秦楚時代7 秦始皇帝(七) 坑儒 前212~211年

今回は秦始皇帝三十五年と三十六年です。
 
始皇帝三十五年
212年 己丑
 
[] 『史記秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
朝廷が蒙恬に直道(軍事用の大道)を開かせました。九原を通って雲陽に至ります。山を削って谷を埋め、長さは千八百里に及びました。工事は数年経っても完成しませんでした。
 
『六国年表』には「直道を為す(築く)。九原に道を造り、甘泉に通す」とあります。
 
[] 『史記秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
始皇帝は咸陽の人が多いのに先王の宮庭が小さいと考えました。西周の文王は豊を都とし、武王は鎬を都とし、豊鎬の間は帝王の都になったといわれています。そこで始皇帝渭水南の上林苑に朝宮(宮殿)を建造させました。
まず前殿の阿房宮を建てます(『史記六国年表』は秦始皇帝二十八年219に「阿房宮を為す(築く)」と書いています)
東西五百歩、南北五十丈もあり、上には一万人が座り、下には高さ五丈の旗を立てることができました。周囲に閣道(復道。上下二階建てになっている通路)を構えて車馬を走らせ、前殿から下って南山に及びました。南山の頂上には標識となる闕が建てられました。
更に複道(復道)を造って阿房から渭水を渡り、咸陽に繋げました。天極北極星阿房宮に当たります)と閣道(閣道星。北極星の後ろの十七星)の形を模倣し、漢水(天の川。渭水に当たります)を渡って営室(営星と室星。天子の宮を象徴します。咸陽に当たります)に連なる形を描きました。
阿房宮は仮の名で、完成してから正式に命名することになっていましたが、始皇帝の生前には完成しませんでした。
阿房(地名)に立てられた宮殿だったため天下は阿房宮と呼んだといわれていますが、一説では、「阿」は「近い」という意味で、咸陽に近い宮殿だったため「阿城」「阿房」と呼ばれたともいいます(『史記正義』)
 
始皇帝は隠宮宮刑を受けた者)や徒刑者七十余万人を動員して阿房宮と驪山始皇帝の陵墓)を建造しました。
北山を削って石椁(棺)を造り、蜀や荊(楚)の地の木材をことごとく輸送します。
これらの他にも、関中(東の函谷関から西の隴関に至る東西千余里)に合計三百の宮殿が建てられ、関外にも四百余の宮殿が造られました。
 
始皇帝は東海上(東海郡)県内に石碑を立てて秦の東門としました。
三万家を驪邑に遷し、五万家を雲陽に遷しました。全て十年間の征役(賦税労役)が免除されます。
 
[] 『史記秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
盧生が始皇帝に言いました「臣等は芝(霊芝。仙芝)奇薬、仙者を求めていますが、いつも遇えません。障害になる物が存在しているようです。方術においては、人主は頻繁に微行して悪鬼を避けるべきです。悪鬼を避けることができれば真人が現れます。人主が住む場所を人臣が知れば神を妨げることになります。真人とは水に入っても濡れず、火に入っても焼けず、雲気に乗って天地と久長(長久)を共にします。今、上(陛下)は天下を治めましたがまだ恬惔(静清無欲)にはなれません(世俗とのつながりが深すぎます)。上(陛下)は自分が住む宮殿を人に知られないようにしてください。そうすれば不死の薬も得られるはずです。」
始皇帝は「わしは真人が羨ましい(あるいは「わしは真人を慕っている。」原文「吾慕真人」)」と言い、自分を「真人」と称して「朕」と称さなくなりました。
 
始皇帝は命令を発し、咸陽周辺二百里内の宮観二百七十カ所を全て復道や甬道(屋根がある通路)で繋げ、帷帳、鍾鼓、美人で満たしました。それぞれ場所を決めて配置し、移動を禁止して中が見えないようにします。
始皇帝が足を運んだ場所を洩らす者がいたら死刑に処しました。
ある時、始皇帝が梁山宮に行きました。山上から丞相の車騎を見つけ、その数が多かったため不快になります。
始皇帝に仕える中人(宦官)の一人がこれを丞相に伝えたため、丞相は車騎の数を減らしました。
始皇帝が怒って言いました「中人がわしの語を洩らしたに違いない!」
始皇帝が宦官を審問しましたが誰も認めようとしないため、始皇帝は当時傍に従っていた者を全て捕えて殺してしまいました。
この後、始皇帝の居場所は誰にも分らなくなりました。
群臣が始皇帝の指示や裁決を受ける場合は全て咸陽宮に集められました。
 
