秦楚時代5 秦始皇帝(五) 南征北伐 前214年

今回は秦始皇帝三十三年です。
 
始皇帝三十三年
214年 丁亥
 
[] 『資治通鑑』からです(下述する南方征伐と順番を入れ替えています)
蒙恬匈奴を駆逐して河南の地を攻略し、四十四県を置きました。
匈奴を防ぐために長城を築きます。地形に基いて険関要塞を制御し、西の臨洮から東の遼東に至るまで万余里に及びました。
この長城が「万里の長城」です。万里の長城は秦が統一してから独自に造ったのではなく、秦趙三国の長城を増築改修したものでした。
 
蒙恬黄河を渡って陽山を占拠し、曲折しながら北に進みました。
この後、十余年にわたって将兵を遠地に曝すことになります。
蒙恬は上郡を拠点にして周辺を統治し、威信が匈奴を震わせました。
 
史記秦始皇本紀』は少し異なる内容になっています。
蒙恬は西北で匈奴を駆逐し、楡中から黄河に沿って東進しました。陰山まで進軍します。
攻略した地に三十四県を置き(上述の『資治通鑑』では四十四県です)黄河沿岸に城を築いて要塞にしました。
 
始皇帝は更に蒙恬に命じて黄河を渡らせました。蒙恬は高闕(山名)、陽山(または「陶山」)、北假(地名)一帯を占領します。
その後、亭障(堡塁)を造って戎人を駆逐し、謫(罪を犯した者)を遷して初県(新しい県。三十四県)を充たしました。
 
『六国年表』では「西北で戎を取って三十四県にする」と書かれており、『集解』が「一説では四十四県といい、これが正しい。また一説では二十二県ともいう」と解説しています。
また、『六国年表』によると蒙恬は三十万の大軍を指揮していました。

秦代の北方の地図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
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[] 『史記秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
朝廷がかつて逃亡したことのある者、贅壻(婿。妻の実家で生活する夫)、賈人(商人)を集めて軍を組織し、南越の陸梁の地を攻略しました。
陸梁というのは南方の人を意味します。南方人は山陸の後ろに住み、性格が強梁(強暴大力)だったため、「陸梁」とよばれました。
 
秦は占領した地に桂林郡、南海郡、象郡を置きました。
讁徒の民(罪を犯して流刑に処された民)五十万人に五嶺を守らせ、越人と雑居させました。このような守備を「讁戍」といいます。
資治通鑑』胡三省注によると、「五嶺」とは大庾、始安、臨賀、桂陽、揭陽とする説と、大庾嶺、桂陽の騎田嶺、九真の都龐嶺、臨賀の萌渚嶺、始安の越城嶺とする説と、虔州の大庾嶺、道州の永明嶺と白芒嶺、郴州の臘嶺、桂州の臨源嶺とする説があります。
 
淮南子人間訓(巻十八)』にも秦の北伐と南征に関する記述があります。
秦皇(秦始皇帝は『録図』を得て「亡秦者胡也(秦を亡ぼすのは胡)」と書かれているのを見ました(前年参照)。そこで五十万の兵を動員し、蒙公蒙恬と楊翁子を将にして城を修築させました。西は流沙を占領し、北は遼水を撃ち、東は朝鮮とつながり、中国の内郡(中原の各軍)が車を牽いて食糧を(長城。または前線)に輸送します。
また、始皇帝は越の犀角、象歯象牙翡翠、珠璣といった利を得るために、尉屠睢に兵五十万を動員させました。屠睢は兵を五軍に分けて南下し、一軍は鐔城の岭を塞ぎ、一軍は九疑の塞(要塞)を守り、一軍は番禺の都(邑)に駐留し、一軍は南野の界(境)を守り、一軍は余干の水(河畔)に集まりました(恐らく『史記』と『資治通鑑』にある「五十万人に五嶺を守らせた」という内容です)
五軍は三年にわたって甲冑を解かず、弓弩を緩めることもありませんでした。
監禄(秦将。監は監御史。禄は名)が食糧を輸送できなかったため、兵を指揮して渠(水路。現在の広西壮族自治区にある霊渠がこの時に開かれた運河だといわれています)を穿ち、粮道を通じさせました。これを利用して越人と戦い、西呕君訳吁宋(西呕は越の族名。訳吁宋は君主の名)を殺します。
ところが越人は全て叢薄(草が繁茂した地域)に逃走し、禽獣と一緒に生活しました。秦の虜になる者はいません。
越人(西呕人)は桀駿(優れた人物)を将に選んで秦人を夜襲しました。秦軍は大敗し、尉屠睢は殺され、数十万の死体が並んで血が流れました。
秦は謫戍(罪人に守備させること)して備えました。
 
淮南子』の記述には南方に桂林郡、南海郡、象郡の三郡を置いたことが書かれていません。
始皇帝が『録図書』を得たのは昨年で、南越に勢力を延ばして三郡を置いたのは本年始皇帝三十三年)です。『淮南子』には「三年にわたって甲冑を解かず、弓弩も緩めなかった」とあるので、西呕の反撃は始皇帝三十五年頃の事かもしれません。
なお、越人というのは現在の浙江、江西、福建、広東、広西一帯に住む少数民族の総称で、分散して生活していました。多数の族が存在していたため、百越ともよばれています。

南方の地図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
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[] 『史記秦始皇本紀』からです。
秦朝廷が民間での祭祀を禁止しました。
明星(『集解』によると彗星)が西方に現れました。
 
 
 
次回に続きます。