秦楚時代8 秦始皇帝(八) 始皇帝の死 前210年(1)

今回は秦始皇帝最後の年です。二回に分けます。
 
始皇帝三十七年
210年 辛卯
 
[] 『秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月癸丑(中華書局『白話資治通鑑』によると恐らく誤り)始皇帝が出遊しました。左丞相李斯が従い、右丞相馮去疾が咸陽を守ります。

始皇帝には二十余人の子がおり、少子胡亥が最も愛されていました(『史記秦始皇本紀』では「少子胡亥愛慕」ですが、『資治通鑑』は「少子胡亥最愛」に書き換えています)

胡亥が随行を請い、始皇帝はこれに同意します。


十一月、始皇帝が雲夢に至りました。九疑山で虞舜を望祀(山川を望んで行う祭祀)します。九疑山は舜が埋葬された場所といわれています。
 
その後、長江を船で下って藉柯(地名)を観察してから海渚(恐らく「江渚」の誤り。長江の中洲)を渡り、丹陽を経由して銭唐に至りました。浙江に臨みます。
しかし江水が大きく波打っていたため、西に百二十里移動して川幅が狭くなった場所で渡りました。『史記集解』によると餘杭という場所です。
 
それから会稽山に登って大禹を祭り、南海を望みました。『史記正義』によると会稽山には夏禹穴(禹の墓穴)と廟があります。
始皇帝はそこに石碑を立てて徳を称賛しました。その内容はこうです(訳は省略します)
「皇帝休烈,平一宇内,徳恵脩長。
三十有七年,親巡天下,周覧遠方。
遂登会稽,宣省習俗,黔首齋荘。
群臣誦功,本原事迹,追首高明。
秦聖臨国,始定刑名,顕陳旧章。
初平法式,審別職任,以立恒常。
六王専倍,貪戻慠猛,率衆自彊。
暴虐恣行,負力而驕,数動甲兵。
陰通間使,以事合従,行為辟方。
内飾詐謀,外来侵辺,遂起禍殃。
義威誅之,殄熄暴悖,乱賊滅亡。
聖徳広密,六合之中,被沢無疆。
皇帝并宇,兼聴万事,遠近畢清。
運理群物,考験事実,各載其名。
貴賎並通,善否陳前,靡有隠情。
飾省宣義,有子而嫁,倍死不貞。
防隔内外,禁止淫泆,男女絜誠。
夫為寄豭,殺之無罪,男秉義程。
妻為逃嫁,子不得母,咸化廉清。
大治濯俗,天下承風,蒙被休経。
皆遵度軌,和安敦勉,莫不順令。
黔首脩絜,人楽同則,嘉保太平。
後敬奉法,常治無極,輿舟不傾。
従臣誦烈,請刻此石,光垂休銘。
 
帰路、呉を経由しました。
江乗(県名)で長江を渡り、海に沿って北上して琅邪に至りました。
方士巿(徐福)等が海に入って神薬を求めていましたが、数年経っても得られず、出費がかさみました。徐巿等は譴責を恐れたため偽ってこう言いました「蓬莱の薬を得ることはできます。しかしいつも大鮫魚に苦しめられているので蓬莱に到着できないのです。射術を善くする者を同行させ、見つけたら連弩で射させてください。
この頃、始皇帝が海神と戦う夢を見ました。その姿は人のようです。
夢を占うと博士が言いました「水神を見ることはできません。大魚や蛟龍が候(兆候)となります。今、上(陛下)の禱祠(祈祷や祭祀)は周到で恭謹ですが、このような悪神が現れました。悪神を除くべきです。そうすれば善神も訪れることができます。
始皇帝は海に入る者に巨魚を捕まえる道具を持たせ、自ら連弩を準備して大魚を射る機会を待ちました。
しかし琅邪から北に移動して榮成山(成山)に至っても見つけられませんでした。
 
始皇帝が之罘(地名)に至った時、巨魚を見つけました。始皇帝は一魚を射殺します。
その後、海に沿って西に進み(『史記集解』によると「黄河を渡って西に向かい」)、平原津に入った時、病を患いました。
 
