秦楚時代12 秦二世皇帝(三) 章邯の反撃 前209年(3)

秦二世皇帝元年七月の続きです。
 
[] 『秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
当時、山東諸郡県の若者達は秦の法に苦しんでいました。そのため争って長吏(郡の守尉や県の令丞)を殺し、陳渉に呼応しました。それぞれの勢力が秦討伐を名目にして協力し、西に向かいます。挙兵した者は数え切れないほどいました。
 
秦の謁者が東方から咸陽に帰って二世皇帝に報告しました。
ところが二世皇帝は怒って謁者を司法の官吏に渡し、審問させました。
この後、咸陽に還った使者に二世皇帝が各地の状況を尋ねても、使者はこう答えました「群盗は鼠竊狗偸(鼠や犬のようにこそこそ盗むこと)と同じで、郡守や尉が逐捕(駆逐逮捕)しました。今は全て捕獲したので、憂いる必要はありません。」
二世皇帝は満足して喜びました。
 
[] 『史記・陳渉世家』と『資治通鑑』からです。
陳王陳勝は呉叔(叔は呉広の字)を假王とし、諸将を監督して西の滎陽を攻撃させました。
 
張耳と陳餘が再び陳王を説得し、奇兵で北の趙地を攻略するように勧めました。
陳王は以前から仲がいい陳人の武臣を将軍に任命し、邵騷を護軍にしました。張耳と陳餘を左右の校尉とし、兵卒三千人を与えて趙国の故地を攻略させます。
資治通鑑』胡三省注によると武姓は宋武公の子孫という説があります。但し、諡法によって武を諡号とする者は多いので、宋武公の子孫とは限らないともしています。
武氏は姫姓から出たという説も紹介しています。周平王の少子は生まれた時に手に「武」という模様がありました。そのため子孫が武を氏にしたといいます。
また、殷王武丁の子孫という説もあります。
邵姓は周文王の子にあたる邵公奭の子孫、または第十一子にあたる耼季載の子孫といわれています。
 
陳王は汝陰の人鄧宗にも九江郡の攻略を命じました。
資治通鑑』胡三省注によると、殷王武丁が叔父を河北に封じて鄧侯にしました。鄧氏はここから生まれました。
 
これ以前に葛嬰が東城に至って襄彊という者を楚王に立てました。
しかし陳勝が王位に立ったと聞き、襄彊を殺してから帰還して報告しました。
陳王は葛嬰を誅殺しました。
資治通鑑』胡三省注によると、襄氏は魯荘公の子襄仲の子孫です。
 
資治通鑑』はこれらの事を全て七月に書いていますが、『史記・秦楚之際月表』では七月から十月にかけての事となっています。以下、『秦楚之際月表』からです。
「七月 楚隠王・陳渉が挙兵して秦に入る。」
「八月 葛嬰が陳渉のために九江を攻略する(『資治通鑑』『陳渉世家』では葛嬰ではなく鄧宗)。葛嬰が襄彊を楚王に立てる。」
「九月 陳渉が王になったと聞き、葛嬰が襄彊を殺す。」
「十月 葛嬰を誅す。」
 
史記陳渉世家』と『資治通鑑』に戻ります。
陳王が魏人の周巿に命じて北の魏地を攻略させました。
 
呉広は栄陽を包囲しましたが、秦の李由(李斯の子)が三川守として栄陽を守っており、呉広は攻略できませんでした。
 
陳王は国の豪傑を集めて計を謀り、上蔡人の房君蔡賜を上柱国にしました。
資治通鑑』胡三省注によると「房」は邑の名です。房邑の爵位を得たため房君を号したようです。上柱国は楚国で最上の爵位です。
蔡は国名から生まれた氏です。
 
陳王は周文が陳の賢人で兵法にも通じていると聞き、将軍の印を与えて西の秦を撃たせました。
周文はかつて項燕の軍で視日(吉凶挙動の占)を行い、春申君に仕えたこともありました。
この後、周章という人物も出てきます。『史記陳渉世家』の注釈(集解)には「周文と周章は同一人物」と説明されており、『高祖本紀』の注釈(索隠)には「周章の字は文。陳人」と書かれています。
 
資治通鑑』にはありませんが、『史記陳渉世家』によると、陳王は銍(地名)の人宋留を派遣して南陽を平定させました。宋留は武関に入って南陽を攻略します。
 
史記項羽本紀(巻七)』には「広陵の人召平が陳王のために広陵を攻略した」ともあります。
 
当時、数千人で形成する楚兵の部隊は数え切れないほど存在しました。
 
少しややこしいので陳勝勢力の進行状況をまとめます。
西
假王呉広→滎陽攻撃。
宋留南陽から武関を目指す。
周文(周章)秦都咸陽を衝く。
 
鄧宗九江郡攻略。
召平広陵攻略。
 
武臣旧趙国の地を攻略。張耳陳余が従う。
周市旧魏国の地を攻略。

反秦勢力の進攻図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
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[十一] 『資治通鑑』からです。
武臣等は白馬(地名。白馬津)から黄河を渡って諸県に至り、豪桀を説得しました。豪桀は皆、武臣に呼応します。
武臣は行軍しながら兵を集めて数万人を得ました。武臣は「武信君」と号します。
 
