秦楚時代18 秦二世皇帝(九) 趙高と李斯 前208年(4)

今回も秦二世皇帝二年の続きです。
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
秋七月、大雨が三日以上続きました(大霖雨。霖雨は三日以上の雨の意味)
史記・秦楚之際月表』では「天が大雨を降らせ、三カ月にわたって星が見えなかった」としています。
漢書・高帝紀』には「七月、三日以上の雨(大霖雨)」「七月から九月まで雨が続いた」という記述があります。
 
[十六] 『史記項羽本紀』『高祖本紀』と『資治通鑑』からです。
武信君項梁は兵を率いて亢父(地名)を攻めていました。沛公・劉邦も項梁に従っています。
史記項羽本紀』『高祖本紀』は楚懐王が即位して数カ月後(居数月)に項梁が兵を率いて北の亢父を攻めたとしていますが、実際は楚懐王の即位は六月なので、約一月しか経っていません。『漢書陳勝項籍伝』では楚懐王が即位してすぐに項梁が亢父を攻めています。
 
楚軍(項梁、項羽劉邦等)は田栄の急を聞いて急いで東阿城下に移動し、章邯軍を大破しました。章邯は西に走ります。
資治通鑑』には書かれていませんが、『項羽本紀』によると東阿の戦いには田栄(東阿で包囲されています)と司馬龍且(龍が姓氏。恐らく楚の司馬)も参戦して項梁を援けました。
 
田栄は兵を率いて東の斉に帰りました。
武信君項梁は単独で敗走する秦兵を追撃し、項羽と沛公劉邦を分派して城陽を攻撃させました。城陽は屠されます(皆殺しにされます)
 
楚軍項羽と劉邦は西進して濮陽東に駐軍し、再び章邯と戦って破りました。
しかし章邯は改めて兵を集めて勢力を回復させ、濮陽を守りました。水を引いて城を濠で囲みます(または「河川を利用して営塁をめぐらしました」。原文「守濮陽環水」)
沛公と項羽は兵を還して定陶を攻めました。
 
[十七] 『史記項羽本紀』と『資治通鑑』からです。
八月、田栄は斉で王位に立った田假の地位を認めず、田假を駆逐しました。田假は楚に亡命し、相田角は趙に奔りました。
 
斉の将軍田間(田閒。田角の弟)はこれ以前に趙に入って救援を求めていました。田假が駆逐されたと聞いて帰国をあきらめます。
 
田栄は田儋の子巿を斉王に立てました。田栄が相になり、田横が将として斉地を平定します。
 
資治通鑑』によると、この間に章邯軍がますます勢いを増したため、項梁はしばしば斉と趙に使者を送って共に章邯を撃つように呼びかけました。
しかし『史記項羽本紀』と『漢書陳勝項籍伝』はこう書いています「項梁は東阿の城下で秦軍を破ってから、秦軍を追撃した。しばしば斉にも出兵をうながし、共に西進しようとした。
項梁が斉に援軍を求めたため、『資治通鑑』は「章邯軍が勢いを増した」と書き変えたようです。
 
項梁による援軍の要請を受けた田栄はこう言いました「楚が田假を殺し、趙が田角と田間を殺せば出兵しよう。
項梁はこう答えました「田假は與国(同盟国)の王となり、困窮してわしに従った。殺すのは忍びない。」
趙も田角と田間を殺さず、斉との取引を拒否しました。
田栄は怒って出兵を拒否しました。
 
[十八] 秦の郎中令趙高(『資治通鑑』胡三省注によると郎中令は宮殿掖門戸を管理する官、または郎内諸臣を管理する官です。東漢光武帝によって光禄勳に改められます)は二世皇帝の恩寵にたよって専横していました。私怨によって多数の人を誅殺しています。
趙高は大臣が入朝して趙高の悪事を上奏することを恐れ、二世皇帝にこう言いました「天子が尊貴とされるのは、声だけを聞くことができ、群臣はその顔を見られないからです。そもそも陛下は春秋に富んでいるので(春秋が多い。寿命が多い。まだ若いという意味)、まだ諸事にことごとく精通しているわけではありません。今、朝廷に座って譴挙(譴責や抜擢)に相応しくない内容があったら、大臣に短所を見せてしまいます。これでは天下に神明を示すことができません。陛下は禁中(侍御の臣以外は自由に入れない宮内)で深拱し(手をこまねいて居住すること。政治に参加しないという意味)、臣(私)や侍中で法を習得した者に待事させて、事が起きた時には我々を使って正しく対処させるべきです。こうすれば大臣は敢えて疑事(是非がはっきりしない事)を上奏しなくなり、天下が聖主と称することでしょう。
二世皇帝はこの計を採用し、朝廷に座って大臣に会うことがなくなりました。常に禁中に住んで趙高と侍中に政治を行わせます。全ての政務が趙高によって決定されるようになりました。
 
以上は『資治通鑑』の記述で、『史記李斯列伝(巻八十七)』が元になっています。
史記秦始皇本紀』では、趙高が進言した時期と内容が少し異なります。以下、『秦始皇本紀』からです。
章邯が周章を曹陽で殺してから、二世皇帝は長史司馬欣と董翳を増派して章邯の群盗討伐を助けさせました。秦軍は陳勝を城父で殺し(上述)、項梁を定陶で破り、魏咎を臨済で滅ぼします(後述)
楚地の群盗を指揮する名将が次々に死ぬと、章邯は黄河を北に渡って鉅鹿で趙王歇等を攻めました(鉅鹿の戦いは本年末から来年の事です)
趙高が二世皇帝に言いました「先帝は天下に臨制(君臨統治)して久しかったので、群臣は非(過ち)を行わず、邪説(誤った意見)を進めませんでした。しかし今、陛下は春秋が富んでおり、即位したばかりです。どうして公卿と朝廷で事を決することができるでしょう。もし事に過ちがあったら、群臣に短(欠点)を示すことになります。天子が朕を称したら、本来、声が聞こえなくなるものです。
この後、二世皇帝は常に禁中に住み、趙高と諸事を決するようになりました。
公卿はほとんど朝見できなくなり、盗賊がますます増えていきます。
関中では東の群盗を撃つために堪えず士卒が徴集されました。
 
