諸子百家 その他

今回は名家、兵家、陰陽家、雑家について簡単に書きます。
 
まずは名家です。
名家の代表は戦国時代中期の公孫龍で、『公孫龍子』という書が残されています。
公孫龍は事物の対立・分離を強調しました。
もう一人の代表を恵施といい、『恵子』という書があったといわれていますが、早くに散逸しました。恵施は事物の統一性を強調しました。
二人が打ち出した概念は論理学において大きな影響をもたらしましたが、あまりにも誇張した理論が実態からかけ離れ、詭弁とみなされることもあります。
二人については東周赧王十七年(前298年)に触れたので、ここでは詳述を避けます。
 
次は兵家です。
兵家の代表は春秋時代末期の孫武で、『孫子兵法』を残しました。
孫武は「兵者国之大事(戦とは国の大事である)」と考え、勝機が乏しい軽率な戦争に反対し、「知己知彼,百戦不殆(自分を知って相手を知れば百戦しても危うくない)」と説きました。
「自分と相手の衆寡、強弱、虚実、攻守、進退といった状況を分析し、全体の形勢を把握してから、戦争の規律・法則を利用して不利な状況を有利な状況に転換する。」「必ず相手より優位に立って勝利を導き出す。」これが孫子の兵法です。
孫武は「因勢利導(形勢を利用して利を導く)」「奇正相生(奇と正は換わりあう)」「攻其不備,出其不意(相手の不備を攻め、不意を突く)」等の理論を提唱しました。これらの考え方は軍事だけでなく思想哲学や政治経済においても大きな啓発をもたらしました。
 
次は陰陽家です。
陰陽家の代表は戦国時代末期の鄒衍です。
鄒衍は古代の陰陽五行説を発展させ、人々の世界は木・火・水・金・土という五種類の要素(五徳)に支配されていると考えました。鄒衍によると五徳は交互に万物事象を主宰します。これを「五徳始終」「五徳転移」の説といい、社会に変動が起きる原動力とみなされました。
例えば王朝の盛衰にも五徳が当てはまり、木徳の王朝(夏)が徳を失ったら金徳の王朝(商殷)が興隆し、金徳の王朝が徳を失ったら火徳の王朝(周)が興隆すると見なされました。
鄒衍は「大九州」「小九州」の説も称えました。全世界には大きな州が九つあり(大九州)、中国はその内の一つに過ぎません。そして中国も九つの州に分けられます(小九州)。大九州はそれぞれ大海で囲まれていると考えました。
鄒衍が著したとされる『鄒子』は早くに失われましたが、陰陽五行説は後の中国哲学に大きな影響をもたらしました。
 
最後は雑家です。
雑家の代表は秦の呂不韋とその門客によって編纂された『呂氏春秋』です。『呂氏春秋』の目的は、各家各派の学説から優れた部分を選び出し、全て融合させて完成した思想体系を形成することにありました。
そのため、儒家墨家、名家、法家の主張を兼ね合わせて、更に道家、兵家、農家、陰陽家の学説も広く取り入れました。その結果、どの学派にも属さなくなり、「雑家」として一つの独立した存在とみなされるようになりました。
先秦時代の『尸子』や漢代初期の『淮南子』も『呂氏春秋』に近いため、雑家に入れられています。
 
 
以上、諸子百家の紹介でした。