秦楚時代19 秦二世皇帝(十) 李斯の死 前208年(5)

秦二世皇帝二年の続きです。
 
[十八(続き)] この頃、盗賊がますます増えていたため、東方の群盗を討伐するために関中で絶えず士卒が徴集されていました。
右丞相馮去疾、左丞相李斯、将軍馮劫が諫言して言いました「関東で群盗が並起してから、秦は兵を発して誅撃し、多数の者を殺亡しましたが、まだ収まりません。盗が多いのは全て戍(徴兵)、漕(水運)、転(陸運)、作(労役)の事を苦としており、そのうえ賦税が重すぎるからです。暫く阿房宮建設のための作(労役)を停止し、四辺の戍、転を減らすべきです。」
二世皇帝が言いました「尊貴となって天下を有す者は意のままに欲を極めて明法を重視し、下の者は非(法に逆らうこと)を為せなくなり、こうすることで四海を制御するものである。虞(舜)、夏の主は天子という貴い地位に立ちながら、自ら窮苦の実(実地。実践)に身を置いて百姓のために尽くした。これでは法によって何を治めるというのだ。そもそも、先帝は諸侯から身を起こして天下を兼併した。天下は既に定まり、外は四夷を攘って(駆逐して)辺境を安定させた。宮室建造は意(志)を得たことを明らかにするためのものだ。君(汝等)も先帝による功業に緒があることを(功業が始まって発展してきた様子を)見てきたであろう。今、朕が即位して二年の間に群盗が並起したが、君(汝等)は禁じられない。しかもまた先帝の為したことを中止しようとしているが、上は先帝に報いず、次(下)は朕のために忠力を尽くしていない。それなのになぜその位にいるのだ。」
二世皇帝は馮去疾、李斯、馮劫を司法の官吏に渡して罪を調べさせました。
馮去疾と馮劫は自殺し、李斯だけは獄に繋がれます。
 
以上は『資治通鑑』からです。『秦始皇本紀』にも記述があります。
右丞相馮去疾、左丞相李斯、将軍馮劫が諫言して言いました(諫言の内容は『資治通鑑』と同じなので省略します)
二世皇帝が言いました「わしは韓子韓非子がこう言ったと聞いた『堯舜は采椽(采は木の名。椽は屋根を支える横木)を削らず(加工せず)、茅茨(屋根の茅草)を切らず(そろえず)、食事は土(土の碗)を使い、水を飲むには土形(瓦の器)を使い、監門の士卒に供給する物でもこれほど倹素ではなかった。禹は龍門を穿って大夏并州晋陽から汾、絳等の州)に水路を通し、河を開いて水を平らにし、海に放った。自分で築臿(土木の道具)を持ち、脛には毛がなくなり(両脚をいつも泥水に浸けて労働したからです)、臣虜(賎臣奴虜)の労でもこれほど酷くはなかった。』
尊貴な地位を得て天下を有した者は意をほしいままにして欲を極めるべきである。主が明法を重んじたら、下は非を行わなくなり、海内を制御できるようになる。虞や夏の主は、天子という尊貴な地位にありながら、自ら窮苦の実に身を置いて百姓のために尽くした。このようなことでどうやって法を行えるというのだ。朕は万乗の尊位にありながらその実を得ていない。わしは千乗の駕(車)を造り、万乗の属(従者)を置いて我が号名を充たすつもりだ。そもそも、先帝は諸侯として身を起こしながら天下を兼併し、天下が既に安定してからは、外で四夷を駆逐して辺境を安んじさせた。宮室を造るのは意を得たことを明らかにするためである。君等も先帝の功業に緒(開始と発展)があることを見てきたはずだ。今、朕が即位して二年の間に群盗が並起したが、君等はそれを禁じることができず、また先帝が為そうとしたことを廃止しようとしている。これは上に対しては先帝に報いることにならず、次には朕に対して忠力していることにならない。それなのになぜ今の位にいるのだ。」
二世皇帝は馮去疾、李斯、馮劫を法官に渡して様々な罪を譴責させました。
馮去疾と馮劫は「将相は辱めを受けないものだ」と言って自殺します。
李斯は獄に繋がれて五刑に処されました(李斯に関しては以下に述べます)
 