始皇帝は死という言葉を嫌いました。そのため、群臣は死に関する事を口にできませんでした。
病がますますひどくなったため、始皇帝は中車府令行符璽事(「中車府令」は官名。「行符璽事」は符節印璽の管理を兼任するという意味)趙高に命じて扶蘇宛の書信を書かせました「喪に参加せよ。咸陽で(霊柩に)会ってから葬儀せよ(與喪,会咸陽而葬)。
これは上郡に派遣した扶蘇に喪を主宰させるという内容で、後継者に認めたことになります。なお、この部分は『資治通鑑』の記述で、『秦始皇本紀』では「公子扶蘇に下賜する璽書を準備し、『與喪会咸陽而葬』と書いた」としており、趙高が書いたとは明記していません。
璽書は封をして趙高がいる場所(「行符璽事所」。符璽の管理を行う場所)で保管され、結局、使者は送り出されませんでした。
 
秋七月丙寅(二十日)始皇帝が沙丘宮の平台で死にました。『史記集解』によると五十歳です(数え年で五十歳になります)
 
丞相李斯は皇帝が都外で死んだため、諸公子や天下に変事が起きることを恐れ、始皇帝の死を秘密にして喪を発しませんでした。棺は轀涼車(または「轀輬車」。窓がついた車。窓を閉じれば温かくなり、開ければ涼しくなりました)に乗せ、始皇帝が寵幸していた宦者を驂乗(同乗)させます。
一行がある場所に到着したら今まで通り食事を運び、百官の奏事も始皇帝が生きている時と同じように行いました。宦者が車の中から奏事を批准する言葉を伝えます。
始皇帝の子胡亥と趙高および寵幸された宦者五六人だけが始皇帝の死という真相を知っていました。
 
[] 『秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
以前、始皇帝は蒙氏を尊寵していました。蒙恬は外で将となり、蒙毅は常に朝内で謀議に参加しています。二人とも忠信で名が知られていたため、将相(将軍大臣)でも蒙氏と争うおうとする者はいませんでした。
趙高は生まれてすぐ隠宮(宦官)になりました。始皇帝は趙高が強力(能力があること)で獄法に精通していると聞き、中車府令に抜擢しました。趙高に命じて胡亥に書や獄律・令法の事(これは『秦始皇本紀』の記述で、『資治通鑑』では「決獄の事」)を教えさせたため、胡亥は趙高を寵信しました。
かつて趙高が罪を犯したことがありました。始皇帝蒙毅に命じて裁かせます。
蒙毅は法に則って趙高を死刑にするべきだと主張しました。しかし始皇帝は趙高が事に臨んで聡明だったため、赦して官位を回復させました。
趙高はかねてから胡亥に気に入られており、しかも蒙氏を怨んでいたため、始皇帝が死ぬと胡亥に陰謀を授けました。始皇帝の命と偽って扶蘇を誅殺し、胡亥を太子に立てるという内容です。
胡亥はこの計に同意しました。
趙高が言いました「丞相と謀を共にしなければ、恐く事は成功できません。
そこで趙高は丞相李斯に会いに行ってこう言いました「上(陛下)が長子扶蘇に書と符璽を賜りましたが、どちらも胡亥の所にあります。太子を定めるのは、君侯(あなた)と高(私)の口だけです。この事はどうするべきでしょうか?」
李斯が言いました「どうして亡国の言を口にすることができるのだ!これは人臣が議すべきことではない!」
趙高が言いました「君侯の材能(才能)、謀慮、功高(功績の大きさ)、無怨(怨みの有無)、長子の信扶蘇の信任)を見た時、この五者を蒙恬と較べたらどちらが勝っていますか?」
李斯が言いました「(私は)及ばない。
趙高が言いました「それならば、長子が即位したら必ず蒙恬を用いて丞相にするでしょう。君侯が通侯(列侯)の印を懐にできず、郷里に帰ることになるのは明らかです。胡亥は慈仁篤厚なので嗣(後嗣)に立てることができます。君(あなた)が慎重に計を考えて決断することを願います。
李斯は納得して共謀しました。始皇帝の詔を受け取ったと偽り、胡亥を太子に立てます。
 
この時の趙高と李斯の会話は『史記李斯列伝(巻八十七)』に詳しく書かれています。別の場所で紹介します。

秦楚 趙高と李斯の陰謀

 
 
 
次回に続きます。