秦楚時代22 秦二世皇帝(十三) 鉅鹿の戦い 前207年(2)
今回は秦二世皇帝三年十二月の続きです。
秦将・章邯が甬道を築いて河(漳水)に繋げ、王離に食糧を送りました。
甬道というのは壁や屋根に守られた道です。『資治通鑑』胡三省注によると、輸送中の食糧を敵に奪われることを警戒したため、壁を造って糧道を守ったようです。
王離の兵は食糧が豊富になったため、鉅鹿を急攻しました。
鉅鹿城中は食糧が尽き、兵も少ないため、張耳が頻繁に人を送って陳余を招きました。陳余は鉅鹿の北に駐軍しています。
しかし陳余は自分の兵が少なく秦に敵わないと考えたため、援けに行きませんでした。
数カ月後、張耳は激怒して陳余を怨み始めました。そこで張黶と陳沢を派遣して陳余を譴責させました。
張耳の言葉が陳余に伝えられます「かつて私は公と刎頸の交りを結んだ。しかし今、王と耳(私)が旦暮に死のうとしているのに、公は数万の兵を擁していながら救いに来ない。命をかけて助け合おうというつもりはないのか(安在其相為死)。もし信を守ろうというのなら、なぜ秦軍に立ち向かって共に死なないのだ。公がそうすれば十中に一二でも助かる可能性があるかもしれない。」
陳余はこう答えました「私は前進しても趙を救えず、いたずらに軍を全滅させることになると判断した。それに、余(私)が共に死なないのは、趙王と張君のために秦に報復したいからだ。今必ず共に死のうというのは、肉を餓虎に委ねるようなものだ。何の益があるというのだ。」
張黶と陳沢は共に討ち死にすることを望みました。そこで陳余は張黶と陳沢に五千人を与え、試しに秦軍を攻撃させました。
二人は秦軍と衝突して全滅します。
当時、斉師と燕師が趙を援けに来ていました。
張敖(張耳の子)も北で代兵を集めて一万余人を指揮しており、救援に駆けつけました。しかし皆、陳余軍の近くに営塁を築くだけで秦軍と戦おうとしませんでした。
斉師は恐らく本年冬十月に書いた斉将・田都を指します。
陳余が改めて援軍を求めたため、項羽は全ての兵を率いて河を渡りました。渡河が終わると船を沈めて釜甑(食器)を破壊し、廬舍(宿営)を焼き払いました。三日間の食糧だけを携帯し、士卒に必死(決死)の覚悟を抱かせます。将兵は撤退の心を棄てました。
項羽軍は鉅鹿に到着してすぐに王離を包囲しました。秦軍と九戦して大破します。
『資治通鑑』は項羽が秦軍と戦う前に英布と蒲将軍が甬道を絶ったとしていますが(上述)、『項羽本紀』では項羽が秦と九戦してから甬道を絶ったと書いています(『漢書・陳勝項籍伝』も同じです)。『史記・黥布列伝(巻九十一)』には記述がありません。
章邯は兵を率いて退却しました。
諸侯の援軍がやっと軍を進めて秦軍を攻撃します。
楚軍は蘇角(秦将)を殺して王離を捕虜にしました。渉閒(渉が姓、閒が名)は降伏せず自ら焼死しました。
秦将・王離は戦国時代末期、楚に大勝して楚将・項燕を自殺に追い込んだ名将・王翦の孫です。
この戦いで、楚兵の威が諸侯を圧しました。
鉅鹿を援けに来た諸侯の軍は十余の営塁を築いていましたが、誰も兵を進めようとせず、楚軍が秦軍を攻撃した時も諸侯は皆、営壁に登って様子を伺っていました。
項羽が秦軍を攻撃すると、楚の戦士は全て一人で十人の敵に当たり、呼声が天地を動かしました。それを見た諸侯の軍で恐れない者はいませでした。
項羽はここから諸侯の上将軍となり、諸侯の兵が指揮下に属すことになりました。
趙王・歇と張耳が鉅鹿城から出て諸侯に謝意を述べました。
張耳は陳余に会うと援けに来なかったことを譴責し、更に張黶と陳沢がどこに行ったかを問いました。張耳は二人が陳余に殺されたと疑い、しつこく問い正します。
陳余が怒って言いました「君がこれほど深く臣を怨んでいるとは思わなかった。臣が将印を去るのが困難だと思っているのか(私が将印を惜しむと思っているのか)。」
陳余は印綬をとって張耳に押し付けました。張耳は驚いて受け取ろうとしません。
陳余が立ち上がって厠に行きました。すると一人の客(賓客。門客)が張耳に言いました「臣は『天が与えた物を受け取らなかったら逆に咎を受ける(天與不取,反受其咎)』と聞いています。今、陳将軍はあなたに印を渡しました。あなたが受け取らなかったら天に逆らうことになるので不祥です。すぐ受け取るべきです。」
張耳は陳余の印を身に着けて兵を指揮下に入れました。
厠から戻った陳余は張耳が将印を譲らなかったことを怨み、早歩きで出て行きました。特に親しい麾下(部下)数百人だけを連れて河上の沢で漁猟(漁業や狩猟)を始めます。
趙王・歇は信都に還りました。
以上は『資治通鑑』の記述で、十二月に書いています。
鉅鹿の戦いの地図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
次回に続きます。