秦楚時代20 秦二世皇帝(十一) 項梁の死 前208年(6)

今回で秦二世皇帝二年が終わります。
 
[十九] 『史記項羽本紀』『高祖本紀』と『資治通鑑』からです。
楚の項羽と沛公劉邦は定陶を攻めていましたが、攻略できなかったため西の地を攻略しながら進み、雍丘に至りました。そこで秦軍と戦って大勝し、三川守李由(李斯の子)を殺します(前述しました)
その後、兵を還して外黄を攻めましたが、なかなか攻略できませんでした。
 
項梁は秦将章邯を東阿で破ってから兵を率いて西に向かい、北に移って定陶で再び秦軍を破りました。その頃には項羽等が李由を斬ったという情報も入っていたため、項梁はますます秦を軽視して驕色を見せるようになります。
宋義が諫めて言いました「戦に勝ってから、将が驕って卒が怠惰になった者は敗れます。今、士卒に少しずつ怠惰の心が生まれています。秦兵は日に日に増えているので、臣はあなたのために畏れます(臣はあなたを心配しています)
項梁は諫言を聴きませんでした。
 
項梁が宋義を使者として斉に派遣しました。道中で斉の使者高陵君(顕が名)に遇います。
宋義が問いました「公(あなた)は武信君(項梁)に会いに行くつもりですか?」
高陵君は「そうです(然)」と答えました。
宋義が言いました「臣は武信君が必ず敗れると断言しましょう。公はゆっくり行けば死から免れられますが、速く行ったら禍が及ぶことになります。
 
秦二世皇帝は兵を総動員して章邯軍を拡大し、楚軍を攻撃させました。
章邯は兵馬に牧(声を出さないためにくわえる板)を銜えさせて項梁を夜襲しました。秦軍が定陶で大勝し、項梁は戦死します。秦二世皇帝二年八月の出来事です。
 
当時、七月から九月まで雨が続いていました。
項羽と劉邦は外黄を攻めていましたが攻略できませんでした。
そこで兵を還して陳留を攻めましたが、陳留も堅守したため落とせません。
項羽と劉邦は攻城中に武信君項梁の死を知ります。二人は「今は項梁の軍が破れたばかりで、士卒が恐れて動揺している」と判断し、将軍呂臣と共に兵を率いて東に向かいました。
秦軍の進撃を恐れたため、楚懐王を盱眙から遷して彭城に都を構えます。秦二世皇帝二年九月の事です。
呂臣は彭城の東に、項羽は彭城の西に、劉邦は碭に駐軍しました。

秦将・章邯反撃の地図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
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[二十] 『資治通鑑』からです。
魏豹が魏の二十余城を攻略しました。
楚懐王は魏豹を魏王に立てました。
『秦楚之際月表』はこの時の魏の都を平陽としていますが、『史記・魏豹彭越列伝(巻九十)』を見ると魏豹の都が平陽になるのは秦が滅んで楚が諸侯を封じた時の事です。
 
[二十一] 『史記項羽本紀』と『資治通鑑』からです。
後九月(閏九月)、楚懐王が呂臣、項羽の軍を併せて自ら将になりました。
沛公劉邦を碭郡長(郡守)とし、武安侯に封じて碭郡の兵を指揮させます。
項羽長安侯に封じて魯公と号させ、呂臣を司徒に、その父呂青を令尹に任命しました。
 
『高祖本紀』は秦二世皇帝三年(翌年)に「楚懐王は項梁の軍が破れたのを見て恐れたため、盱台から都を彭城に移し、呂臣と項羽の軍を併せて自ら指揮した。沛公を碭郡長に任命し、武安侯に封じて碭郡の兵を指揮させた。項羽長安侯に封じて魯公と号した。呂臣を司徒に、その父呂青を令尹に任命した」と書いています。
しかし『秦楚之際月表』では二世皇帝九月に彭城に遷都し、後九月に項羽を魯公、劉邦を武安侯に封じています。『高祖本紀』の誤りです。
 
[二十二] 『史記項羽本紀』『高祖本紀』と『資治通鑑』からです。
秦将章邯は項梁軍を破ってから楚地を憂慮する必要はないと判断し、黄河を渡って北の趙を攻撃しました。
趙軍を大破して邯鄲に至り、民を全て河内に移して城郭を破壊します。
史記・秦楚之際月表』はこれを秦二世皇帝三年(翌年)十月の事としており、鉅鹿を包囲した後に書いていますが、恐らく誤りです。
 
