秦楚時代25 秦二世皇帝(十六) 鹿と馬 前207年(5)
今回も秦二世皇帝三年の続きです。
[十三] 秦の中丞相(宦官の趙高は禁中に出入りできたので中丞相というようです)・趙高が秦の政権を独占しようとしました。しかし群臣が従わない恐れがあるため、策を用いて試してみることにしました。
趙高は鹿を連れて二世皇帝に献上し、「馬です」と言います。
二世皇帝が笑って言いました「丞相の間違いだ。なぜ鹿を馬というのだ?」
二世皇帝が左右の者に問うと、ある者は黙り、ある者は馬と言って趙高に追従し、ある者は鹿と言いました。
趙高は鹿と言った者を秘かに捕らえて、法を使って害しました。
この後、群臣は皆、趙高を畏れて過ちを指摘しなくなりました。
趙高は今まで頻繁に「関東の盗(賊)には何もできません」と上奏していました。
しかし項羽が王離等を捕虜にし、章邯等の軍も度々敗戦して援軍を請う上書を行うようになりました。
その頃、函谷関以東の大部分は秦吏に背いて諸侯に呼応していました。
諸侯はそれぞれ兵を率いて西に向かっています。
趙高は二世皇帝が怒って自分の身に誅を及ぼすことを恐れ、病と称して朝見しなくなりました。
以上は『資治通鑑』の記述です。
八月己亥(『集解』によると一説では「己卯」)、趙高が乱を為そうとしましたが、群臣が従わないことを恐れたため、まず試してみることにしました。
趙高が鹿を連れて二世皇帝に献上し、「馬です」と言うと、二世が笑って言いました「丞相の誤りではないか。なぜ鹿を馬と言うのだ。」
二世皇帝が左右の者に問うと、ある者は黙り、ある者は馬と言って趙高に追従し、ある者は鹿と言いました。
趙高は鹿と言った者を秘かに捕らえて、法を使って害します。この後、群臣は皆、趙高を畏れて過ちを指摘しなくなりました。
以前、趙高はしばしば二世皇帝の前で「関東の盗賊は何もできません」と言っていました。
しかし項羽が秦将・王離等を鉅鹿の城下で捕えて進軍し、章邯等の軍が度々退却して援軍を求める上書をするようになりました。燕、趙、斉、楚、韓、魏がそれぞれ王を立て、関東の多くの地が秦の官吏に背いて諸侯に呼応します。諸侯は全て自分の兵を率いて西に向かいました。
沛公が数万人を率いて武関を屠し(皆殺しにし)、秘かに人を送って趙高と通じました。趙高は二世皇帝が怒って自分の身に誅を及ぼすことを恐れ、病と称して朝見しなくなりました。
『秦始皇本紀』の内容を検証すると、まず、趙高が乱を為そうとして鹿と馬で群臣の心を試したというのは不自然に思えます。謀反を考えるようになったのは情勢が悪化して恐れを抱いたからであって、元から謀反の考えがあったわけではないはずです。
沛公・劉邦が趙高に通じたという記述(沛公(略)使人私於高)は、『高祖本紀』では「趙高が二世皇帝を殺してから、人を送って(劉邦と)関中を分けて王を称す約束をした(趙高已殺二世,使人来,欲約分王関中)」となっており、この後、劉邦が武関を襲っています。事件の前後関係が『秦始皇本紀』と『高祖本紀』で異なります。
趙高は自分の権力が重くなったことを理解していたため、群臣の心を試すために鹿を献上して馬と言いました。
二世皇帝が左右の者に「これは鹿ではないか」と問いましたが、左右の者は皆、「馬です」と答えました。
驚いた二世皇帝は自分が惑乱していると思い、太卜を招いて卜わせました。
太卜が言いました「陛下は春秋に郊祀を行って宗廟の鬼神を奉じていますが、斎戒が不明なので(敬虔ではないので)こうなってしまったのです。盛徳によって斎戒を明らかにするべきです。」
二世皇帝は上林苑に入って斎戒しました。
ある日、二世皇帝が上林苑で狩猟をして遊んでいると、ある者が上林に入って来ました。二世皇帝は自ら矢を射て殺してしまいます。
趙高は自分の女婿(娘婿)である咸陽令・閻楽を使って「誰かが人を害した」と弾劾させ、死体を上林に運ばせました。
趙高が二世皇帝を諫めて言いました「天子が不辜(無罪)の人を理由もなく賊殺するのは上帝が禁忌としていることなので、鬼神が祭祀を受けなくなり、天が殃(禍)を降すことになるでしょう。遠く皇宮を離れて禍を祓うべきです。」
二世皇帝は望夷の宮に住むようになりました。
次回に続きます。