秦楚時代1 秦始皇帝(一) 皇帝誕生 前221年(1)

秦王政二十六年(前221年)、秦が天下を統一しました。今回から秦帝国に入ります。
 
姓は嬴、名は政といい、秦荘襄王の子です。
 
始皇帝二十六年
221年 庚辰
 
[] 秦王政は天下を併合してから、自らの徳が三皇を兼ね、功が五帝を越えていると考えました。そこで戦国時代に各国の君主が名乗っていた「王」という称号を使わず「皇帝」と号すことにしました。
 
資治通鑑』胡三省注はここで三皇五帝について複数の説を紹介しています。
伏羲神農黄帝を三皇、少昊顓頊高辛唐堯虞舜を五帝とする説。
伏羲神農燧人を三皇、黄帝顓頊帝嚳唐堯虞舜を五帝とする説。
三皇は伏羲女媧神農の三人。五帝とは徳が五帝座星に符合する帝を指し、実際は黄帝金天氏高陽氏高辛氏陶唐氏有虞氏の六人がいるが、五帝座星に合わせるため五帝と称することになったとする説。
三皇を伏羲神農祝融とする説です。
帝とは天の別名で、皇は美大な名であり、帝より大きいことを表すようです。
 
皇帝となった政は皇帝の命を「制(制度に関する命令)」、令を「詔(皇帝が臣民に告げる言葉)」と呼ぶことにしました。
皇帝は臣民の前で自分を「朕」と称します。『史記秦始皇本紀』の注釈(集解)によると、古くは貴賎に関係なく身分が低い者も「朕」と称していました。しかし秦代になって「朕」は天子の自称と定められました。
 
荘襄王を追尊して太上皇にしました。『資治通鑑』胡三省注によると、「太上」とは「極尊」を示す称号です。
 
皇帝政が制を発して言いました「(天子が)死んでから生前の行動を根拠に諡号を贈るのは、子が父を議し、臣が君を議すことであり、全く道理がない(甚無謂)。よって今後は諡法を除くことにする。朕は始皇帝となり、後世は代数によって計れ。二世、三世から万世に至り、無窮に伝えよ。」
こうして秦の始皇帝が誕生しました。始皇帝秦帝国だけでなく、中国史における最初の皇帝となりました。
 
なお、『諡法』というのは西周の周公旦によって作られたといわれています。帝王が死ぬと生前の行動の善悪によって諡号が定められました。秦始皇帝諡号を排除したのは後人によって悪諡をつけられることを恐れたからだともいわれています。
 
