秦楚時代13 秦二世皇帝(四) 劉邦登場 前209年(4)

秦二世皇帝元年の続きです。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
張耳と陳餘は邯鄲に入った時、周章が退却したと知りました。
また、陳王のために各地を攻略した諸将でも、多くの者が帰還してから讒毀(讒言誹謗)によって罪を得て誅殺されたと聞きました。
そこで武信君・武臣を説得して自ら王を称させました。
 
八月、武信君が自立して趙王を称しました。陳餘を大将軍に、張耳を右丞相に、邵騷(『史記・陳渉世家』『漢書陳勝項籍伝』では「召騷」。『史記・張耳陳餘列伝(巻八十九)』は劭騷」。『資治通鑑』は『張耳陳餘列伝』を元にしています。以下同)を左丞相に任命します。
武臣は人を送って自立したことを陳王に報告しました。
 
陳王は激怒して武信君等の家を族滅し、兵を発して趙を撃とうとしました。
しかし柱国蔡賜(房君)が諫めて言いました「秦がまだ亡んでいないのに武信君等の家(『史記・陳渉世家』『漢書陳勝項籍伝』では「趙王将相の家族」)を誅してしまったら、もう一つの秦を生むのと同じです。これを利用して(武信君を)祝賀し、急いで兵を西に向けて秦を撃たせるべきです。
陳王は納得してこの計に従いました。まず武信君等の家属を宮中に移して軟禁し、張耳の子張敖を成都君に封じます。それから使者を送って趙を祝賀し、併せて兵を発して西の関(函谷関)に入るように促しました。
 
張耳と陳餘が趙王に言いました(『史記・陳渉世家』『漢書陳勝項籍伝』では「趙王将相が相談して言いました)「王が趙で王を称したのは、楚の本意ではありません。計があるから敢えて王を祝賀しているのです。もし楚が秦を滅ぼしたら、必ず兵を趙に加えます。王は西に兵を進めるべきではありません。北は燕代の地を攻略し、南は河内を収めて自分の勢力を拡げるべきです。そうすれば趙の南は大河黄河を守りとし、北は燕代を有すことになるので、楚がたとえ秦に勝ったとしても、趙を制することはできません。また、もし秦に勝てなかったら必ず趙を重んじます。趙は秦と楚の敝疲労に乗じて天下で志を得ることができます。
趙王はこの計に納得して兵を西に出しませんでした。韓広に燕を、李良に常山を、張黶に上党を攻略させます。
史記・陳渉世家』と『漢書陳勝項籍伝』は韓広を「元上谷の卒史」としており、『漢書』の注は「卒史は曹史」と解説しています。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
九月、沛人の劉邦が沛で挙兵しました。
資治通鑑』胡三省注によると、陶唐氏(帝堯の子孫)が衰えてから劉累という者が現れ、龍を操る能力によって夏王朝の孔甲に仕えました。劉累は豢龍氏を名乗ります。春秋時代に至って晋の士会が再び劉氏を称しました。
 
劉邦は字を季といい、その為人は隆準龍顔(鼻が髙くて龍のような顔)で、左股に七十二の黒子がありました。
人を愛して施しを好み、心が広くて常に大度(大志。または寛大な心)がありました。しかし家人の生産作業(農業)を手伝おうとはしません。
初めは泗上(泗水付近)の亭長になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、秦の法では十里を一亭といいます。亭長は亭を主管する官吏です。亭は本来、旅客が停留する宿食の館を指します。
 
単父(地名)の人呂公は人相を看るのが得意でした。劉季劉邦の容貌を見て奇異に思ったため、娘を嫁がせます。これが後に呂后となる人物です。
 
劉季は亭長として県の命令で徒衆を驪山に送ることになりました。ところが多くの徒が道中で逃亡してしまいます。
劉季は驪山に到着する頃には誰もいなくなってしまうだろうと考えました。
(沛県の郷)の西にある沢中の亭に到着した時、休んで酒を飲みました。
その夜、劉季は驪山に送る徒衆を全て釈放してこう言いました「公等は皆去れ。わしもこれから姿を隠す。」
徒衆の中で十余人の壮士が劉季に同行を願いました。
 
劉季は酒に酔って夜の沢中を歩きました。すると大蛇が小道を塞いでいます。劉季は剣を抜いて蛇を斬りました。
一人の老嫗(老婆)が哀哭して言いました「我が子は白帝の子で、蛇に化けて道を塞いだ。今、赤帝の子に殺されてしまった!」
老嫗は突然姿を消しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、秦襄公は少昊の神を奉じて西畤を造り、白帝として祀りました。秦献公も櫟陽で金の雨が降ったため畦畤を造って白帝を祀りました。少昊は金徳の帝王で、白は金徳を象徴する色です。
赤帝は堯の子孫(劉氏)で漢を指します。
 
劉季は芒(どちらも地名)の間の山沢に逃げて身を隠しました。
その後、周辺で奇怪な出来事が頻発するようになります。
沛中の子弟がそれを聞き、多くの者が劉季への帰順を願いました。
 
陳渉が挙兵した時、沛令(県令)が沛を挙げて呼応しようとしました。
主吏蕭何と掾曹参が県令に言いました「あなたは秦吏でありながら今それに背こうとしています。沛の子弟を率いたくても恐らく言うことを聴かないでしょう。あなたは外に逃亡している者を招くべきです。数百人を得てから、それを使って衆(民衆)を脅せば、衆が命令を聴かないはずがありません。
 
資治通鑑』胡三省注によると、宋国の支子庶子が蕭を食邑とし、その子孫が邑名を氏にしました。蕭何の氏です。
 
沛令は樊噲に命じて劉季を招かせました。
劉季の衆は既に数十百人(数十から百人)になっています。
それを見た沛令は変事を恐れて後悔しました。城門を閉じて守りを堅め、蕭何と曹参を殺そうとします。
蕭何と曹参は恐れて城壁を乗り越え、劉季に保護を求めました。
劉季は書帛を城壁に射て沛県の父老に利害を説きました。
父老は子弟を率いて共に沛令を殺し、城門を開いて劉季を招き入れます。
人々は劉季を沛公に立てました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、春秋時代に楚が王号を僭称し、大夫の多くが県公に封じられました。申公、葉公、魯陽公等です。劉季が沛県で自立して沛公を名乗ったのは楚の制度に則っています。
 
蕭何、曹参等は沛の子弟を集めて三千人を得ました。劉季はこの勢力を率いて反秦の諸侯に呼応します。
劉邦は胡陵、方與(地名)を攻めてから豊に還って守りました。
 
劉邦が胡陵と方與を攻めてから豊に還った」という記述は、『史記高祖本紀』と『資治通鑑』では秦二世皇帝元年(本年)九月の事としていますが、『漢書帝紀』は秦二世皇帝二年(翌年)十月(歳首)と書いています。以下、『漢書』からです。
「この月、項梁と兄の子・項羽が呉で挙兵した。田儋と従弟の田栄、田横が斉で挙兵し、自立して斉王になった。韓広が自立して燕王になり、魏咎が自立して魏王になった。陳渉の将・周章が西進して関に入り、戲に至ったが、秦将・章邯が防いで破った。
秦二世皇帝二年十月、沛公が胡陵、方與を攻め、還って豊を守った。」
 
劉邦が挙兵するまでの事は『史記高祖本紀』に詳しく書かれています。別の場所で紹介します。

秦楚時代 挙兵前の劉邦(1)

秦楚時代 挙兵前の劉邦(2)

 
 
 
次回に続きます。