秦楚時代26 秦二世皇帝(十七) 二世皇帝の死 前207年(6)

今回で秦二世皇帝三年が終わります。
 
[十三(続き)] 以下、『秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
この頃、二世皇帝がある夢を見ました。白虎が左驂馬(馬車の左の馬)に噛みついて殺してしまうという夢です。
目がさめた二世皇帝は心中不快になり、不思議に思って占夢の者に問いました。
占夢の者は卜の結果、こう答えました「涇水が祟を為しています。
二世皇帝は望夷宮で斎戒してから四頭の白馬を沈めて涇水を祀ろうとしました(先述の『李斯列伝』とは望夷宮に入るまでの経緯が異なります)
同時に趙高に使者を派遣して盗賊の事を譴責しました。
 
趙高は恐れて秘かに壻(婿)の咸陽令閻楽と弟の趙成と謀りました。
資治通鑑』胡三省注によると、太伯(周代呉国の祖)の曾孫仲奕が閻郷に封じられて閻氏が生まれました。または唐叔虞の後代で、晋成公の子懿が閻を食采にしたことが始まりともいいます。春秋時代の斉に閻職がおり、晋に閻嘉がいました。
 
趙高が閻楽と趙成に言いました「上(陛下)は諫言を聴かず、事が急してから禍を私に帰そうとしている。上(陛下)を置き換えて子嬰を立てようと思う。子嬰は仁倹(仁愛倹約)で、百姓がその言を戴いている(言に従っている)
趙高は郎中令(『集解』によると、一説では趙成が郎中令)を内応とし、大賊がいると偽って閻楽に官吏を招集させ、士卒を発して大賊を討伐するように命じました。同時に閻楽の母を捕まえて趙高の舍(府中)に置きます。
 
閻楽が吏卒千余人を率いて望夷宮の殿門に至り、衛令僕射(衛士の次官)を縛って言いました「賊がここに入った。なぜ止めなかった?」
衛令(衛士の長)が言いました「周廬(皇宮周辺に設けられた衛兵の部屋)には士卒が厳重に配置されています。どうして賊が入宮できるでしょう。
閻楽は衛令を斬り、吏卒を率いて突入しました。進みながら郎(郎官)や宦者を射殺します。
郎も宦者も大いに驚き、ある者は逃走し、ある者は抵抗して殺されました。死者は数十人に上ります。
郎中令と閻楽が一緒に宮中に入って皇帝が座る幄幃(帷幕)を射ました。
二世皇帝が怒って左右の者を呼びましたが、左右の者は皆、恐慌して戦おうとしません。
傍に一人の宦者だけが仕えて去ろうとしませんでした。
二世皇帝が室内に入って宦者に言いました「公(汝)はなぜ早くわしに報告せず、事をここに至らせてしまったのだ(なぜこうなるまで何も言わなかったのだ)。」
宦者が言いました「臣は敢えて言わなかったから命を全うできたのです。臣が早く言っていたら、既に誅されて今に至ることはなかったでしょう。」
 
閻楽が二世皇帝の前まで来て、譴責して言いました「足下が驕恣(驕慢放恣)で、誅殺無道を行ったため、天下が共に足下に反した。足下は自ら計を為せ。」
二世皇帝が問いました「丞相に会うことができないか?」
閻楽が言いました「だめだ(不可)。」
二世皇帝が言いました「私は一郡を得て王になりたい。」
閻楽は拒否しました。
二世皇帝が言いました「万戸侯になりたい。」
閻楽はこれも拒否しました。
二世皇帝が言いました「諸公子と同じように、妻子と一緒に黔首(平民)になりたい。」
閻楽が言いました「臣は丞相の命を受けて天下のために足下を誅しに来た。足下が多くを語っても、臣が報告することはない。」
閻楽が兵に指示して前に進めたため、二世皇帝は自殺しました。
 
閻楽が帰って趙高に報告しました。
趙高は諸大臣や公子を全て集めて二世皇帝誅殺の状況を告げ、こう言いました「秦はかつて王国だったが、始皇が天下に君臨して帝を称した。今、六国が再び自立し、秦の地はますます小さくなっている。空名によって帝を称すべきではない。以前のように王と称すことこそふさわしい。」
趙高は子嬰を秦王に立てました。
『秦始皇本紀』『六国年表』では、子嬰は二世皇帝の兄(詳細不明)の子ですが、『李斯世家』では始皇帝の弟となっています。
 