以上は『資治通鑑』の記述を元にしました。『史記秦始皇本紀』は皇帝を名乗る経緯を詳しく書いています。
秦が天下を統一したばかりの時、秦王政が丞相や御史に命じて言いました「異日(過日)、韓王が地を納めて璽を献上し、藩臣になることを請うたが、すぐに約に背いて趙、魏と合従し、秦に叛した。だから兵を起こして韓を誅し、その王を虜にした。寡人はこれを善と思い、兵革(武器。戦争)を休めることができたと考えた。趙王がその相李牧を送って約盟したから、質子(人質)を帰国させた。しかしすぐに盟に背き、我が太原で反した。よって兵を興して趙を誅し、その王を得た。趙公子嘉がなお自立して代王になったから、兵を挙げて撃滅した。魏王は始めは服従を約束して秦に入ったが、すぐ韓、趙と謀って秦を襲った。よって秦の兵吏が魏を誅して破った。荊王(荊は楚国。荘襄王の名が子楚だったため、避諱して荊と呼びました)は青陽以西を献上したが、すぐ約に叛して我が南郡を撃った。よって兵を発して荊を誅し、その王を得て荊の地を平定した。燕王は昬乱であり、その太子丹が秘かに荊軻に命じて賊とした。よって兵吏が燕を誅してその国を滅ぼした。斉王は后勝の計を用いて秦使を絶ち、乱を為そうとした。よって兵吏が斉を誅してその王を虜にし、斉の地を平定した。寡人は眇眇(些少。取るに足らないこと)の身をもって、兵を興して暴乱を誅し、宗廟の霊のおかげで六王を全てその辜()に伏させ、天下を大定させることができた。今、名号を改めなければ成功を称して後世に伝えることができない。帝号について議論せよ。」
丞相王綰、御史大夫馮劫、廷尉李斯等が言いました「昔、五帝の地は方千里に過ぎず、その外の侯服夷服諸侯が朝見するかどうかは、天子には制御できませんでした。今、陛下は義兵を興して残賊を誅し、天下を平定しました。海内は郡県となり、法令は一つにまとめられています。これは上古以来いまだなかったことで、五帝でも陛下には及びません。臣等は謹んで博士と議論し、こう話しました『古には天皇地皇泰皇人皇がおり、泰皇が最も貴い。』そこで、臣等は死を冒して尊号を献上します。王は『泰皇』と号すべきです。また、命を『制』とし、令を『詔』とし、天子の自称を『朕』としましょう。」
秦王が言いました「『泰』を去って『皇』を留めよう。上古で位を表した『帝』の号を採用し、『皇帝』と号すことにする。その他のことは議の通りとする。」
秦王政が制を下して「可」と言いました。群臣に対して皇帝が述べる言葉を「制」といい、「可」は「採用」を意味します。
その後、荘襄王を追尊して太上皇とし、制を発して言いました「朕は太古には号があるだけで謚はなかったと聞いている。しかし中古には号ができ、死んだら生前の行いによって謚が贈られるようになった。これでは子が父を議し、臣が君を議すことになるので、全く道理が無い。よって朕は諡号を採用しない。今後は謚法を除き、朕は始皇帝となる。後世は数によって計れ。二世三世と数えて万世に至り、無窮に伝えよ。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
かつて斉威王、宣王の時代、鄒衍が「終始五徳の運」という説を唱えました。
以下、『資治通鑑』胡三省注を元に簡単に解説します。
五徳(五行)とは木、火、土、金(金属)、水という五つの物質がもつ徳性(性質)で、古代中国ではこの五つの物質があらゆる事物現象の根源になっていると考えられてきました。
「終始五徳の運」とは、五徳(五行)が順番に興隆し、途絶えることなく循環するという説です。
鄒衍は「五行相克(次の徳が前を徳に打ち克って交代するという考え方)」を基本にして王朝の交代を解説しました。まず帝舜を土徳の帝王と定めます。「五行相克」では木徳が土徳に克つので、帝舜を継いだ夏王は木徳になります。同じように金徳が木徳に克つので、夏王を継いだ商王は金徳になり、火徳が金徳に克つので商王を継いだ周王は火徳になります。
漢代になると「五行相生(一つの徳が次の徳を生むという考え方)」の考え方から王朝交代が説明されるようになりました。
まず伏羲を木徳の王とみなします。「五行相生」では木徳が火徳を生むので、伏羲を継いだ神農が火徳の王に当たります。同じように火徳は土徳を生むので、神農を継いだ黄帝が土徳の王に当たり、土徳は金徳を生むので黄帝を継いだ少昊が金徳の王に当たり、金徳は水徳を生むので少昊を継いだ顓頊が水徳の王に当たり、水徳は木徳を生むので顓頊を継いだ帝嚳が木徳の王に当たります。帝嚳によってまた木徳に戻ったことになります。
その後も、帝嚳を継いだ帝堯は火徳の王、帝堯を継いだ帝舜は土徳の王、帝舜を継いだ夏王は金徳の王、夏王を継いだ商王は水徳、商王を継いだ周は木徳の王になります。
 
始皇帝が天下を併合してから、斉人が鄒衍の学説を上奏しました。
始皇帝はこの説(五行相克)を採用し、火徳の周に代わった秦は、水徳が火徳に克つので、水徳の国と位置付けました。
 
史記封禅書』にはこういう記述があります。
始皇帝が天下を統一してから、ある人が言いました「黄帝は土徳を得て、黄龍地螾が現れました。夏(王朝)は木徳を得て、青龍が郊に止まって草木が茂りました。殷商王朝は金徳を得て、銀が自ずから山に溢れました。周は火徳を得て、赤烏の符がありました。今、秦が周に代わりましたが、水徳の時です。昔、秦文公が狩りに出た時、黒龍を獲ました。これは水徳の瑞祥です。」
秦は黄河を徳水に改名しました。
 
始皇帝は五徳の思想によって秦帝国の存在を正統化しようとしました。五徳による新政権の権威付けはこの後の歴代王朝にも継承されていきます。
 
資治通鑑』に戻ります。
始皇帝は周暦を改めて全国で秦暦を用いさせました。
新年の朝賀は十月朔(夏暦の十月朔。東周赧王五十年265年参照)に行うことになります。
また、黒が水徳を象徴する色とされたため、衣服も旌旄も節旗も全て黒を尊んで使用することになり、水徳の数とされる六が一つの紀(単位)とされました。
『秦始皇本紀』によると、符や法冠が六寸になり、輿の幅(車輪の距離)が六尺に統一され、六尺を一歩とし(これ以前の一歩には諸説があるようですが、『集解』は『礼記王制』から「古は八尺が一歩」という説を紹介しています)、一乗を六頭の馬にしました(乗は車を牽く馬の単位で、周代の一乗は四頭の馬でした)
更に、黄河を徳水に改名し(上述)、水徳の始()としました。
 
始皇帝はこう考えました「剛毅戻深(強硬で厳酷なこと)な態度で事に当たり、全て法に基づいて採決するべきだ。刻削(苛酷)で仁恩和義がなくなれば五徳の数(命数。原理)に一致できる。」
『索隠』によると水は陰を主宰し、陰は刑殺を象徴します。始皇帝五行思想を刑罰を重視する政策の根拠としました。
この後、秦はますます過酷な法を行い、罪を犯して久しくなる者でも赦しませんでした。
 
 
 
次回に続きます。

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