趙王歇と相張耳、将陳余は鉅鹿に走りました。
秦将章邯は王離と渉閒(渉が姓、名が閒)に命じて鉅鹿を包囲させます。
章邯は鉅鹿南の棘原に駐軍し、甬道を築いて王離に食糧を送りました。甬道というのは壁や屋根に守られた道です。『資治通鑑』は甬道建設を翌年に書いています。
 
趙王歇と張耳は鉅鹿城内に留まり、陳余は北に向かって常山の兵を集め、数万人を得ました。そのまま鉅鹿城北に駐軍します。これを河北の軍といいます。
趙は頻繁に使者を送って楚に援軍を求めました。
 
この時、楚軍にいた斉の高陵君顕が楚王に言いました「宋義は武信君の軍が必ず敗れると断言し、果たして数日後に軍が敗れました。兵が戦う前に敗徵(敗戦の兆し)を見ることができたのですから、兵法を知っていると言えるでしょう。」
楚王は宋義を招いて共に計を練り、その才能を知って大喜びしました。宋義を上将軍に置き、項羽を次将に、范増を末将に任命して北の趙を救援するように命じます。
項羽本紀』ではこの時に項羽が魯公に封じられていますが、『資治通鑑』では劉邦が武安侯に封じられた時に項羽長安侯に封じられて魯公と号しています(前述)。あるいは、まず長安侯に封じられ、次将に任命された時、魯公になったのかもしれません。
 
その他の別将も全て宋義に属すことになり、宋義は「卿子冠軍」と号しました。『集解』によると、「慶子冠軍」と書かれることもあるようです。
資治通鑑』胡三省注は、
「卿」は大夫の号、「子」は子男の爵、「冠軍」は首領という意味とする説
「卿子」は尊称で「公子」という意味に近く、「冠軍」は上将の意味という説
公の子を公子というので「卿子」は卿の子を指し、「冠軍」は諸軍の上を意味するという説
を紹介しています。

以前、楚懐王は諸将とこう約束しました「先に関中に入って定めた者を(関中の)王とする。
資治通鑑』胡三省注によると、秦の西には隴関、東には函谷関、南には武関、北には臨晋関、西南には散関があり、秦地はその中にあったため関中といいます。
 
当時はまだ秦兵が強く、勝ちに乗じて敗戦した勢力を駆逐していたため、諸将は秦を畏れて関に入ることが利益になるとは考えませんでした。しかし項羽だけは項梁を殺した秦を恨んでいるため、憤激して沛公劉邦と共に西進したいと思っていました。
懐王の諸老将が皆こう言いました「項羽の為人は慓悍猾賊(「慓」は「僄」とも書き、速い。「悍」は勇。「猾」は狡猾。「賊」は残忍。『漢書・高帝紀』では慓悍禍賊」で、かつて襄城を攻めた時には襄城に残された者がなくなり、全て阬(生埋め)にされました。彼が通った場所で残滅(全滅)しなかった場所はありません。それに、楚はしばしば進撃しましたが、以前の陳王も項梁も皆失敗しました。これからは長者(人格が優れた者)に換えて派遣し、義を擁して西に向かわせ、秦の父兄を諭すべきです。秦の父兄は自分の主に苦しんで久しいので、本当に長者が現れて侵暴しなければ、(関中を)下すことができます。項羽は僄悍なので派遣してはなりません。沛公だけが元から寬大な長者なので派遣できます。
懐王は項羽の西進を許可せず、沛公劉邦に西方の地を攻略して入関するように命じました。劉邦は陳王と項梁の散卒を集めて秦討伐に向かいます項羽は宋義に従って趙救援に向かいます)
 
沛公は碭を通って陽城(または「成陽」)と杠里に至り、秦の営塁を攻撃しました。秦の二軍を破ります。
史記傅靳蒯成列伝(卷九十八)』に「傅寬が沛公に従って安陽と杠里を攻めた」という記述がありますが、安陽は宋義と項羽が駐留しているので(翌年述べます)、恐らく「成陽」の誤りです。
『高祖本紀』は高祖の西進を翌年の事としていますが、『秦楚之際月表』は秦二世皇帝二年(本年)後九月に西進を開始したとしています。
 
 
 
次回に続きます。