秦楚時代14 秦二世皇帝(五) 項羽登場 前209年(5)

秦二世皇帝元年九月の続きです。
 
[十五] 『史記項羽本紀』と『資治通鑑』からです。一部、『漢書陳勝項籍伝』も参考にします。
下相の人項梁も呉で挙兵しました。
項氏は代々楚将となり、項(地名)に封じられたため、項を氏にしました。
楚が滅亡した時の名将項燕は項梁の父です。
 
項梁はかつて櫟陽で逮捕されたことがありました。史書には原因が書かれていません。
項梁は蘄(地名)の獄掾曹咎に頼んで櫟陽の獄掾司馬欣に書信を送り、助けを求めました。そのおかげで間もなく釈放されます。
後に項梁は人を殺したため、兄の子項籍を連れて、仇を避けて呉中に移りました。
呉中の賢士大夫が皆、項梁に帰順しました。
 
項籍は字を羽といいます。
少年の頃に書を学びましたが成就せず、剣を学んでも成就しませんでした。
項梁が怒ると項籍はこう言いました「書は名姓(姓名)を記せるだけです(書,足以記名姓而已)。剣は一人を敵にするだけなので学ぶに足りません(剣,一人敵不足学)。万人を敵とする術を学びたいのです(学万人敵)。」
項梁は項籍の考えを普通ではないと思い、兵法を教えることにしました。項籍は大喜びします。
ところが項籍は兵法の大意を知るとまた学ばなくなりました。
 
呉中で大きな繇役や喪があると、常に項梁が主持しました。秘かに兵法を用いて賓客や子弟に指示を出し、その能力を確認します。
 
始皇帝が会稽を巡遊して浙江を渡った時、項梁が項籍を連れて見に行きました。すると項籍が言いました「彼は私が取って代わることができる(彼可取而代也)。」
項梁は項籍の口を塞いで「妄言を吐くな。族滅に処される!」と言いましたが、項籍を普通の人材ではないと思いました。
 
後に項籍と天下をかけて戦うことになる劉邦始皇帝を見たことがあります。『史記高祖本紀』からです。
劉邦が咸陽で徭役に従事していた時、巡行中の始皇帝を自由に見る機会があったため、劉邦も見に行きました。劉邦は嘆息してこう言いました「ああ、大丈夫とはこうあるべきだ(嗟乎,大丈夫当如此也)
項籍と劉邦の人柄の違いを描いています。
 
項羽本紀』と『資治通鑑』に戻ります。
項籍は身長が八尺余(『史記項羽本紀』と『資治通鑑』は「八尺余」。『漢書陳勝項籍伝』は「八尺二寸」)もあり、力は鼎を持ち上げることができました。才器(才能度量)は常人を越えています。呉中の子弟は皆、項籍を敬畏しました。
 
秦二世皇帝元年七月、陳渉等が大沢で蜂起したため、九月に会稽守(郡守)殷通が項梁に言いました「江西が全て反した。今は天が秦を亡ぼす時だ。先んずれば人を制し、遅れれば人に制されるという。私も兵を発し、公(あなた)と桓楚を将にしたいと思う。」
資治通鑑』胡三省注によると、西周武王が商(殷)を滅ぼしてから、商王朝の子孫が分散して殷を氏にしました。ちなみに、『資治通鑑』では「殷通」としていますが、『史記』と『漢書』では「会稽守・通」「会稽假守(非正式な郡守。もしくは兼任の郡守)・通」としています。
 
この時、桓楚は沢中に逃亡していました。
項梁が言いました「桓楚は逃亡しており、居場所を知っている人はいませんが、籍項羽)だけが知っています。
項梁は一度退出すると項籍に剣を持って外で待たせ、再び項梁だけで部屋に入って殷通と一緒に座りました。
項梁が言いました「籍を召すことをお許しください。彼に命を与えて桓楚を招かせましょう。
殷通は「わかった(諾)」と言いました。
項梁は項籍を招き入れると、すぐに項籍に目で合図して「今だ(可行矣)!」と言いました。
項籍は剣を抜いて殷通の頭を斬ります。
項梁が殷通の頭を持ち、印綬を佩しました。
 
