秦楚時代23 秦二世皇帝(十四) 彭越 酈食其 前207年(3)

今回も秦二世皇帝三年の続きです。
 
[] 『史記高祖本紀』と『資治通鑑』からです。
春二月、沛公劉邦が北(『資治通鑑』では「北」。『漢書帝紀』では「碭から北に向かって」。『史記高祖本紀』では「西」)の昌邑を攻撃しました。そこで彭越に遇います。
彭越は自分の兵を率いて沛公に従いました。
資治通鑑』胡三省注によると、彭は姓で大彭(大彭国。夏代から商代に存在した国の名)の子孫です。
 
彭越は昌邑の人で、かつては鉅野の沢で漁業をしており、群盗になりました。
陳勝や項梁が挙兵した時、沢の付近に住む若者百余人が集まって彭越に従い、「仲(彭越の字)が長になってください」と頼みました。
彭越は辞退して「臣はなりたくありません」と答えましたが、若者達が強く求めたため、ついに同意しました。
彭越は若者達と翌日の朝日が出る時間に会う約束をし、遅れたら斬ると宣言しました。
翌日、日が昇ってから十余人が遅れて来ました。最も遅い者は正午になってやっと現れます。
彭越がことわって言いました「臣は老いたが諸君が強く求めたから長になった。今回、期限を決めたのに多くの者が遅れて来た。全てを殺すわけにはいかないから、最後の一人を誅殺することにする。
彭越は校長(一校の長。校は軍制の単位)に処刑を命じます。
集まった人々は笑って言いました「そこまでする必要はない。今後、改めさせてくれ。」
しかし彭越は一人を連れ出して斬首しました。その後、壇を築いて祭祀を行い、徒属に号令を下します。
人々は皆驚愕して目を合わせることもできなくなりました。
 
彭越は周辺の地を攻略し、諸侯の散卒を集めて千余人を得ました。
沛公に遇ってからは協力して昌邑を攻めました。
 
[] 『史記高祖本紀』と『資治通鑑』からです。
沛公劉邦は昌邑を攻略できないため、兵を率いて西に移動し、高陽を通過しました。
これは『資治通鑑』の記述で、『漢書・高帝紀』が元になっています。
史記高祖本紀』は「沛公劉邦が西進して昌邑で彭越と遇い、共に秦軍を攻めた。しかし戦に利がなかったため栗に還った。そこで剛武侯に遇い、その軍を奪って四千余人を得た。また、魏将皇欣、魏の申徒(官名。司徒)武蒲(『漢書』では武満)の軍と合流し、共に昌邑を攻めた。しかしやはり昌邑を攻略できなかったため、西に進んで高陽を通過した」とあります。
資治通鑑』と『漢書・高帝紀』『史記秦楚之際月表』は、劉邦が剛武侯に遭った事等を十二月に書いています(既述)
 
高陽の人酈食其は家が貧しくて落魄(志を失っている様子)し、里の監門(門を監視する小吏)を勤めていました。
資治通鑑』胡三省注によると酈氏は黄帝の支孫が酈に封じられたことから始まります。
 
沛公の麾下(部下)の騎士で酈食其と同じ里の者がいました。
酈食其が会いに行って言いました「諸侯の将で高陽を通った者は数十人もいるが、私が調べ聞いたところによると、それらの将は皆、握齪(狭量)で苛礼(煩雑な礼)を好み、自分を正しいと信じて大度の言を聞けないとのことだった。また、私は沛公が傲慢で人を軽く見ているものの、大略(遠謀。抱負)が多いとも聞いた。これはまさに私が従游したいと思っていた人物だ。しかし紹介してくれる人がいない。そこで、汝が沛公に会ったらこう言ってくれ。『臣の里中に酈生という者がおり、年は六十余で身長は八尺ある。人は皆、彼を狂生と呼んでいるが、酈生は自分で「私は狂生ではない」と言っている。』」
騎士が言いました「沛公は儒者が嫌いで、諸客で儒冠を被った者が来ると、沛公はいつも冠を解かせてその中に小便をする(溲溺其中)。人儒者と話をする時もしばしば大声で罵っている。だから儒生として話をしに行くべきではない。」
しかし酈生は「あなたはただそう伝えればいい(第言之)」と言いました。
騎士は酈生に言われた通り、いつもと変わらない様子で劉邦に話しました。
 
以上は『資治通鑑』の記述で、『史記酈生陸賈列伝(巻九十七)』を元にしています。
史記高祖本紀』では、酈食其は「諸将でここを通った者は多いが、私が視たところ沛公が大人長者である」と言っており、『漢書・高帝紀』では、「諸将でここを通った者は多いが、私が視たところ沛公が大度である」と言っています。
 
以下、『史記高祖本紀』と『資治通鑑』からです。
沛公は高陽の伝舍(旅舎)に入ってから人を送って酈生を招きました。
酈生が入謁した時、沛公はちょうど寝床に座って二人の女子に足を洗わせていました。そのまま酈生を引見します。
部屋に入った酈生は長揖するだけで拝礼せず、こう問いました「足下は秦を助けて諸侯を攻めたいのですか?それとも、諸侯を率いて秦を破りたいのですか?」
沛公が罵って言いました「豎儒(愚かな儒者!天下が共に秦を苦として久しいから、諸侯が互いに兵を率いて秦を攻めているのだ。なぜ秦を助けて諸侯を攻めるなどと言うのだ!」
酈生が言いました「徒を集めて義兵を合わせ、無道の秦を誅したいというのなら、傲慢な態度で長者に会うべきではないでしょう。
沛公は足を洗うのを止めて立ち上がり、衣服を整えました。酈生を上坐に招いて謝罪します。
酈生が六国縦横(戦国時代の故事)を語ると、喜んだ沛公は酈生のために食事を準備させました。
沛公が問いました「今後の計はどうするべきだ(計将安出)?」
酈生が言いました「足下は糾合の衆を起こし、散乱の兵を収めましたが、一万人にも達していません。これで強秦に直接入ったら、虎の口を探るのと同じです。陳留は天下の衝(要衝)で四通五達の郊(地区)です。今、城中には多数の粟(食糧)が蓄えられています。臣は陳留の令(県令)と仲がいいので、足下は臣を使者に命じて派遣してください。もしも(陳留令が)臣の言を聞かなかったら、足下は兵を率いて攻撃してください。臣が内応になります。」
酈生が陳留に向かい、沛公が兵を率いて後に従いました。
酈生の策が成功して陳留が沛公に降ります。沛公は秦が蓄えていた食糧を得ることができました。
この後、酈食其は広野君と号すことになりました。
 
酈生には商という弟がおり、当時、若者を集めて四千人を得ていました。酈商も沛公に帰順します。
沛公は酈商を将に任命し、陳留の兵を指揮させました。
酈生はしばしば説客として諸侯を訪問しました。
 
[] 『史記高祖本紀』と『資治通鑑』からです。
三月、沛公劉邦が酈商率いる陳留の兵と共に開封を攻めましたが攻略できませんでした。
西に向かって秦将楊熊と白馬(地名)で戦い、また曲遇東で戦って大破します。
楊熊は滎陽に走りましたが、秦二世皇帝が使者を送って斬首し、見せしめにしました。
この出来事は、『史記高祖本紀』には何月の事か明記されていません。『集解』は「四月」と注釈していますが、恐らく「三月」の誤りです。『秦楚之際月表』は三月に書いており、『資治通鑑』と『漢書・高帝紀』も三月としています。

 
 
次回に続きます。

秦楚時代24 秦二世皇帝(十五) 章邯投降 前207年(4)