秦楚時代 挙兵前の劉邦(2)

劉邦が挙兵するまでの事を『史記・高祖本紀』を元に紹介しています。

秦楚時代 挙兵前の劉邦(1)

 

高祖が亭長だった頃、竹皮の冠を被りました。求盗を薛(地名)に派遣して作った物です。高祖はしばしばこの冠を被っており、高貴になってからもよく被ったため、「劉氏冠」と呼ばれるようになりました。

『集解』によると亭(道に設けられた宿舎)には二種類の兵卒がいました。一つは「亭父」といい、亭の開閉や掃除を担当します。もう一つは「求盗」といい、盗賊を追跡逮捕しました。

『索隠』によると高祖が使った冠は「長冠」ともいい、楚の制度に則った冠です。後には鵲尾冠とも呼ばれました。

『索隠』は「求盗」に関して『集解』と異なる説を載せています。昔は亭卒を「弩父」といい、陳楚では「亭父」、または「亭部」といい、淮水泗水流域では「求盗」と呼んだようです。

 

高祖は亭長として県のために徭役の徒を酈山に送りました。しかし途中で多くの者が逃走してしまいます。高祖は到着するまでに皆いなくなってしまうだろうと考えました。

豊西の沢に来た時、足を止めて酒を飲みました。

その夜、全ての徒衆を釈放してこう言いました「公等は皆去れ。私もこれから去る。」

徒衆の中で十余人の壮士が高祖に従うことを希望しました。

高祖は更に酒を飲み、夜に乗じて小路から逃走しました。

 

沢の中で一人を先行させました。

暫くして、その者が戻って報告しました「前方に大蛇がいて道を塞いでいます。引き還しましょう。」

高祖は酔ってこう言いました「壮士が進もうとしているのに何を畏れるのだ!」

高祖は前に進むと剣を抜いて大蛇を斬りました。蛇は二つになり、道が開かれます。

高祖は数里進んだ所で酔いが回って寝てしまいました。

後の者達が大蛇の場所まで来ると、夜中なのに一人の老嫗(老婆)が哀哭していました。

人々はなぜ泣いているのか問います。

老嫗が言いました「人が我が子を殺したから哀哭しているのです。

人々が問いました「嫗(あなた)の子はなぜ殺されたのですか?」

老嫗が言いました「我が子は白帝(西方の神。秦を象徴します)の子で、蛇に化けて道を塞いでいました。しかし赤帝の子に斬られてしまいました。だから哀哭しているのです。」

人々は老嫗が嘘をついていると思って笞で打とうとしました。

すると老嫗は突然姿を消しました。

後から来た人々が高祖に追いついてから、高祖はやっと目を覚ましました。

人々が高祖に老嫗の事を報告すると、高祖は心中で喜び、自分が尋常ではないと信じました。

高祖に従う者は日増しに高祖を畏敬するようになりました。

 

始皇帝は常々「東南に天子の気がある」と言っていました。

そこで気を鎮めるために東游しました。

高祖は自分に関係があると疑って逃走し、芒山と碭山の山沢岩石の間に隠れました。

ところが呂后と人々が探し始めると必ず見つかってしまいます。

高祖が不思議に思って理由を問うと、呂后はこう言いました「季(あなた)が居る場所の上には常に雲気があるので、いつも季を見つけられるのです。

高祖は心中で喜びました。

沛中の子弟でこの事を聞いた多くの者達が帰順を願いました。

 

秦二世皇帝元年秋、陳勝等が蘄(地名)で挙兵し、陳に入って王を称しました。「張楚」と号します(『漢書帝紀第一』は当時の状況を「秦二世元年秋七月、陳涉が蘄で挙兵して陳に至り、自立して楚王になった。その後、武臣、張耳、陳餘を派遣して趙地を攻略させた。八月、武臣が自立して趙王になった」と書いています)

諸郡県の多くが長吏を殺して陳渉陳勝に呼応しました。

沛令も恐れたため、沛を挙げて陳渉に呼応しようとしました(『史記・高祖本紀』の本文は明記していませんが、『史記・集解』と『漢書・高帝紀』は「九月」としています)

主吏蕭何と獄掾曹参が言いました「あなたは秦の官吏です。今、それに背いて沛の子弟を率いようとしていますが、恐らく人々はあなたの指示を聞きません。あなたは外に逃亡した者を集めるべきです。そうすれば数百人を得ることができます。これを利用して衆を脅せば、衆は必ず指示を聴きます。

沛令は樊噲に命じて劉季を招かせました。この時、劉季の衆は既に数十百人(数十人から百人)になっていました。

 

樊噲が劉季と一緒に来ました。

ところが沛令は後悔し、変事が起きるのではないかと恐れます。そこで城門を閉じて守りを堅め、蕭何と曹参を殺そうとしました。

蕭何と曹参は恐れて城壁を越え、劉季に保護を求めます。

劉季は書帛を城内に射て沛の父老にこう伝えました「天下が秦に苦しんで久しくなります。今、父老は沛令のために城を守っていますが、諸侯がそろって立ち上がり、沛城を落として皆殺しにしようとしています(屠沛)。今、沛の人々が共に令(県令)を誅殺し、子弟を選んで相応しい者を立ててから諸侯に応じれば、家室を保つことができます。そうしなければ父子ともに屠殺されて何も残りません(原文「無為也。」「価値がない」「意味がない」という意味。)。」

父老は子弟を率いて共に沛令を殺し、城門を開いて劉季を迎え入れました。劉季を沛令に立てようとします。

劉季が言いました「天下は混乱したばかりで諸侯が並び立っています。今、将をおいても不善であったら(相応しくなかったら)、壹敗塗地(一朝にして敗北し、肝脳が地を染めること)となるでしょう。私は自愛しているのではありません。能(能力)が薄くて父兄子弟を守れないのではないかと恐れているのです。これは大事なので、改めて相応しい者を選んで推すことを願います。」

蕭何、曹参等は文吏(文官)で自分を愛していたため、事が失敗してから秦に家族を誅滅されることを恐れて劉季に譲りました。

諸父老も皆こう言いました「以前から劉季にはいろいろな珍怪なことが起きていると聞いた。高貴になるはずだ。それに、卜筮を行った結果も劉季より吉となる者はいなかった。」

劉季は何回も辞退しましたが、他に上に立とうとする者がいなかったため、ついに沛公に立ちました。高祖が楚の制度に従って県公を称したのは、陳渉が楚王張楚王)を称したためです。

『集解』によるとこの時、高祖は四十八歳でした。

 

高祖は沛庭(県の政府)黄帝と蚩尤(戦神)の祭祀を行い、鼓旗に犠牲の血を塗りました(釁皷旗)

旗幟を全て赤に統一します。これは白帝の子である大蛇を殺したのが赤帝の子だと言われたからです。

沛県の若者や蕭何、曹参、樊噲等の豪吏が沛公のために兵を集め、子弟二三千人が集結しました。

高祖は胡陵、方與(地名)を攻めてから引き返して豊を守りました。