ここまでの内容は『史記』と『資治通鑑』を元にしました。
「先んずれば人を制し、遅れれば人に制される(『史記項羽本紀』は「先即制人,後則為人所制」。『漢書陳勝項籍伝』では「先発制人,後発制於人」。『資治通鑑』では省略されています)」というのは項梁・項羽に関係する名言の一つですが『史記項羽本紀』では殷通が言っているのに対し、『漢書陳勝項籍伝』では項梁の言葉になっています。以下、『漢書』からです。
秦二世皇帝元年、陳勝が挙兵しました。九月、会稽の假守(非正式な郡守。もしくは兼任の郡守)・通が以前から項梁の賢才を認めていたため、招いて事を計りました。
項梁が言いました「最近、江西が全て秦に反しました。今こそ天が秦を亡ぼそうとしている時です。先に発すれば人を制し、後に発すれば人に制されるものです(先発制人,後発制於人)。」
会稽守が嘆息して言いました「夫子(先生)は楚将の世家(代々の名家)だと聞いた。足下の意見に従うだけだ。」
項梁が言いました「呉には奇士の桓楚がいますが、沢中に逃亡していて誰も知る者がいません。ただ籍項羽だけが知っています。」
項梁は(一度外に出て)項籍に剣を持って外で待機するように指示してから、再び部屋に入って郡守にこう言いました「籍を召してください。令(命令)を与えて桓楚を招かせましょう。」
項籍が部屋に入ると項梁は項籍に目で合図を送って「今だ(可行矣)!」と言いました。
項籍は剣を抜いて郡守を斬ります。項梁が郡守の頭を持って印綬を佩しました。
 
以下、『史記』と『資治通鑑』に戻ります。
殷通の門下が驚愕して大混乱に陥りました。項籍は数十百人(数十から百人)を撃殺します。
府中の人々は全て色を失って地に伏せ、誰も立ち向かおうとしません。
項梁は以前から関係が深い豪吏(優秀な官吏)を集め、これから為そうとしている大事について説諭しました。
その後、呉中の兵を挙げて蜂起し、人を送って下県(会稽郡下の県。郡治所がある呉県以外の県)の兵を集め、精兵八千人を得ました。
 
項梁は呉中の豪傑を校尉、候、司馬に任命しました。
ある者が項梁に用いられなかったため、自ら項梁に会いに行きました。
項梁が言いました「以前、某(ある人)の喪を公(あなた)に主事させたがうまく処理できなかった。だから公を任用しないのだ。
人々は項梁の判断に感服しました。
 
項梁が会稽守に、項籍が裨将になり、下県を巡撫しました。項籍はこの時二十四歳でした。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
狄県の人・田儋は斉の王族で、田儋の従弟田栄と田栄の弟田横も豪健宗強(勢力が強大で家族も強盛)だったため人心を得ていました。
 
楚将の周巿が領地を拡大して狄県に至った時、狄県の人々は城の守りを固めました。
田儋は自分の奴僕を捕らえたふりをして縛り、少年(若者)を連れて廷(狄の県廷)に行きました。県令に謁見して奴僕を死刑にする許可を求めます。
資治通鑑』胡三省注によると、奴婢を処刑する際にも官(政府)に報告する必要があったようです。
狄令に会った田儋はその機を利用して撃殺しました。
その後、豪吏子弟を集めて言いました「諸侯が皆、反秦のために自立している。斉は古に国が建てられた。儋(私)は田氏であり、王になるべきだ!」
田儋は自立して斉王になりました。
 
田儋が兵を発して周巿を迎撃したため、周巿の軍は撤退しました。
田儋は兵を率いて東方を攻略し、斉地を平定しました。
 
[十七] 『資治通鑑』と『史記・陳渉世家』からです。
趙将韓広が兵を率いて北の燕を平定しに行きました。『史記・秦楚之際月表』には「韓広が趙のために地を攻略して薊(旧燕国の都)に至った」とあります。
 
