秦楚時代6 秦始皇帝(六) 焚書 前213年

今回は秦始皇帝三十四年です。
 
始皇帝三十四年
213年 戊子
 
[] 『史記秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
獄吏で不直な者、罪があると知りながら判決を覆して罪人を放った者(覆獄故)、誤った裁きを下した者(失者)を謫治(懲罰)し、長城建築に従事させるか南越の地(前年の五嶺に移住させました。
 
[] 『史記秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
始皇帝が咸陽宮で酒宴を開きました。
博士七十人が進み出て始皇帝の寿を祝います。
僕射周青臣が始皇帝の功績を讃頌して言いました「かつて秦の地は千里に過ぎませでしたが、陛下の神霊明聖のおかげで海内を平定し、蛮夷を放逐できました。日月が照らすところで賓服服従しない者はいません。諸侯は郡県となり、人人は自然に安楽し、戦争の患もなくなり、これを万世に伝えることになりました。上古から今まで、陛下の威徳に及ぶ者はいません。
始皇帝は気分を良くしました。
博士で斉人の淳于越が進み出て言いました「殷(商)周の王は千余歳に及び、子弟功臣を封じて枝輔(補佐)にしたといいます。今、陛下は海内を有していますが、子弟は匹夫(庶民)のままです。田常や六卿のような臣が現れたとしても、輔拂(補佐)がなかったらどうして(国家を)助けられるでしょう(田常は斉の田恒です。六卿は晋の趙氏韓氏魏氏范氏知氏中行氏です。どちらも国君の地位を衰弱させ、後には子孫が簒奪を行いました)。事を行うにあたって古を師としないのに長久だった者がいたとは聞いたことがありません。今また青臣が面諛(面前で阿諛追従すること)して陛下の過(過失)を重ねさせましたが、彼は忠臣ではありません。
始皇帝はこの内容について議論するように命じました。
丞相李斯(秦始皇帝二十八年219年は「卿李斯」で、その二年前の秦始皇帝二十六年221年には「廷尉」でした。いつ丞相になったのかは『史記李斯列伝(巻八十七)』を見てもわかりません)が上書して言いました「五帝(の制度)は互いに繰り返すことがなく、三代(の制度)も互いに継承しませんでした(五帝も三代もそれぞれ異なる制度をもっていました)。それぞれがそれぞれの方法で治めたのは、過去の逆を行う必要があったからではなく、時代の変異に従ったからです。今、陛下は大業を創り、万世の功を建てました。これは愚儒(愚鈍な儒者。読書人)に理解できることではありません。そもそも越(淳于越)が言及したのは三代の事です。倣う必要があるでしょうか。
往時は諸侯が並争していたので、遊学の士を厚く招きました。しかし今は天下が既に安定し、法令が統一して出されています。百姓は家で農工に力を尽くすべきであり、士は法令辟禁(刑法禁令)を学習するべきです。ところが今、諸生は現在の事を学ばず過去に倣おうとしており(不師今而学古)、それによって当世を非難して黔首(民)を惑乱させ、互いに法を否定することを人に教えています。
丞相臣斯(私)は死を冒して言います。古の天下は散乱として統一できませんでした。そのため諸侯が並立し、皆が古を語って今を害し(現在を誹謗し)、虚言を飾って実を乱し、人々が私学(自分の学説)を善とし(正しいと信じ)、上(国君)が建立したもの(政治制度)を否定しました。今、皇帝は天下を并有し、黒白を分別して一尊を定めました(是非を正して至高の地位を築きました)。それなのに人々は私学によって互いに法教(法令政教)を否定し、令(命令)が発布されたらそれぞれが自分の学説に基いて議論し、入ったら(入朝したら)心中で非難し、出たら巷で議論し、主(君主)の前では誇る(吹聴する)ことで自分の名を挙げ(または「国君を誇り阿諛追従することで名を挙げ」。原文「夸主以為名」)、異趣(異なる見解)によって自分を高くし、群下を率いて(政府を)造謗(誹謗)しています。このような状態を禁止しなかったら、主勢(天子の権勢)は上から降ることになり、党与が下で形成されることになります。禁止することこそ便(利)となります。
よって臣は以下のことを請います。史官は秦記以外の書(列国の史記史書を全て焼き捨て、博士官が職責によって保管する書以外は、天下に私蔵されている『詩』『書』および百家の語を全て守(郡守と郡尉)に提出させ、まとめて焼き捨てるべきです。敢えて『詩』『書』について偶語(集まって議論すること)する者は棄市に処し、古のことを挙げて現在を非難する者は族滅し(以古非今者族)、官吏で見聞きして知っているのに検挙しなかったら同罪とします。また、令を下して三十日経っても書を焼かなかったら黥(顔に刺青をする刑)に処して城旦(朝から城を守る刑徒。『集解』によると長城の修築に派遣されたようです。四年の刑です)とします。排斥する必要がないのは医薬、卜筮、種樹(農業)の書のみです。また、もし法令を学びたい者がいたら官吏を師にするべきです。
始皇帝は制(皇帝の言葉)を下して「可」と言いました。
 
こうして秦の焚書が始まります。天下の書が焼かれて博士官だけが書籍を所蔵することになりましたが、後に項羽が秦の宮殿を焼いた時、博士が所蔵していた書も失われてしまいました。
戦国時代に関する列国の史書が乏しいのは焚書が原因です。
 
魏人の陳餘が孔鮒に言いました「秦が先王の書籍を滅ぼそうとしている。子(あなた)は書籍の主だ。危険ではないか。」
孔鮒は孔子の八世孫で字を子魚といいます。儒学の書を守っていました。
孔鮒が言いました「私は無用の学問を為してきた。私を知るのは友だけだ。秦は私の友ではない(だから秦は私を知らない)。私に何の危険があるというのだ。私は(書籍を)隠して求める人が現れる時を待とう。求める人が現れたら憂患がなくなる。」
 
 
 
次回に続きます。