秦楚時代11 秦二世皇帝(二) 陳勝・呉広の蜂起 前209年(2)

秦二世皇帝元年の続きです。
 
[] 『史記・秦始皇本紀』からです。
四月、巡行していた二世皇帝が咸陽に帰って言いました「先帝は咸陽の朝廷が小さかったから阿房宮を建造した。しかし室堂が完成する前に上始皇帝は崩じ、阿房宮の建造を)中止して酈山始皇帝陵)を築いた。酈山の事がほぼ完了したのに、阿房宮の造営をあきらめてしまったら先帝が始めた事業が過ちだったと表明することになってしまう。」
こうして再び阿房宮の建築が始まりました(『史記・六国年表』では十二月の事としています)
 
『秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
二世皇帝は始皇帝の計策に倣って対外では四夷を慰撫しました,
また材士(強壮な者)五万人を徴集して咸陽に屯衛させました。射術を教えて狗(犬)馬や禽獣を捕まえさせます。
多数の材士や狗馬を養ったため、食糧の消費が増えました。食糧不足が予想されます。そこで郡県に命じて食糧を調達させ、菽粟(豆や穀物、芻稾(干草。飼料)を輸送させました。輸送する人夫には自分で食糧を調達するように命じます。
咸陽の三百里内ではこれらの穀物食糧を食べることが禁止されました。
 
この後、刑法がますます苛酷になっていきました。
 
[] 秦朝廷は始皇帝の時代から万里の長城始皇帝陵、阿房宮等の建築のために多数の民衆を徴集してきました。家族は離散し、田畑は荒れ、政府に対する怨嗟の声が堪えなくなります。また、秦の苛酷な法も民衆を苦しめました。
始皇帝生前はそういった不満も抑え込まれていましたが、二世皇帝が即位すると一気に爆発しました。きっかけは陳勝呉広の挙兵です。
以下、『資治通鑑』からです。
 
秋七月、陽城の人陳勝と陽夏の人呉広が蘄県で挙兵しました。
 
この頃、閭左の人々を徴発して漁陽の守備に就かせることになっていました。
資治通鑑』胡三省注に「閭左」の説明があります。閭左とは閭里の左に住む人々で、秦代は富者が右に住み、貧弱の者が左に住みました。秦の役戍は多くが富者を使いましたが、徴集し尽くしてしまったため、貧弱の者(閭左)を動員することになりました。
 
徴集された九百人が大沢郷に駐屯しました。陳勝呉広はどちらも屯長(小集団の長。一屯は五人とする説と五十人とする説があるようです)です。
 
一行が任地に向かう途中、ちょうど大雨が降って道が通れなくなりました。このままでは期限に間に合いません。期限に遅れたら法によって斬首に処されます。
そこで、陳勝呉広は天下の愁怨(憂患と怨恨)を理由に将尉を殺しました。『資治通鑑』胡三省注によると尉が官名で、戍人を率いていたため将尉と呼ばれました。将は統率の意味です。
 
陳勝呉広が徒属を集めて言いました「公等は皆、期限に遅れて斬首になるはずだった。たとえ斬首にならなくても、戍(辺境の守備兵)になったら命を落とす者は間違いなく十分の六七に上る。そもそも、壮士は死ななければそれまでだが、死ぬのなら大名を挙げるべきだ!王、侯、将、相(大臣)に人種の違いがあるものか(王侯将相寧有種乎)!」
徒衆は二人に従いました。
 
陳勝呉広の二人は公子扶蘇と項燕の名を偽り、壇を築いて盟を結びました。扶蘇と項燕の名を使ったのは人々が扶蘇を賢人とみなしており、楚人が項燕に同情していたからです。
陳勝呉広の勢力は「大楚」と称しました。陳勝が自ら将軍に立ち、呉広が都尉になりました。
 
陳勝呉広の挙兵は『史記・陳渉世家(巻四十八)』に詳しく書かれているので、別の場所で紹介します。

秦楚時代 陳勝・呉広の蜂起

 
陳勝呉広軍は大沢郷を攻めて攻略し、大沢郷の兵を集めて蘄県を攻めました。蘄も陥落します。
 
陳勝呉広は符離(地名)の人葛嬰に兵を指揮させて蘄以東の攻略を命じました。葛嬰は銍、酇、苦、柘、譙を攻めて全て下します。
資治通鑑』胡三省注によると、符離、銍、酇、譙とも沛郡に属します。「酇」は本来「」と書きました。
 
