秦楚時代4 秦始皇帝(四) 始皇帝暗殺未遂事件 前218~215年

今回は秦始皇帝二十九年から三十三年までです。
 
始皇帝二十九年
218年 癸未
 
[] 始皇帝が東游しました。
そこで韓人張良による始皇帝暗殺未遂事件が起きます。
以下、『資治通鑑』『史記留侯張良世家』『漢書張陳王周伝(巻四十)』からです。
張良は父と祖父が五代にわたる韓君に仕えて相になりました。
漢書』によると、張良は字を子房といいます。
史記』によると、張良の大父(祖父)は名を開地といい、韓の昭侯、宣恵王、襄哀王の相になりました。父は平といい、釐王と悼恵王(桓恵王)の相になりました。
韓悼恵王二十三年(前250年)、張平が死に、その二十年後(230)に秦が韓を滅ぼしました。張良はまだ若かったため、韓に仕えていません(張平の晩年にできた子のようです)

韓が滅んだ時、張良の家には僮(奴婢)が三百人もいました。しかし弟が死んでも葬儀を行わず、韓の仇に報いるために家財を投げ打って秦王を暗殺できる刺客を求めました。

後に張良は淮陽で礼を学び、東方で倉海君(海神、東夷の君長、賢者の名等の説があります)に会いました。
やがて一人の力士を得ます。張良は重さ百二十斤の鉄椎を作って力士に与えました。
始皇帝が東游して陽武県の博浪沙に至った時、張良と刺客が始皇帝を狙って鉄椎を放ちました。
しかし鉄椎は誤って副車(属車。後ろに従う車)に命中します。
驚いた始皇帝は激怒して賊を探させましたが、見つからなかったため、天下に命じて十日間の大捜索を行わせました。

張良は姓名を変えて下邳に隠れました。

[
] 『史記秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。

始皇帝が之罘山に登り、石碑を刻みました。
その内容はこうです(訳は省略します)
「維二十九年,時在中春,陽和方起。
皇帝東游,巡登之罘,臨照于海。
従臣嘉観,原念休烈,追誦本始。
大聖作治,建定法度,顕箸綱紀。
外教諸侯,光施文恵,明以義理。
六国回辟,貪戻無厭,虐殺不已。
皇帝哀衆,遂発討師,奮揚武徳。
義誅信行,威燀旁達,莫不賓服。
烹滅彊暴,振救黔首,周定四極。
普施明法,経緯天下,永為儀則。
大矣哉,宇県之中,承順聖意。
群臣誦功,請刻于石,表垂于常式。
 
東観にはこう書かれました。
「維二十九年,皇帝春游,覧省遠方。
逮于海隅,遂登之罘,昭臨朝陽。
観望広麗,従臣咸念,原道至明。
聖法初興,清理彊内,外誅暴彊。
武威旁暢,振動四極,禽滅六王。
闡并天下,甾害絶息,永偃戎兵。
皇帝明徳,経理宇内,視聴不怠。
作立大義,昭設備器,咸有章旗。
職臣遵分,各知所行,事無嫌疑。
黔首改化,遠邇同度,臨古絶尤。
常職既定,後嗣循業,長承聖治。
群臣嘉徳,祗誦聖烈,請刻之罘。
 
始皇帝は帰路について琅邪に向かい、上党を通って咸陽に帰りました。
 
 
 
始皇帝三十年
217年 甲申
 
[] 特筆すべき事件はありません。
史記秦始皇本紀』もこの年は「無事(何事も無い)」の二文字だけです。
 
 
 
始皇帝三十一年
216年 乙酉
 
[] 『史記秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
始皇帝が黔首に実田させました。
黔首とは民を指します(秦始皇帝二十六年221年参照)。『資治通鑑』胡三省注によると、「黔」は黒の意味で、民が黒い頭巾を被っていたため黔首と呼ぶことになりました。
「実田」というのは田地の実際の面積を調べて報告させることです。
国民の土地所有面積を調査したのは、正確な税収を得て国庫を豊かにするのが目的だと思われます。
 
[] 『史記秦始皇本紀』からです。
十二月、「臘(十二月の祭祀)」を「嘉平」に改名しました。
史記集解』によると、夏王朝は「清祀」、殷(商)王朝は「嘉平」、周王朝は「大蜡」または「臘」と呼びました。秦は殷の「嘉平」に戻したことになります。神仙に関する歌謡によって「臘」を「嘉平」に改名するように告げられたといわれています。
 
秦朝廷は黔首に対して一里ごと六石の米と二頭の羊を下賜しました。
 
[] 『史記秦始皇本紀』からです。
始皇帝が咸陽を微行しました。
微行というのは賎しい者の行動、または隠れた行動という意味で、庶民の服を着ておしのびすることを指します。
 
夜、始皇帝が四人の武士を連れて蘭池に行き、盗賊に遭遇しました。始皇帝が窮地に追い込まれましたが、武士が盗賊を撃殺しました。
関中で二十日にわたって大捜索が行われました。
 
[] 『史記秦始皇本紀』からです。
この年、米一石が千六百銭に値上がりました。
米価の値上がりは庶民の生活を困窮させます。この年に行われた「実田」と関係があるのかもしれません。
 
 
 
始皇帝三十二年
215年 丙戌
 
[] 『史記秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
始皇帝が碣石に巡行しました。
そこで燕人盧生(『資治通鑑』胡三省注によると姜姓の子孫が盧に封じられ、国名を氏にしました)を派遣し、羨門(仙人。羨門子高)と高誓(仙人)を求めさせました。
始皇帝は碣石門(山門)に石碑を刻んで功徳を讃頌しました。
また、城郭を破壊して堤坊(堤防)を切り開きました。城郭を破壊したのは天下が一つになって戦争がなくなったことを意味します。堤防を開いたのは険阻な地形を平らにして交通の障害を除いたことを意味します。
石碑にはこう刻まれました(訳は省略します)
「遂興師旅,誅戮無道,為逆滅息。
武殄暴逆,文復無罪,庶心咸服。
恵論功労,賞及牛馬,恩肥土域。
皇帝奮威,徳并諸侯,初一泰平。
墮壊城郭,決通川防,夷去険阻。
地勢既定,黎庶無繇,天下咸撫。
男楽其疇,女修其業,事各有序。
恵被諸産,久並来田,莫不安所。
群臣誦烈,請刻此石,垂著儀矩。
 
始皇帝は不死の薬を求めるため、韓終、侯公、石生を派遣して仙人を探させました。
その後、始皇帝は北辺を巡行して上郡から都城に還りました。
 
海に派遣された盧生が戻って鬼神の事を語り、『録図書』を提出して「秦を滅ぼすのは胡である(亡秦者胡也)」という言葉を伝えました。
『録図書』というのは、後世には讖緯の書ともよばれる予言書です。
始皇帝は将軍蒙恬に兵三十万人を動員させて、匈奴を北伐して河南の地を攻略するように命じました。
「胡」は異民族を表し、匈奴が北胡に当たるからです。但し予言の「胡」は胡亥、すなわち秦の二世皇帝を指すといわれています。



次回に続きます。