旧燕国の貴人・豪傑が共に韓広を燕王に立てようとしてこう言いました「楚が既に王を立て、趙も既に王を立てました。燕は小さいとはいえ、万乗の国です。将軍が燕王に立つことを願います。」
しかし韓広は「広(私)の母は趙(武臣)にいるから同意できない」と言いました。
燕人が言いました「今の趙は、西は秦を憂い、南は楚を憂いているので、我々を禁じる力はありません。それに楚の強さがあっても(趙王・武臣が独立した時に)趙王・将相の家を害することはできませんでした。どうして趙だけが将軍の家を害そうとするのでしょうか。
韓広は自立して燕王を称しました。
数か月後、趙は燕王の母とその家属を韓広に送りました。
 
趙王(武臣)と張耳、陳餘が北方に領土を拡げて燕界に至りました。
趙王が秘かに外出した時、燕軍に捕えられてしまいました。
燕は趙王を囚禁して領地の割譲を要求しようとします。
趙の使者が趙王の釈放を求めるため燕に行きましたが、燕は全て殺しました。
趙軍の廝養卒(炊事をする兵卒)が燕の城壁に走り、燕将を見つけて言いました「君は張耳と陳餘が何を欲しているか知っているか?」
燕将が言いました「王を得たいのであろう。
趙の養卒(廝養卒)が笑って言いました「君はあの両人が欲していることをまだ知らないのだ。武臣、張耳、陳餘は馬箠(馬鞭)を持って趙の数十城を下し、それぞれが南面して王を称したいと思っている。将相のまま生涯を終えたいと思っているはずがない。しかし形勢が定まったばかりなので三分して王になるわけにはいかず、また少長(長幼の序列)があるからまず武臣を王に立てて趙の民心を安定させようとしたのだ。今、趙の地が既に服したので、両人も趙を分けて王になりたいと思っているが、その時がまだ来ていなかった。ところが君は趙王を捕らえてしまった。両人は趙王を求めるという名目を使っているが、実際は燕に殺してほしいのだ。両人は趙を分けて自立するつもりだ。一つの趙でも燕を軽んじていたのに、二人の賢王が左右で手を取りあって(左提右挈)王を殺した罪を譴責したら、燕は容易に滅ぼされるだろう!」
燕将は趙王を帰国させることにしました。
養卒が趙王を御して帰還しました。
 
[十八] 『資治通鑑』からです。
田儋に撃退された周巿が狄から還って魏の地に至りました。
かつて魏の公子だった寧陵君咎を王に立てようとします。
 
史記魏豹彭越列伝(巻九十)』によると、魏咎は魏国の公子で、寧陵君に封じられました。しかし秦が魏を滅ぼしてから魏咎は家人(庶人)に遷されました。
陳勝が挙兵して王を称すと、魏咎は陳に赴いて従いました。
 
資治通鑑』に戻ります。
巿が魏の地を平定した時、諸侯は皆、周巿を魏王に立てようとしました。
しかし周巿はこう言いました「天下が昏乱したら忠臣が現れるものだ。今、天下が共に秦に叛した。義によって魏王の後代を立てるべきだ。」
諸侯は頑なに周巿を魏王に立てようとしましたが、周巿は終始同意しませんでした。
こうして魏咎が陳から招かれることになりました。
使者が五回往復してから、陳王はやっと魏咎を送り出します。
魏咎が魏王に即位し、周巿は魏相になりました。
 
『秦楚之際月表』を見ると、本年九月は「魏咎は陳におり、国に帰れず」とあり、秦二世皇帝二年(翌年)十一月(十月が歳首)に「斉と趙が共に周巿を立てるが、周巿は拒否して『必ず魏咎を立てる』と言う」、十二月に「魏咎が陳から帰って立つ」としています。
 
[十九] 『資治通鑑』からです。
この年、二世皇帝が衛君角を庶人に落としました。
ここにおいて衛の祭祀も途絶えて周代の列国が完全に消滅しました。
史記衛康叔世家』によると衛君角二十一年のことです。
 
 
 
次回に続きます。