陳勝呉広は行軍しながら兵を集めて陳に至りました。車六七百乗、騎千余、卒数万人に膨れ上がっています。
 
西漢時代の賈誼が『過秦論(秦の過失を論じる文書)』を残しており、『新書』『史記秦始皇本紀』『陳渉世家(巻四十八)』等に記録されています。そこに陳勝の勢いが書かれています。以下、『秦始皇本紀』から『過秦論』を一部抜粋します
「陳渉は瓦甕で窓を作り、縄で戸を縛って閉めるような貧しい家に生まれた甿隸の人(身分が賎しい人。農夫)に過ぎず、遷徙(流浪)の徒であった。その才能は中人(普通の人)に及ばず、仲尼孔子墨翟墨子の賢があったわけでも陶朱や猗頓(どちらも富豪)の富があったわけでもなかったが、行伍(士卒の行列)の間で足を運び、什伯(十百。わずかな人数)の中で立ち上がり、罷散(疲弊散乱)した卒を率い、数百の衆を指揮し、身を転じて秦を攻めた。木を伐って兵器とし、竿を掲げて旗を作ると、天下が雲集するように響応し、食糧を持って景従(影のように従うこと)した。こうして山東の豪俊が共に決起し、秦族を亡ぼすことになったのである。」
 
資治通鑑』に戻ります。
陳勝が陳を攻撃した時、陳の守尉が不在で、守丞だけが譙門(高楼がある門)で戦いました。陳城は攻略され守丞は命を落とします。
こうして陳勝が入城して陳を拠点にしました。
 
守尉と守丞に関して『資治通鑑』胡三省注を元に少し解説します。
資治通鑑』は「守尉皆不在(守尉とも不在)」と書いており、『史記・陳渉世家』は「守令皆不在(守令とも不在)」としています。
資治通鑑』の「守尉」を「陳の守(郡守)と尉(郡尉、または県尉)」、『陳渉世家』の「守令」を「陳の守(郡守)と令(県令)」と読むことがありますが、陳は郡ではなく県なので「郡令」は存在しません。よってこの「守」は官名(郡守)ではなく「守る」という意味になります。
恐らく『陳勝世家』の「守令」は「尉」がぬけており、『資治通鑑』の「守尉」は「令」がぬけています。どちらも正しくは「守令尉」で、「陳県を守備していた県令と県尉」という意味になります。
「守丞」は「陳県を守っていた県丞」を指します。「令・尉・丞」は県に置かれた官名です。
 
以前、大梁(魏都)の人張耳と陳餘(陳余)が刎頸の交りを結びました。
秦は魏を滅ぼしてから、二人が魏の名士だと聞いて重賞を懸けて求めました。
張耳と陳餘は姓名を変えて陳に入り、里の監門(門の守衛。卑賎な衛卒)になって生活しました。
里吏が陳餘の過失を責めて笞打ったことがありました。陳餘は怒って決起しようとしましたが、張耳が陳餘の脚を踏んで合図を送り、笞を受けさせました。
里吏が去ってから張耳が陳餘を桑の下に連れて来て戒めました「かつて私と公(あなた)はどういう話をした?今、小辱を見ただけで一吏を殺したいと思うのか(または「一吏のために死にたいと思うのか。」原文「欲死一吏乎」)。」
陳餘は張耳に謝りました。
 
陳渉(渉は陳勝の字)が陳に入ると張耳と陳餘は門を訪ねて謁見を求めました。
陳渉はかねてから二人の賢才を聞いていたため大喜びします。
 
陳の豪桀父老が陳渉に楚王を名乗るよう求めました。
『陳渉世家』に豪桀父老の言葉が書かれています。
陳渉が陳に入って数日後、号令を出して三老、豪傑を集めました。計事(大事の計画)に参加させるためです。
三老と豪傑がそろって言いました「将軍は堅(甲)を身につけて鋭(武器)を持ち、無道を討伐して暴秦を誅し、再び楚国の社稷を立てました。その功によって王に立つべきです。」
 
資治通鑑』に戻ります。
陳渉が王号について張耳と陳餘に意見を求めると、張耳と陳餘はこう答えました「秦は無道で人の社稷を滅ぼし、百姓に暴虐を行いました。将軍が万死の計を出したのは、天下のために残(害)を除くためです。今、陳に至ったばかりなのに王を称したら、天下に私(私欲)を示すことになってしまいます。将軍は王を称さず、急いで兵を率いて西に進んでください。人を派遣して六国の後代を立て、自然に党(味方)を樹立して秦の敵を増やすべきです。(秦の)敵が多ければ(秦は)力を分散しなければならず、(我々が)衆と一緒になれば(我々の)兵が強くなります。こうすれば野において兵を交える者はなく(六国が協力するので陳勝が兵を西進させても妨害する者はいません)、県で城を守る者もなく(諸県が秦に背いて六国に属すので、秦のために城を守る者はいなくなります)、暴秦を誅して咸陽を占拠し、諸侯に号令を出すことができます。諸侯は一度亡んだのに再起するので徳(恩)を感じて服すでしょう。そうなれば帝業が完成できます。今、陳だけが王を称したら、恐らく天下が離れてしまいます。」
陳渉は二人の言を聴かず、自立して王を名乗りました。「張楚」と号します。
資治通鑑』胡三省注によると「張楚」というのは「張大楚国(楚国を大きくする)」という意味です。
 
 
 
次回に続きます。

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