資治通鑑』に戻ります。
二世皇帝は李斯を趙高に与えて裁かせました。李斯と子の李由による謀反を調査し、宗族、賓客を全て逮捕します。
趙高が笞で李斯を千余回打つと、李斯は痛みに堪えられなくなり、謀反の罪を認めました。
 
李斯が自殺しなかったのは自分の弁才を自負しており、功績もあったからです。謀反の心を抱いたこともありません。そこで上書して自分の考えを二世皇帝に伝えようとしました。二世皇帝が誤りを悟って釈放することを期待します。
李斯が獄中で書いた内容はこうです「臣は丞相として民を治めて三十余年になります。かつて陿隘な秦地が及ぶ地は千里に過ぎず、兵も数十万しかいませんでしたが、臣は薄材を尽くし、秘かに謀臣を派遣し、金玉を資本にして諸侯を遊説させました。同時に陰で甲兵を修め、政敎を整え、闘士を抜擢し、功臣を尊んできました。そのおかげで韓を脅かし、魏を弱くさせ、燕趙を破り、斉楚を平定し、ついに六国を兼併し、王を虜にして秦を天子に立てることができたのです。また、北は胡貉を駆逐し、南は百越を平定し、秦の強盛を顕示しました。その上、度量衡や文字を統一して(原文「更剋画,平斗斛度量、文章」。「剋画」は度量衡の器具の目盛り)天下に公布し、秦の名(威名)を樹立しました。これらが全て臣の罪だというのなら、臣は死に値して久しくなります。しかし幸いにも上(陛下)が臣に能力を尽くさせたので、今に至ることができました。陛下の明察を願います。」
李斯の書が届けられましたが趙高は官吏に命じて破棄させ、「囚人がどうして上書できるのだ」と言いました。
 
趙高は自分の門客十余人に御史、謁者、侍中のふりをさせ、順番に李斯を尋問させました。
李斯は真実だけを答えましたが、いつも笞で打って拷問し、罪を認めるように強制しました。
後に二世皇帝が人を送って李斯を尋問させました。李斯は今までのように趙高が派遣した者だと思い、拷問を恐れて罪を認めます。
供述が二世皇帝に提出されると、二世皇帝は喜んでこう言いました「趙君がいなかったら丞相に売られるところだった。
 
二世皇帝が三川守李由を調査するために派遣した者が三川に到着した時、李由は既に楚兵に撃殺されていました(後述します)
使者が戻った時には李斯が司法に下されていました。趙高は李由の謀反に関する報告を捏造し、李斯の罪と併せて五刑に相当するという判決を下しました。李斯は咸陽で腰斬に処されます。
資治通鑑』胡三省注によると、秦の法で三族を滅ぼされる者はまず黥(刺青の刑)、劓(鼻を削ぐ刑)に処され、左右の足を斬ってから笞で打ち殺され、首は曝されて骨肉は砕いて市に置かれました。政府を誹謗した者は死刑の前に舌を切られました。このうち、黥、劓、足の切断、舌の切断と死体を晒す刑が五刑のようです。
 
李斯が獄から出た時、中子と一緒に連れて行かれました。
李斯が中子を見て言いました「わしは汝と一緒にまた黄犬を引いて上蔡の東門を出て狡兔を追いたいと思っていたが、できなくなってしまった。
父子二人は向かい合って哀哭しました。
李斯の三族が皆殺しにされます。
 
二世皇帝は趙高を丞相に任命し、事の大小に関わらず全ての決定をさせました。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。
『秦始皇本紀』にはこう書かれています。
「二世皇帝三年、章邯等が自分の士卒を率いて鉅鹿を包囲したが、楚の上将軍項羽が楚兵を率いて鉅鹿を援けた(下述します)。冬、趙高が丞相になり、李斯を裁いて殺した。
この「冬」は二世皇帝二年の冬のはずです。『史記六国年表』も李斯の死を二世皇帝二年の事としています。
 
 
 
次回に続きます。