秦楚時代24 秦二世皇帝(十五) 章邯投降 前207年(4)

今回も秦二世皇帝三年の続きです。
 
[] 『史記高祖本紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、沛公劉邦が南の潁川(潁川郡。陽翟が治所。『秦楚之際月表』では「潁川」ではなく「潁陽」)を攻めて屠しました(皆殺しにしました)
張良(韓国の相の家系)の協力を得て韓の故地(『資治通鑑』胡三省注によると河南新鄭南から潁川の地)を攻略しました。
 
この時、趙の別将司馬卬が黄河を渡って函谷関に入ろうとしていました。
沛公は北上して平陰を攻め、河津黄河の渡し場)から南の交通を遮断しました。
その後、南下して洛陽東で秦軍と戦いましたが、不利になったため南の轘轅(険路)を経由して陽城に還りました。そこで軍中で使う騎馬を集めます。
 
この時、張良が兵を率いて沛公に従いました張良は韓王が即位した時から韓王に従っていました)
沛公は韓王成を陽翟に留めて守らせ、張良と共に南に向かいました。
 
六月、沛公劉邦が秦の南陽(姓氏不明)と犨東(『秦楚之際月表』では「陽城郭東」)で戦って破りました。南陽郡の攻略に向かいます。
南陽守は宛城南陽郡治所)に還って守りを固めました。
 
沛公は宛攻略をあきらめて西に向かおうとしました。しかし張良が諫めて言いました「沛公は急いで入関しようとしていますが、秦兵はまだ多数おり、険阻な地形で我々を拒んでいます。今、宛を落とさなかったら、宛が後ろから攻撃し、強秦が前を塞ぐことになります。これは危道というものです。」
沛公は夜の間に兵を率いて他の道から戻り、旗幟を倒しました(引き返してきたことを悟られないためです。『資治通鑑』と『漢書・高帝紀』は「偃旗幟」としており、「旗幟をしまった、倒した」という意味です。『史記高祖本紀』には「更旗幟」とあり、「旗幟を交換した」という意味になります。「偃」の方が意味が通ると思われます。『史記索隠』も『楚漢春秋』から引用して「上(高祖)が南下して宛を攻めた時、旌旗を隠し(匿旌旗)、人に枚を噛ませ、馬の舌を縛り、鶏が鳴く前に宛城を三重に囲んだ」と書いています)
 
翌朝、空が明るくなる前に宛城は三重に包囲されていました。
それを見た南陽守は自剄しようとしましたが、舍人の陳恢が「死ぬには早すぎます(死未晚也)」と言って止めました。
陳恢は城壁を越えて沛公に会いに行き、こう言いました「臣は足下が先に咸陽に入った者が王になる約束をしたと聞きました。今、足下は宛に留まって包囲していますが、宛は大郡の都なので、郡県は数十もの城を連ねており、人民は多く、食糧も大量に蓄えられています。しかも吏人(吏民)は降ったら必ず殺されると思っているので、皆、城壁に登って堅守しています。今、足下が一日中ここに留まって攻撃していたら、士卒の死傷は必ず多くなります。しかし兵を率いて宛から去ったら、宛は必ず足下の後を追います。その結果、足下は前においては咸陽の約(約束)を失い、後においては強宛の患を受けることになります。足下のために計るなら、投降した守(郡守)を封じて今まで通り郡の守備に命じることを約束し、郡の甲卒を率いて共に西に向かうべきです。こうすれば、諸城でまだ投降していない者も、噂を聞いて争って門を開き、足下の到来を待つようになるでしょう。足下の通行を妨げる者はいません。」
沛公は「善し」と言って同意しました。
 
秋七月、南陽齮が投降して殷侯に封じられました。陳恢には千戸が封じられます。
 
沛公が兵を率いて西に進むと、人々は次々に投降しました。
丹水(弘農郡の県名)に至った時、高武侯(鰓は名。『集解』によると『高祖功臣侯者年表』にある臨轅堅侯戚鰓)と襄侯(もしくは「穰侯」)王陵が降りました。
 
沛公は兵を還して胡陽を攻め、番君呉芮の別将梅鋗に会いました。
資治通鑑』胡三省注によると、梅氏は子姓から生まれました。殷(商)代に梅伯がいましたが、紂に殺されました。
 
沛公は梅鋗と共に析と酈を攻めて降しました。
沛公が通った場所では略奪をしなかったため、秦民に喜ばれました。
 
[十一] 『史記項羽本紀』『漢書陳勝項籍伝』と『資治通鑑』からです。
秦の王離軍が全滅してから、章邯は棘原に駐軍し、項羽は漳南に駐軍しました。双方対峙するだけで交戦はしません。
秦軍がしばしば退却したため、秦二世皇帝が人を送って章邯を譴責しました。
章邯は恐れて長史司馬欣を派遣し、皇帝の命を請いました(請事)
しかし司馬欣は咸陽についてから司馬門(宮城の外門)に留められます。趙高は三日に渡って引見せず、不信の心を示しました。
長史司馬欣は恐れて軍に帰りましたが、来た道は避けて奔りました。
果たして趙高は人を送って追撃させましたが、追いつけませんでした。
 
