秦楚時代9 秦始皇帝(九) 胡亥即位 前210年(2)

始皇帝三十七年の続きです。
 
[] 趙高と李斯は始皇帝の書を偽造して長子・扶蘇に送り、罪を責めました。『史記李斯列伝(巻八十七)』から書の内容です「朕は天下を巡行し、寿命を延ばすために名山諸神を祷祠(祈祷祭祀)した。今、扶蘇と将軍蒙恬は師数十万を率いて辺境に駐屯しているが、十余年になるのに前に進めず、士卒の多くを消耗し、尺寸の功も立てていない。そのうえ逆に度々上書してわしが為すことを直言誹謗し、罷帰(任務を解いて帰ること)して太子になれないため日夜怨望している。扶蘇は人の子として不孝である。よって下賜した剣で自裁せよ。将軍恬は扶蘇と共に外に居ながら匡正しなかった。その謀を知っていたはずであり、人の臣として不忠である。よって死を賜り、兵は裨将(副将)王離に属すことにする。
書には皇帝の璽が押され、胡亥の門客が上郡の扶蘇に届けました。
 
以下、『史記・秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
偽書を開いて読んだ扶蘇は泣いて内舍に入り、自殺しようとしました。
蒙恬が言いました「陛下は外におり、まだ太子を立てていません。臣に三十万の衆を率いて辺境を守らせ、公子を監(監軍)にしました。これは天下の重任です。今、一人の使者が来ただけですぐに自殺してしまったら、詐(詐術。偽り)があるのかないのか判断もできません。復請(返事を送って赦しを請うこと)してから死んでも晩くはありません。
しかし趙高の使者が何回も自殺するように催促しました。
扶蘇蒙恬に言いました「父が子に死を賜ったのだ。どうして復請できるか。
扶蘇は自殺してしまいました。
蒙恬は死のうとしませんでした。使者は蒙恬を官吏にあずけて陽周(上郡陽周県)に繋げさせます。また、蒙恬の代わりに李斯の舍人を護軍(護軍都尉)にして諸将を統率させ、帰って報告しました。
『李斯列伝』によると、胡亥、李斯、趙高は扶蘇の死を聞いて大喜びしました。
 
胡亥は扶蘇が既に死んだと聞いて蒙恬を釈放しようとしました。
この時、始皇帝のために山川で祈祷をしていた蒙毅が帰って来ました。
趙高が胡亥に言いました「先帝始皇帝は以前から賢を挙げて(あなたを)太子に立てようと思っていましたが、毅蒙毅が諫めて反対していたのです。誅殺するべきです。」
胡亥は蒙毅を捕らえて代郡に繋ぎました。
 
[] 『史記・秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
胡亥一行は井陘を経由して九原に至りました。
ちょうど酷暑にあい轀車が臭いを放ちます。そこで従官に詔を発し、車に一石の鮑魚(干した魚)を積ませて臭いを隠しました。
直道を通って咸陽に入ってからやっと喪を発し、太子胡亥が即位します。これを二世皇帝といいます。
 
九月、始皇帝を驪山(酈山)に埋葬しました。
始皇帝は秦王に即位した時から驪山を穿って陵墓の建設を始めていました。天下を統一してからは、天下の徒(囚人)七十余万人を驪山に集めました。
地を深く掘って三泉(地下水)に至ると、溶かした銅を流して塞ぎました。
(棺)を中に運び、宮観の模型や百官の像および奇器珍怪といった府庫の宝物で墓穴を埋めます。
工匠に機弩を造らせ、陵墓を穿って近づこうとした者は全て射殺できるようにしました。
また、機械で水銀を流し、百川、江河、大海を造りました。
墓穴の上(天井)には天文(天体図)が、下(地面)には地理(地図模型)が設けられます。
人魚の膏(脂)で蝋燭を作りました。永い間火が消えないと考えたからです。『史記集解』は人魚を「鮎なまずに似た魚で四脚がある」としています。『正義』は「鯢魚(さんしょううお)」という説と、「人の形をしていて長さは一尺余あり、食べられず、皮は鮫魚より利(恐らく「硬い」という意味)で『鋸材木入(理解が困難です。「鋸材不入」で「鋸も入らない」という意味かもしれません)』。首の上に小さい孔があり、そこから気(息)が出る」という説を紹介しています。
 
始皇帝を埋葬した時、二世皇帝が言いました「先帝の後宮(宮女)で子がいない者は、(皇宮から)出すのも相応しくない。」
二世皇帝は後宮の女性で子がいない者全てに殉死を命じました。多くの女性が命を落とします。
 
始皇帝の埋葬が終わってから、ある人がこう言いました「工匠は自分で機藏(盗掘を防ぐ装置)を造ったので、仕組みを全て知っています。もし新たに機藏を造ったら、秘密が漏れてしまうでしょう(工匠が他の場所で同じ機械を作ったら、人々にからくりを知られてしまいます)
大事(葬儀)が終わると二世皇帝は工匠達を羨(墓の中の道)に入れて、外側の羨門(墓門)を下しました。
工匠は全て閉じ込められ、外に出られた者はいませんでした。
その後、陵墓に草木を植えて山のように見せました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
二世皇帝(胡亥)蒙恬兄弟を誅殺したいと思いました。
史記蒙恬列伝(巻八十八)』によると、趙高が蒙氏の復権を恐れて日夜讒言しました。
 
二世皇帝の兄の子子嬰が諫めて言いました「趙王遷は李牧を殺して顔聚を用い、斉王建は故世(先代)の忠臣を殺して后勝を用いたため、どちらも国を亡ぼしました。蒙氏は秦の大臣であり謀士でもあります。それなのに陛下は一旦にして棄て去ろうとしています。忠臣を誅殺して節行の無い人を立てたら、内は群臣の信用を失い、外は闘士の意を離散させることになります。
二世皇帝は諫言を聴かず、蒙毅と内史蒙恬に死を命じました。
尚、子嬰が二世皇帝の兄の子というのは『史記秦始皇本紀』と『資治通鑑』の記述で、『史記李斯列伝』では始皇帝の弟とあり、『李斯列伝』の注(索隠)は「始皇帝の)弟は孫の誤り」としています。
 
蒙恬が死ぬ前に言いました「わしは先人から子孫に至るまで、秦で三世に渡って功信を積んできた蒙恬の祖父は蒙驁、父は蒙武です。蒙恬で三代になります)。今、臣は兵三十余万を指揮しており、この身は捕えられているが、勢力は倍畔(反叛)に足りる。しかしわしは必ず死ぬと分かっていても義を守る。先人の敎えを辱めて先帝を忘れるわけにはいかないからだ。
蒙恬は毒薬を飲んで死にました。
 
蒙恬列伝』によると蒙毅は胡亥が送った使者に殺されました。
 
[] 史記・六国年表』に「復行銭」とあります。
秦が再び貨幣を発行したようです。一回目は東周顕王三十三年(前336年)に「行銭」という記述がありました。
 
 
 
次回から秦二世皇帝の時代です。