意味です。墨子はこう言いました「上之所是,必皆是之(上が是とすることは、皆が是とするべきだ)」「上之所非,必皆非之(上が非とすることは、皆が非とするべきだ)」「天下之百姓皆上同于天子(天下の百姓は皆、上は天子と同じでなければならない)。」
但し墨子は、無条件に天子に従うのではなく、天子も上天(天帝)の意志に則らなければならないと唱えました。これは小規模な手工業者等、生産に携わる庶民が分裂を嫌って統一を望んでいたことを反映しています。
 
墨子は質素倹約を主張し、儒家が説く煩雑な儀礼や厚葬に反対しました。当時、音楽は礼の一部とされていましたが、墨子は音楽も奢侈浪費をもたらすものとみなしました。これが「節葬」「節用」「非楽」です。
 
墨子は事象の認識において、視聴覚といった客観的な経験を絶対的なものとしました。「聞之見之,則必以為有。莫聞莫見,則必以為無(聞いたり見たりしたものは必ず存在する。聞いたことも見たこともないものは必ず存在しない)」です。
ここから命(天命)の存在を否定してこう言いました「自古以及今,生民以来,亦嘗見命之物,聞命之声音乎。則未嘗有也(古から今に至るまで、民が生まれて以来、命というものを見て、命というものの声音を聞いた者がいるかか?命を見た者も聞いた者もいないのだから、命が存在したことはない)。」
こうして「非命」が説かれます。墨子は天命に左右されるのではなく、自分の努力によって生活環境を変えることができると主張しました。
 
墨子は、真理を追究する時、三つの原則が必要になると考えました。「本」「原」「用」です。
「本」は「上本之于古者聖王之事(上は古の聖王の事績を本とする)」で、歴史に残された記述が判断の基準になります。
「原」は「下原察百姓耳目之実(下は百姓の耳目による実際の経験を元に推察する)」で、群衆の感情が判断の基準になります。
「用」は「発以為政刑,観其中国家百姓人民之利(実際に政令や刑罰を発することで、国家百姓人民の利になっているかどうかを観察する)」で、政令や刑罰といった政治上の実践が是非を判断する基準になります。
「本」は書籍伝聞等による間接的経験、「原」は民衆の直接的経験、「用」は実践を通して得た効果です。
このような認識方法を「三表法」といいます(「表」は恐らく「標準」「基準」の意味です)
墨子は名と実がかけ離れていることにも反対し、「取実予名(実を取って名を与える)」と言う原則を主張しました。
これらの考え方はとても進んだものでしたが、感性における経験を重視し過ぎて理性による思考を軽視する傾向があったため、伝聞や幻覚といった「経験」まで真理としてしまうことがありました。例えば古書に鬼神の記述があれば、現実の世にも鬼神が存在すると信じました。そのため、一方では「非命」を主張しているのに、もう一方では「尊天(天を崇めること)」「明鬼(鬼神を明らかにすること)」の重要さも説くという矛盾が並存することになりました。
 
墨子は論理学において「類(事物の種類)」「故(原因。理由)」「悖(矛盾)」といった概念を明確にし、「辟(比喩)」「侔(比較)」「援(引証)」「推帰納推理)」等の論証方法を打ち立てました。実際にこれらを使って弁論を行っています。
 
墨家学派は戦国時代に興隆し、儒家と均等する勢力をもちました。墨家儒家は「顕学(時代を代表する学問)」として併称されます。
しかし後期の墨家は宗教的色彩を濃厚にしていきました。秦代を経て漢代に入ると急速に衰えていきます。
後期墨家幾何学や化学等の方面でも功績を残しており、『墨経』という書に書き残されています。
 
 
次回は法家です。

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