秦楚時代17 秦二世皇帝(八) 楚懐王即位 前208年(3)

今回も秦二世皇帝二年三月の続きからです。
 
[十三] 『史記項羽本紀』『高祖本紀』と『資治通鑑』からです。
広陵の人召平が陳王陳勝のために広陵を攻めていましたが攻略できませんでした。
資治通鑑』胡三省注によると、召氏は西周文王の子にあたる召公奭の後代です。
 
召平は陳王が敗走して秦の章邯が迫っていると聞き、長江を渡りました。そこで陳王の令を偽って項梁を楚の上柱国に任命し、こう言いました「江東は既に平定した。急いで兵を率いて西の秦を撃て!」
項梁は八千人を率いて長江を渡り、西に進みました。
資治通鑑』はこれを三月に書いていますが、『史記集解』は「二世の二年正月」と注釈しています。
 
その頃、陳嬰が東陽を平定しました。項梁は使者を送って陳嬰と連合し、共に西進しようとします。
陳嬰はかつて東陽の令史(令吏。『正義』によると一説では「東陽獄史」)を勤めており、県内に住んでいました。信謹(誠信慎重)な性格で長者と称されています。
もとは東陽の若者が県令を殺して数千人の勢力を形成しました。若者達は長を選ぼうとしましたが、相応しい人物がいません。そこで陳嬰が長になるように求めました。陳嬰は能力がないと言って辞退しましたが、若者達は強制して長に立てます。その結果、県内で従う者は二万人に上りました。
人々は頭に青い頭巾を巻いて他の軍と区別し(蒼頭。呂臣も蒼頭軍を組織しました)、陳嬰を王に立てようとしました。
しかし陳嬰の母(『集解』によると陳嬰の母は潘旌(地名)の人です)が陳嬰にこう言いました「私が汝の家の婦になってから(あなたの父に嫁いでから)、汝の先世(先祖)で尊貴な地位にいた者がいたとは聞いたことがありません。今、突然大名を得たら不祥となります。他の誰かに所属するべきです。そうすれば、事が成れば封侯を得られ、事が失敗しても世に指名されることはないので容易に逃れられます。
陳嬰は敢えて王を称さず、軍吏にこう言いました「項氏は世世(代々)将家(将軍の家系)であり楚で名が知られている。今、大事を挙げようとするのなら、将となるのはこの人でなければならない。我々が名族に頼れば亡秦は必ず成功する。」
東陽の衆はこれに従い、全兵を挙げて項梁に属しました。
 
英布も秦軍を破って東に向かっていました。
項梁が淮水を西に渡ったと聞き、英布と蒲将軍(蒲は姓氏。名は不明)も項梁に属します。項梁の衆は六七万人に上り、下邳に駐軍しました。
史記・秦楚之際月表』は二月に項梁が長江を渡り、陳嬰と黥布が従ったと書いています(『資治通鑑』は三月になっています)
 
楚王景駒と秦嘉は彭城東に駐軍しており、項梁の進軍を妨げようとしました。
項梁が軍吏に言いました「陳王が先に首事したが戦が不利になり、所在が分からなくなった。今、秦嘉は陳王に背いて景駒を立てた。大逆無道である。」
項梁は兵を進めて秦嘉を撃ちました。秦嘉軍は敗走します。
項梁が追撃して胡陵に至りました。秦嘉は兵を還して一日中戦いましたが、秦嘉は戦死し、軍は降伏しました。
景駒も梁地(旧魏地)に奔って死にました。
 
項梁は秦嘉の軍を吸収してから胡陵に駐軍しました。軍を率いて西に向かおうとします。
秦将章邯の軍が栗(地名)に至ったため、項梁は別将朱雞石と余樊君に交戦させました。ところが余樊君は戦死し、朱雞石の軍も敗れて胡陵に逃亡します。
項梁は兵を率いて薛に入り、朱雞石を誅殺しました。
 
沛公劉邦は項梁が薛にいると聞いて、騎兵百余を率いて会いに行きました。
項梁は沛公に士卒五千人と五大夫将十人(五大夫に相当する将十人。十人の五大夫を将にしたという意味です。『集解』によると五大夫は第九爵です)を与えます。
沛公は兵を率いて還ってから豊を攻めて攻略しました。雍歯は魏に奔りました。
『秦楚之際月表』と『漢書・高帝紀』によると項梁が景駒を倒して薛に入り、沛公が項梁に帰順して豊を攻略したのは四月の事です(『資治通鑑』は三月のままです。『史記・高祖本紀』は明確にしていません)
 
項梁は項羽を分派して襄城を攻めさせました。
しかし襄城が堅守したためなかなか下せません。やっと攻略した時、項羽は城民を全て阬(生埋め)にしてから戻って戦勝を報告しました。
史記・高祖本紀』には「沛公劉邦が項梁に従って一月余りで項羽が襄城を攻略して帰還した」とあり、『漢書・高帝紀』は「五月」の事と明記しています(『資治通鑑』は三月のままで、『秦楚之際月表』には記述がありません)
 