資治通鑑』に戻ります。
丞相李斯が政情に不満を持って諫言しようとしました。それを聞いた趙高は李斯に会いに行ってこう言いました「関東で多数の群盗が起きているのに、今の上(陛下)はますます繇(徭役)を動員して阿房宮の建造を急がせ、また、狗馬といった無用の物を集めています。臣は諫言したいのですが、位が賎しいのでできません。これは真に君侯(あなた)の事です。あなたはなぜ諫めないのですか?」
李斯が言いました「その通りだ(固也)。私も諫言したいと思って久しくなる。しかし今の上(陛下)は朝廷に座ることがなく、常に深宮に居るので、私が言ったことが伝えられない。謁見したくてもその閒(暇。機会)がない。
趙高が言いました「あなたが本当に諫言できるのなら、あなたのために上(陛下)が閒()になるのを待って、あなたに伝えましょう。
 
趙高は二世皇帝が宴を楽しんで婦女を前にするのを待って、人を送って李斯にこう伝えました「上(陛下)はちょうど閒(暇)になりました。奏事できます。」
李斯はこれを信じて宮門で謁見を求めました。このようなことが三回起きると、二世皇帝が怒って言いました「わしは常に多くの閒日(暇な日)を過ごしているのに、丞相は来ることがない。しかし燕私(私宴)を始めると丞相はいつも事を請いに来る。丞相はわしが若いから見くびっているのか(豈少我哉,且固我哉)!」
趙高が言いました「沙丘の謀(二世皇帝擁立の陰謀)は丞相も参与しました。今、陛下は既に帝に立ちましたが、丞相の貴(地位)は変わっていません。その意思は地が別れて王になることを望んでいるのでしょう。しかももし陛下が臣(私)に問わなかったら臣も敢えて言うつもりはありませんでしたが、丞相の長男李由は三川守(郡守)であり、楚盗陳勝等は丞相の傍県(近県)の子です(李斯は汝南上蔡の人で、陳勝は潁川陽城の人です。汝南と潁川は近くにあります)。だから楚盗が公然と横行して三川城を通っても、守るだけで攻撃しませんでした。高(私)は文書の往来があったと聞いていますが、真相を確認できていないのでまだ報告しなかったのです。それに、丞相は外(朝廷)にいて権勢が陛下より重くなっています。
二世皇帝はこれを信じて李斯を裁こうとしました。しかし情報が正確ではないかもしれません。そこでまず人を送って三川守と群盗が通じているかどうかを調査させました。
 
この動きを聞いた李斯は上書して趙高の欠点を訴えました「高(趙高)は利害(賞罰)を専断しており、(その様子は)陛下と違いがありません。昔、田常は斉簡公の相となって恩威を盗み取り、下は百姓を得て上は群臣を得ました。その結果、簡公を弑して斉国を取ったのです。これは天下が明らかに知っていることです。今、高(趙高)には邪佚の志、危反の行、私家の富があり、斉における田氏と同じです。しかも貪欲無厭で利を求めて際限がなく、権勢は主(陛下)に次ぐ地位に列しています。その欲は無窮で、陛下の威信を奪っており、志は韓玘が韓安の相になった時(下述します)と同じです。陛下がよく考えなければ、必ず変事を起こすことになるであろうと恐れています。
韓玘は東周顕王二十年(前349年)に登場しました。『史記韓世家』『六国年表』『古本竹書紀年』に「韓姫がその君悼公を殺した」とあり、「韓姫」が「韓玘」と同一人物とされています。しかし韓には悼公という君主がいないので、誰を指すのかははっきりしません。『史記六国年表』では韓昭侯十年に「韓姫がその君悼公を殺した」と書いており、明らかに混乱があります。
李斯がいう韓安というのは韓国最後の王です。昭侯から四代も差があるので、『史記李斯列伝』の注(索隠)は「韓玘が韓安の相になった」という李斯の発言を誤りとしています。
しかし『資治通鑑』胡三省注は全く異なる説を載せています。胡三省によると、恐らく韓王安の時代に韓玘という者が重用されて亡国を導きました。史書にはその名が見えませんが、李斯は同時代の人なので知っていたはずです。二世皇帝胡亥にとっても近い過去なので、李斯は戒めとして相応しい故事だと考えて引用したようです。
 
李斯の上書を見た二世皇帝はこう言いました「何を言うのか!高(趙高)はもともと宦人に過ぎなかったが、安泰になっても肆志(好きに振る舞うこと)せず、危難に遭っても心を変えず、行動を清めて善を修め、自分の力で今の地位に至ったのだ。忠によって抜擢され、信によって位を守っているから、朕は彼を賢人だと認めている。それなのに君が疑うのはなぜだ?そもそも、朕が趙君に頼らなかったら誰に任せればいいのだ!趙君の為人は精廉強力で、下は人情を知り、上は朕に適合できる。君が疑う必要はない!」
二世皇帝は趙高を寵信していたため、李斯に殺されることを恐れて秘かに趙高に伝えました。
趙高が言いました「丞相が憂患としているのは高(私)だけです。高が死んだら丞相は田常が行ったことを実行しようとするでしょう。
 
 
 
次回に続きます。