秦楚時代 陳勝・呉広の蜂起

秦二世皇帝元年、陳勝呉広が挙兵しました。

秦楚時代11 秦二世皇帝(二) 陳勝・呉広の蜂起 前209年(2)

ここでは『史記陳渉世家(巻四十八)』を主軸にし、一部『漢書陳勝項籍伝(巻三十一)』も参考にして紹介します。
 

陳勝は陽城の人で字を渉といいます。

呉広陽夏の人で字を叔といいます。

陳渉は若い頃、人に雇われて農耕をしていました。

ある日、耕作の手を止めて壟(あぜ)の上で休み、久しく失意と苦悩を抱いてから一緒に雇われている者達にこう言いました「もし富貴になっても、互いに忘れないようにしよう。」

雇われている者達は笑ってこう応えました「汝は雇われて耕している身だ。どうして富貴になれるのだ。」

陳渉は嘆息してこう言いました「ああ(嗟乎)、燕や雀のような小さな鳥には、鴻鵠(大鳥)の志が理解できないものだ(燕雀安知鴻鵠之志哉)。」

 

二世皇帝元年七月、秦朝廷が閭左(本編参照)の人々を徴集して漁陽の守りに就かせることにしました。九百人が大沢郷(『漢書陳勝項籍伝』では蘄の大沢郷)に駐屯します。

陳勝呉広も兵役に駆り出されて屯長に任命されました。

一行が任地に向かう途中、ちょうど大雨が降って道が通れなくなりました。このままでは期日に間に合いません。期日に間に合わなかった場合、秦の法では全員斬首にされます。

そこで陳勝呉広謀って言いました「今の状況では、逃亡しても死ぬ。大計を挙げても死ぬ。等しく死ぬのなら、国を図って死ぬべきではないか死国可乎)。」

陳勝が言いました「天下は秦のために苦しんで久しい。私は二世が少子で即位するはずではなかったと聞いている。立つべきだったのは公子扶蘇だ。しかし扶蘇はしばしば諫言したため、上(陛下。始皇帝が外で兵を指揮するように命じた。最近、ある人が言うには罪もないのに二世によって殺されたそうだ。百姓は多くがその賢才を聞いているが、まだその死を知らない。項燕は楚将として度々功を立て、士卒を愛していたため楚人に憐れまれている。ある人は項燕が死んだと言い、ある人は逃亡したと言っている。今、我が衆を率いて偽って公子扶蘇と項燕を自称し、天下の唱倡。筆頭)となれば、多くの者が呼応するはずだ。」

呉広は納得してまず卜を行いました。

卜者は呉広の意図を知ってこう言いました「足下の事は全て成り、功を立てられるでしょう。しかし足下は鬼に対して卜すべきです(鬼神の力を借りるべきです。原文「卜之鬼乎」)。」

陳勝呉広喜んで鬼神を念じ、こう言いました「これは我々にまず衆を威圧するように教えているのだ。」

二人は帛布に「陳勝王」と丹書(赤い文字を書くこと)し、他者が置いた網にかかった魚の腹に入れました。

卒が魚を買って調理すると、魚腹の中から書が出てきます。この出来事は怪事とされました。

 

また、陳勝は秘かに呉広を駐屯地付近の叢祠(草むらの中にある祠)に送りました。

夜になると呉広は篝火を焚き、狐の鳴き声をまねてこう言いました「大楚が興り、陳勝が王となる(大楚興,陳勝王)。」

戍卒は夜の間驚恐しました。

日が明けると戍卒中に噂が拡がり、皆で陳勝を指さして見るようになりました。

 

呉広はかねてから人を愛していたため、士卒の多くが呉広に用いられることを望んでいました。

ある日、将尉(尉は秦官。卒を率いる県尉)が酒を飲んで酔いました。

広はわざと何回も逃亡したいと発言して県尉の怒りを誘います。県尉に自分を辱めさせて大衆を激怒させるのが目的です。

果たして県尉は呉広を笞で打ちました。

この時、県尉の剣が抜けました(原文「尉劔挺」。「劔」は「剣」、「挺」は「抜く」の意味。あるいは県尉が剣を抜いたのかもしれません)

呉広は立ち上がって剣を奪うと県尉を殺します。陳勝呉広を援けて二人の尉を殺しました。

陳勝が徒属を集めて言いました「公等は雨に遭ったので、皆、既に期日を失してしまった。期日を失したら斬られる。たとえ斬られなかったとしても、戍になったら十分の六七が必ず死ぬ。そもそも、壮士は死なないのならそれまでだが、死ぬとしたが大名を挙げるべきだ。王相に種はない(王侯将相寧有種乎)!」

徒属はそろって「恭しく命を受けます」と言いました。

 

二人は民の望みに応えるために公子・扶蘇と項燕を称します。

衆人が袒右(右肩を出すこと)して他の衆と異なることを示しました。

陳勝呉広の勢力は大楚と号します。

壇を築いて盟を誓い、尉の首を使って祭祀を行いました。

陳勝が自ら将軍に立ち、呉広都尉になります。

 

こうして陳勝呉広による反秦勢力が誕生しました。