軍中に戻った司馬欣が報告して言いました「事態はどうすることもできません(事亡可為者)。相国の趙高が中で政治を行って専国主断しており、下には能力がある者がいません。今戦って勝てたとしても、高(趙高)は必ず我々の功に嫉妬するでしょう。しかしもし勝てなかったら、死から免れることはできません。将軍はよくお考え下さい。」
 
陳余も章邯に書を送ってこう伝えました「白起は秦将として南は鄢郢を征し、北は馬服(趙括の軍)を阬し(生埋めにし)、城を攻めて奪った地は数え切れません。しかしそれでも死を賜りました。蒙恬は秦将として北は戎人を駆逐し、楡中の地数千里を開きましたが、陽周で斬られました。なぜでしょうか?功が多ければ、秦は全てを封ずることができず、法を用いて誅しているのです。今、将軍は秦将になって三歳(三年)になりますが、亡失の兵は十万を数えているのに、諸侯の蜂起はますます増えています。彼の趙高はかねてから阿諛する日々を送って久しく、今、事が急を告げるようになって二世に誅されることを恐れています。法によって将軍を誅することで責任を塞ごうとするでしょう。禍から逃れるために人を送って将軍と交代させるはずです。将軍は久しく外におり、内に多くの郤(間隙。対立)があります。功があっても誅され、功が無くても誅されます。そもそも、天が秦を亡ぼそうとしていることは、愚者も智者も関係なく皆知っています。今、将軍は内に対しては直諫できず、外においては亡国の将になろうとしています。孤特(孤立)独立しながら常存(長存)を欲するとは、哀しいことではありませんか。将軍はなぜ兵を還して諸侯と連合し、共に秦討伐を約束して、地を分けて王となり、南面して孤(国君の自称)を称さないのですか。身を鈇質(斧質。刑具)に伏して妻子が殺戮されるのと、どちらがましですか。
 
疑心を抱いた章邯は秘かに候(軍候)始成(始は姓、成は名)を送り、項羽と和約を結ぼうとしました。
しかし和約を結ぶ前に項羽が蒲将軍を進軍させました。
蒲将軍は日夜進軍して三戸(三戸津。漳水の渡し場)を渡り、漳南に駐軍して秦軍と戦います。秦軍はまた破れました。
そこで項羽は全軍を率いて汙水で秦軍を撃ち、大勝しました。
章邯は盟約を結ぶために改めて使者を項羽に送ります(『秦楚之際月表』は章邯が長史司馬欣を咸陽に送ってから項羽に敗れるまでを四月から六月の事としています。年表参照)
 
項羽が軍吏を集めて言いました「食糧が少ないから約を聴こうとおもう。
軍吏は皆、「わかりました(善)」と言って同意します。
項羽は洹水南の殷虚(殷墟。商王朝の都)で盟を結ぶ約束をしました。
盟が結ばれてから、章邯は項羽に会って涙を流し、趙高の罪を訴えました。
項羽は章邯を雍王に立てて楚の軍中に置きました。
長史司馬欣を上将軍にし、秦軍を率いて先行させます。
 
以上の出来事を『資治通鑑』は秦二世皇帝三年秋七月の事としており、『史記秦楚之歳月表』も秋七月に章邯等が項羽に降り、八月に秦の都尉・董翳と長史司馬欣を上将にしたと書いています。『史記・秦始皇本紀』は夏としていますが、恐らく誤りです。
以下、『秦始皇本紀』からです。
夏、章邯等がしばしば退却したため、二世皇帝が使者を送って章邯を譴責しました。章邯は恐れて長史司馬欣を咸陽に派遣し、命を請います。しかし趙高は司馬欣を引見せず、信用もしませんでした。
司馬欣は恐れて逃げ帰ります。
趙高が人を送って逮捕させようとしましたが、追いつけませんでした。
司馬欣が章邯に報告しました「趙高が中で政治を行っているので、将軍は功があっても誅され、功がなくても誅されるでしょう。」
ちょうどこの頃、項羽が秦軍を激しく攻め立てて王離を捕虜にしたため(王離が捕虜になったのは、『資治通鑑』では十二月、『秦楚之歳月表』では正月の事です)、章邯は兵を挙げて諸侯に降りました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
瑕丘の人申陽が河南を攻略し、兵を率いて項羽に従いました。
資治通鑑』胡三省注によると、申は姓、陽は名です。四岳の後代が申に封じられて申姓ができました。周代には申伯がおり、春秋時代の斉には申鮮虞が、楚には申叔がいました。
 
 
 
次回に続きます。