二世皇帝は黔首(民)の礼で杜南の宜春苑内に埋葬されました。
 
[十四] 『秦楚之際月表』によると、本年八月、趙王・歇は趙国に留まっており、張耳と関係を悪化させた陳余が南皮に移りました。
 
[十五] 九月、趙高が子嬰に斎戒させ、宗廟を参拝して玉璽を受け取るように指示しました。
玉璽は卞和の玉を使って作られた伝国の璽です。
斎戒して五日目、子嬰が二人の子と謀って言いました「丞相高は二世を望夷宮で殺したから、群臣に誅されるのを恐れて義を偽って私を立てた。趙高は楚と約を結んでおり、秦の宗室を滅ぼしてから関中を分けて王を称するつもりだと聞いた。今、私に斎戒と廟の参拝をさせたが、これを機に廟内で私を殺すつもりだ。私が病と称して行かなければ、丞相は必ず自ら来るだろう。来たところを殺そう。」
趙高が人を送って何回も子嬰を招きましたが、子嬰は動きませんでした。
果たして趙高自ら子嬰に会いに行き、「宗廟の参拝は重事です。王はなぜ行かないのですか」と問いました。
子嬰は斎宮で趙高を刺殺しました。趙高の三族が滅ぼされて見せしめにされます。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
秦王子嬰は将兵を派遣して嶢関を塞がせました。
沛公劉邦が攻撃しようとしましたが、張良が諫めて言いました「秦兵はまだ強いので軽視してはなりません。まず人を送って山上の旗幟を増やし、疑兵にしてください。それから酈食其や陸賈を送って秦将を説き、利によって勧誘しましょう。」
沛公は納得して秦将を誘いました。秦将は沛公との連和を望みます。
沛公が講和に同意しようとすると、張良がこう言いました「これは将が叛したいと思っているだけで、恐らく士卒は従いません。懈怠(敵の油断)に乗じて撃つべきです。」
沛公は兵を率いて嶢関を迂回し、蕢山を越えて秦軍を撃ちました。藍田南で秦軍を大破します。
その後、藍田に至り、藍田北でまた戦って秦軍に大勝しました。
 
史記高祖本紀』では前後関係が異なっています。以下、『高祖本紀』からです。
秦将章邯が趙で軍を挙げて項羽に降った頃(七月)、沛公劉邦が魏人甯昌を秦に派遣しました。
項羽は趙を援けるために宋義と北に向かいましたが、宋義を殺して代わりに上将軍になり、黥布等の諸将も項羽に属すことになりました。項羽が秦将王離軍を破って章邯を降したため、諸侯は皆、項羽に帰服します。
趙高が二世皇帝を殺してから、沛公に人を送って関中を分けて王を称すことを約束しました。
沛公はこれを詐術だと判断し、張良の計を用いて酈生や陸賈に秦将を説得させました。利によって誘惑します。
その後、機に乗じて武関を襲い、突破しました。
更に秦軍と藍田南で戦いました。疑兵や旗幟を増やします。沛公が通った場所では略奪が行われなかったため、秦人に喜ばれました。(沛公の兵が秦の人々に支持されていたため)秦軍は瓦解して沛公に大敗します。
沛公は藍田の北でも秦軍を大破し、勝ちに乗じて秦軍を壊滅させました。
 
史記』の『高祖本紀』では、劉邦張良の策を使って秦将を誘惑するのは武関を破る前です。しかし『資治通鑑』は嶢関の戦い前の事としています。これは『漢書・高帝紀』を元にしています(『史記・留侯張良世家』も『資治通鑑』『漢書』と同じです)
『高帝紀』に限らず、『漢書』の多くの内容は『史記』に倣っていますが、事件の前後関係などにおいてはところどころ訂正を入れており、『資治通鑑』はそれを取り入れています。
 
[十五] 『史記六国年表』は本年に「諸侯が秦に入る。嬰が降り、項羽に殺される。暫くして項羽が誅され、天下が漢に属す」とまとめて書いています。翌年以降に詳述します。
 
 
 
次回に続きます。

秦楚時代27 西楚覇王(一) 秦滅亡 前206年(1)