秦楚時代2 秦始皇帝(二) 始皇帝の政治 前221年(2)

始皇帝二十六年の続きです。
 
[] 『史記秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
丞相王綰等が始皇帝に言いました「諸侯を破ったばかりで、燕、斉、荊(楚)の地は遠いので、王を置かなければ鎮められません。諸子を立てることを許可してください。」
始皇帝は群臣に命じて分封を議論させました。
群臣は分封に便があると考えましたが、廷尉(法官)李斯が反対して言いました「周文武(文王と武王)は多数の子弟や同姓を封じましたが、後代の者は互いに疏遠になり、仇讎のように攻撃し合い、諸侯が互いに誅伐するようになっても、周天子はそれを禁止できませんでした。今、海内は陛下の神霊によって一統(統一)され、全て郡県になりました。諸子や功臣は公の賦税によって重く賞賜を与えれば容易に制御でき、天下に異意(謀反の野心)がなくなります。これこそ安寧の術です。諸侯を置くのは便がありません(相応しくありません)。」
始皇帝が言いました「天下は共に休みない戦闘に苦しんできたが、これは侯王の存在が原因だった。今、宗廟のおかげでやっと天下を平定できたのに、再び国を立ててしまったら、兵乱を育てることになり(是樹兵也)、寧息を求めても得られるはずがない。廷尉の議が是である(李斯の意見が正しい)。」
こうして天下が三十六郡に分けられ、各郡に守、尉、監(監御史)が置かれました。郡守は郡の政治を行い、郡尉は郡守を補佐して軍事を担当し、監は郡内を監察します。
 
史記集解』と『資治通鑑』胡三省注によると、三十六郡とは三川、河東、南陽、南郡、九江、鄣郡、会稽、潁川、碭郡、泗水、薛郡、東郡、琅邪、斉郡、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東、代郡、鉅鹿、邯鄲、上党、太原、雲中、九原、雁門、上郡、隴西、北地、漢中、巴郡、蜀郡、黔中、長沙の三十五郡と内史になります。
史記正義』によると、周の制度では天子は方千里を治め、百県に分けました。一県には四郡があります。よって『左伝』では上大夫が県を受けとり、下大夫が郡を受け取っています。しかし秦始皇帝が三十六郡を置いてからは、郡が県を監督することになりました。
 
分封制によって建てられた諸侯の国は半独立状態にありましたが、郡県は中央政府に直属します。三十六郡の設置は封建制から中央集権制度への大きな変革となりました。
 
資治通鑑』にはありませんが、『秦始皇本紀』によると、この時、民を「黔首」を呼ぶことにしました。「黔」は黒の意味です。
また、天下で大酺(祝賀の宴)を開きました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
始皇帝は天下の兵器を首都咸陽に集めました。
『秦始皇本紀集解』によると当時の兵器は銅でできています。
全国から集められた兵器は全て溶かされ、鍾と鐻(鐘を懸ける台)および金人(銅像)十二体が造られました。金人はそれぞれ重さ千石もあり、宮庭に置かれました。
資治通鑑』胡三省注によると、当時、臨洮に十二人の大人(巨人)が現れました。身長は五丈、足は六尺もあり、十二人とも夷狄の服を着ています。兵器を溶かして造られた十二人の像は臨洮の大人を象徴していたため、「金狄」と呼ばれました。
史記』の注釈にも金人について書かれています。
『索隠』と『正義』によると、始皇帝二十六年(本年)、十二人の長人(大人。巨人)が臨洮に現れました。身長は五丈、足の履物は六尺もあり、皆、夷狄の服を着ています。そこで兵器を溶かして金人を鋳造しました。銅人(金人)には翁仲という名があったようです。
また、銅人十二体はそれぞれ重さ三十四万斤(または二十四万斤)もあり、漢代には長楽宮の門前に置かれたともいいます。東漢末に董卓が十体を破壊して金銭としました。二体は残されて清門裏に遷されます。魏明帝が洛陽に運ぼうとしましたが、重いため霸城で動けなくなりました。
東晋十六国時代になってから、石季龍(石虎。後趙武帝が鄴に運びました。しかし苻堅前秦宣昭帝)がまた長安に戻して溶解しました。
 
[] 『史記秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
始皇帝は法制と度(長短)、衡(重量)、石(容量)、丈尺(長短)を統一しました。
これは一般に「度量衡の統一」といわれています。度量衡の統一によって税制が全国共通になり、商工業の発展も促すことになりました。
 
また、車の軌(車輪の幅)を統一し(上述。六歩にしました)、書籍の文字も統一しました。
統一以前は馬車の規格が国によって異なっていたため、道幅も轍(わだち)も様々でした。これは各国間の交通の妨げになります。車幅の統一は交通網の改善につながりました。
文字も各国が独自の漢字を使っていました。地方によって文字が違っては統一した命令を下すことができません。中央集権を強化するために、文字の統一は無くてはならないことでした。
 
尚、『史記・六国年表』は始皇帝二十七年(翌年)に「黄河を『徳水』に改名した(前回)。金人十二を鋳造した。民を『黔首』と呼んだ。天下の書(文字)を統一した。天下を三十六郡に分けた」と書いていますが、『史記・秦始皇本紀』は本年始皇帝二十六年)に書いており、『資治通鑑』も『秦始皇本紀』に倣っています。
 
[] 『史記秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
秦の地は、東は海と朝鮮に及び、西は臨洮、羌中に及び、南は家の戸が北を向いている地(北嚮戸。現在の珠江三角州一帯)に至り、北は黄河を拠点に防御線とし、陰山に沿って遼東に至りました。
秦は天下の豪桀(『資治通鑑』は「豪傑」。『秦始皇本紀』では「豪富」)を咸陽に集めました。その数は十二万戸に上ります。
 
[] 『史記秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
秦の諸廟や章台(宮)、上林(苑)渭水南にありました。
始皇帝は諸侯を破るたびに滅ぼした国の宮室を模倣して咸陽城北の阪の上に宮殿を築きました。それらの宮殿は、南に渭水を臨みます。
こうして雍門(『資治通鑑』胡三省注によると雍門というのは漢代になってからの名称で、長安城西北の門)から東の涇水と渭水が交わる場所まで、殿屋(宮室)、復道(閣道。上下二階建てになっている通路)、周閣(周囲を囲む楼閣)が連なりました。
それらの建物は諸侯から得た美人や鍾鼓で満たされました。
『秦始皇本紀』の注釈(正義)は「北は九、甘泉に至り、南は長楊、五柞に至り、東は黄河に至り、西は汧水と渭水が交わる場所に至り、東西八百里に渡って離宮や別館が連なった。木に綈繍(刺繍をした絹織物)を着せ、土に朱紫(赤や紫の顔料)を被せ、宮人は移らなかった(移動しなかった。恐らく宮女が決められた場所に配置されているという意味)(これらの宮殿は)年を尽くして帰るのを忘れても、全てをまわることはできなかった。」「始皇帝は表河黄河に臨む場所)を秦の東門とし、表汧(汧水に臨む場所)を秦の西門とし、表中外の殿観は百四十五カ所、後宮に列する女は万余人に上った」と当時の隆盛を紹介しています。
 


次回に続きます。