武臣が趙の十余城を攻略しましたが、残りの城は全て固守しました。
武臣は兵を率いて東北に向かい、范陽を攻めました。
范陽の蒯徹が武臣を説得して言いました「足下(あなた)は戦に勝ってから領地を攻略し、進攻して優勢になってから城を下すべきだと思っていますが、臣が見るにこれは誤りです。臣の計を聴くのなら、攻撃しなくても城を降し、戦わなくても領地を攻略し、檄を伝えるだけで千里を定められます。如何ですか?」
武臣が問いました「どういう意味だ?」
蒯徹が言いました「范陽令の徐公は死を畏れているうえに貪婪なので、天下に先んじて降ろうとしています。あなたがもし(徐公を)秦が置いた吏とみなして以前の十城と同じように誅殺したら、辺地の城が全て金城湯池(堅固な城)と化すので攻撃できなくなります。あなたが臣に侯印を渡して范陽令に授けさせ、彼を朱輪華轂(豪華な車)に乗せて燕趙の郊を駆けさせれば、燕趙の城は戦わずに降るでしょう。」
武臣は「善し」と言って車百乗、騎馬二百と侯印を準備し、徐公を迎えました。
燕と趙の三十余城がそれを聞いて戦わずに投降しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると「蒯徹」は「蒯通」とも書かれます。漢代に武帝の諱(名。劉徹)を避けて「徹」が「通」に書き変えられました。蒯という姓氏は『春秋左氏伝』に登場し、晋の大夫に蒯得という者がいました。
 
陳王陳勝は周章を派遣してから、政治が混乱している秦を軽視して備えを設けませんでした。
博士孔鮒(『資治通鑑』胡三省注によると、魏相子順の子で、孔子の八世孫です。始皇帝焚書を行った際、書籍を隠しました)が諫めて言いました「臣が聞いた兵法にはこうあります『敵が我々を攻めないことに頼るのではなく、我々が攻められない状態であることに頼るべきだ(敵に攻められないようにするべきだ。原文「不恃敵之不我攻,恃吾不可攻」)。』今、王は敵に頼って自分の状況に頼ろうとしません。もし失敗して振るわなくなったら(跌而不振)、後悔しても及びません。」
しかし陳王はこう言いました「寡人(私)の軍は先生が心配する必要はない(無累)。」
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
周文(周章)は兵を集めながら関(函谷関)に至りました。
『秦始皇本紀』は「(二世皇帝)二年冬」としていますが、恐らく「元年秋」の出来事です。『資治通鑑』は秋七月に書いており、『六国年表』と『秦楚之歳月表』は二世皇帝元年九月の事としています。
 
周文は車千乗、兵卒数十万(『史記・陳渉世家』『資治通鑑』では「数十万」、『漢書陳勝項籍伝』では「十万」)を率いて戲(川の名。または邑名)に駐軍しました。
中国地図出版社の『中国歴史地図集(第二冊)』を見ると、戲は函谷関より西に位置し、咸陽の至近にあります。周文軍は既に函谷関を突破しました。
 
二世皇帝が大いに驚いて群臣に問いました「どうすればいい?」
少府(山林池沢の賦を掌る官)章邯が言いました「盗は既に来ました。衆強(人が多くて勢力が大きい)なので、今から近県の兵を動員しても間に合いません。驪山には徒(刑徒)が多いので、彼等の釈放を請います。兵(武器)を授けて撃たせましょう。」
資治通鑑』胡三省注から章氏の解説です。斉人が鄣国を攻略してから、その地の子孫が邑(阝)を除いて章氏を称しました。
 
二世皇帝は章邯の意見に同意して天下に大赦を行いました。
章邯を送って驪山の徒や人奴(奴婢)が産んだ子を解放させます。
章邯はこれらの人々を悉く動員して楚軍を撃ち、大勝しました。
周文は敗走して関を出ます。
 
尚、この時の周文と章邯の兵力について、東漢の荀悦が編纂した『前漢紀』の『前漢高祖皇帝紀(巻第一)』はこう書いています「周文が将軍になった。その衆は十余万。西の戲に至った時は、約百二十万の兵力になった。秦は将軍章邯に命じて驪山の刑徒を釈放させ、七十万人で迎撃した。」
周文の百二十万も章邯の七十万も多すぎるように思えます。
後に章邯は破れて項羽に降り、秦兵が新安で皆殺しにされますが、その時の兵数は二十万人でした(秦子嬰元年楚義帝元年漢高祖元年(前206年)十一月参照)
 
 
 
次回に続きます。

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