項梁は陳王陳勝の死が間違いないと聞き、諸将を薛に集めて今後のことを議しました。沛公も参加します。
『秦楚之際月表』と『漢書・高帝紀』によると、劉邦は六月に薛に入りました(『資治通鑑』は三月のままです。『史記・高祖本紀』は明確にしていません)
 
范増(『索隠』によると一説では「阜陵人」)は七十歳になり、常に家に住んでいましたが、奇計を得意としたため、項梁に会いに行ってこう言いました「陳勝の失敗は当然のことです。秦が六国を滅ぼした時、楚が最も無罪でした。懐王が秦に入って還れなくなり、楚人は今に至るまで憐れんでいます。だから楚の南公(『資治通鑑』胡三省注によると南方の老人。または道士の名で、秦が亡ぶことを予言したともいいます)はこう言いました『楚がたとえ三戸だけになっても、秦を亡ぼすのは必ず楚だ(原文「楚雖三戸,亡秦必楚」。通常は「楚が三戸(三軒)だけになっても、秦を亡ぼすのは楚だ」と読みますが、『索隠』『正義』には三戸を地名とする説も紹介されています。三戸は漳水の渡し場(三戸津)で、翌年、項羽は三戸津を渡ってから章邯軍を破って秦軍を追いこんでいきます)。』今回、陳勝が首事しましたが、楚の後代を立てずに自ら立ちました。だからその勢力は長くなかったのです。今、あなたが江東で起きてから、楚で蠭起(蜂起)した将が皆争ってあなたに帰順しているのは、あなたが世世(代々)楚将であり、再び楚の後代を立てることができると信じているからです。」
項梁はこの言葉に同意し、楚懐王の孫に当たる心(羋心)を民間で捜し出しました。この時、羋心は人のために牧羊をしていました。
 
夏六月、民望に従うため、羋心は祖父の諡号と同じ楚懐王に立てられました。
陳嬰が上柱国として五県を封じられ、懐王と共に楚都盱眙を建てます。
項梁は自ら武信君と号しました。
史記項羽本紀』『資治通鑑』はこれらをまとめて書いていますが、『秦楚之際月表』では、楚懐王の即位と盱眙の建都を六月、陳嬰が柱国(上柱国)になるのを七月の事としています。
 
張良が項梁に言いました「あなたは既に楚の後代を立てました。韓の諸公子では横陽君(成は名)が最も賢人なので、王に立てれば樹党を増やすことができます。
項梁は張良を送って韓成を探させ、韓王に立てました。
張良が韓の司徒(申徒)となり、韓王と共に千余人を率いて西の韓地を攻略します(一時、劉邦と別れることになりました)
韓軍は数城を得ましたが、すぐ秦軍に奪取されました。
韓軍は潁川(旧韓の地)で游兵として活動しました。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
秦の章邯は陳王陳勝を破ってから兵を進めて臨済で魏王を撃ちました。
魏王魏咎は周巿を派遣して斉と楚に救援を求めました。
史記・秦楚之際月表』によると、章邯が臨済で魏王・魏咎を包囲したのは端月(正月)、魏が周巿を派遣して斉と楚に救援を求めたのは四月の事です。
 
斉王田儋と楚将項它が兵を指揮して周巿に従い、魏を援けに行きました。
 
しかし章邯は兵馬に枚(声を出さないため口に含む板)を銜えさせて夜間に攻撃を開始し、斉楚連合軍を臨済城下で大破しました。斉王田儋と周巿が殺されます(六月の事です。『漢書陳勝項籍伝』は斉王田儋が臨菑で殺されたと書いていますが、臨済の誤りです
魏王咎は民のために投降を約束しました。降伏が受け入れられると自ら焼死します。
弟の魏豹は楚に亡命しました。
楚懐王は魏豹に数千人を与えて再び魏地を攻略させました。
資治通鑑』はこれらを六月にまとめて書いていますが、『秦楚之際月表』には「六月、魏咎が自殺し、臨済が秦に降る」「七月、魏豹が東阿に走る」とあります。七月に項梁が東阿で章邯の秦軍を大破するので、魏豹は東阿にいた項梁軍に帰順したのかもしれません。その場合、楚懐王の命によって魏豹が魏地攻略に向かうのは七月以降の事となります(『史記・魏豹彭越列伝(巻九十)』では事件が発生した月が明確にされていません)
 
斉の田栄は兄(従兄)田儋の余兵を集め、東の東阿に走りました。章邯は田栄を追撃します。
 
その頃、斉人は田儋が既に死んだと聞き、旧斉王建の弟假を王に立てました。田角が斉の相に、田角の弟田間(『資治通鑑』が「田間」。『史記項羽本紀』『漢書陳勝項籍伝』では「田閒」)が将になって諸侯と並立します。
『秦楚之際月表』では、斉王・假の即位は七月の事となっています。
 
 
次回に続きます。

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