侯生と盧生が相談して言いました「始皇の為人は天性の剛戻自用(暴虐で自分が正しいと思っていること)だ。諸侯として起こってから天下を併合し、その意思は欲求に従うままとなり、古から今まで自分に及ぶ者がいないと思っている。獄吏を選任しており、それらの獄吏は親幸を得ている(刑罰を重視している)。博士は七十人もいるが、員数を充たすだけで用いられてはいない。丞相も諸大臣も既に決定した事を受け入れるだけで、全て上(皇帝)に頼っている。上(皇帝)は刑殺によって威を示すことを楽しんでおり、天下の人々は罪を畏れて禄を守ることだけを考え、忠を尽くす者はいない(皇帝に反対する者はいない)。上は過失を聞くことがないから日々驕慢になり、下は恐れ伏して謾欺(欺瞞)によって歓心を得ている。秦法においては方術は許容されていない(原文「不得兼方」。あるいは、二つの能力を持つことは認められない。一度失敗したら次の機会はないという意味)。もし験(成果)がなかったら必ず殺される。星気を観測する者は三百人に及び、皆が良士だが、畏忌諱諛(禁忌を畏れて直言を避け、阿諛追従すること)して正面から過失を述べようとしない。天下の事は大小にかかわらず全て上(皇帝)によって決定されている。しかも上(皇帝)は衡石(秤)で書(奏書)を量って日夜の定量(一日に処理する文書の数量)を決めており、その量に達しなかったら休息もとらない。権勢に対してこれほどまで貪婪なのだから、上(皇帝)のために仙薬を求めるわけにはいかない。
二人は逃走してしまいました。
それを聞いた始皇帝は激怒してこう言いました「わしはかつて天下の書を収めて用いる価値がないものは全て排除した。ことごとく文学方術の士を集めて太平を興そうとし、方士は練(煉丹術)によって奇薬を求めようとした。しかし今、韓衆は一度去って報告に来ることなく、徐巿等がもたらした出費も巨万を数えるがやはり薬を得られない。毎日、姦利(不当な利益を謀ること)の報告を聞くだけだ。盧生等に対して、わしは厚い尊賜を与えてきた。それなのに今回わしを誹謗してわしの不徳を重ねさせた。わしが人を使って咸陽にいる諸生(読書人。知識人)を廉問(審問)してみたところ、ある者は妖言によって黔首(民)を惑乱させていた。」
 
始皇帝は御史(法官)に命じて諸生の取り調べを行わせました。諸生は罪から逃れるため、互いに別の者を告発します。
始皇帝は禁を犯した者四百六十余人を全て咸陽で阬(「坑」。生埋め)に処し、天下に知らしめて後代の戒めとしました。
更に多くの人が辺境の守備として遷されます。
 
これが始皇帝による「坑儒」事件です。「儒」とは「儒者」も含みますが、読書人の意味が強いので、方士を代表とする道家の士も多かったと思われます。
前年の事件と併せて「焚書坑儒」と称されており、始皇帝の暴政の代表とされています。
 
『秦始皇本紀』と『資治通鑑』に戻ります。
始皇帝の長子扶蘇が諫めて言いました「天下が平定したばかりで遠方の黔首(民)はまだ集まらず(帰心せず)、諸生は皆、孔子の言を誦法(唱えて倣うこと)しています。今、上(陛下)は全てにおいて法を重んじ、彼等を捕縛してしまいましたが、臣は天下が不安定になることを恐れます。上の明察を請います。」
始皇帝は怒って扶蘇を北の上郡に派遣し、蒙恬の監軍を命じました。
 
 
 
始皇帝三十六年
211年 庚寅
 
[] 『史記秦始皇本紀』からです。
熒惑が心に留まりました(熒惑守心)
熒惑は火星で戦を象徴します。心は二十八宿の心宿で皇帝を表します。「熒惑守心」は皇帝崩御や動乱の予兆と考えられていました。
 
[] 『秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
東郡に隕石が落ちました。
黔首()の誰かがその石に「始皇帝が死んで地が分かれる(始皇死而地分)」と刻みました。
それを聞いた始皇帝は御史を派遣して犯人を捜しましたが、誰も認めません。隕石が落ちた付近の居人が全て捕えられ、誅殺されました。石は焼き捨てられます。
 
以下、『秦始皇本紀』からです。
不快になった始皇帝は博士に『仙真人詩』を作らせました。天下を遊行した時、至る所で楽人に謌弦(演唱)するように命じます。
秋、関東から使者が来ました。夜に華陰の平舒(地名)を通った時、ある者が璧を持って道を遮り、使者にこう言いました「私のために(璧を)滈池君(滈池の水神)に届けてください。
璧を持った者がこの機を利用して使者に言いました「今年、祖龍が死にます。
『集解』によると「祖」は「始」を表し、「龍」は人君の象徴なので、「祖龍」は始皇帝を指すことになります。
使者が理由を問いましたが、その者は璧を置いて突然姿を消しました。
使者は璧を持って始皇帝に報告しました。
始皇帝は久しく黙って考えてから「山鬼が知ることができるのは一歳(一年)の事に過ぎない」と言い、退いて「祖龍とは人の先(首領)だ」と言いました。
御府に璧を調べさせると始皇帝二十八年、始皇帝が長江を渡った時に沈めた璧でした(秦始皇帝二十八年219年に璧を沈めたという記述はありません)
始皇帝が卜を行ったところ、游徒(遷移)が吉という卦が出ました。
 

[] 『秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。

河北と楡中に三万家を遷し、爵一級を与えました。

『秦始皇本紀』では「河北」が「北河」になっており、『資治通鑑』胡三省注は「河北は北河の北」と注釈しています。

史記正義』によると、上述の「游徒(遷移)」の卦に符合させるために民を移住させたようです。

『六国年表』では「徙民於北河、楡中。耐徙三処(『集解』によると一説では「三家」)、拝爵一級」としています。民は北河(河北)楡中地域の三カ所に遷されたようです。

 
 
 
次回に続きます。

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