秦楚時代27 西楚覇王(一) 秦滅亡 前206年(1)

 今回は秦最後の年です。西楚覇王項羽元年、漢王劉邦元年になります。七回に分けます。
 
秦王子嬰元年 西楚覇王元年 漢王元年
206年 乙未
 
[] 『漢書・高帝紀』に「(漢高帝)元年冬十月(歳首)、五星が東井(井宿。二十八宿の一つ)に集まる」という記述があります。
しかし、『資治通鑑』胡三省注は「五星が東井に集まるのは十月ではなく三月なので誤り」としています。『資治通鑑』本文も十月に五星が東井に集まったという記述は採用していません。
五星とは辰星、太白、熒星、歳星、鎮星を指し、水星、金星、火星、木星土星にあたります。
 
[] 『史記・秦始皇本紀』『資治通鑑』からです。
冬十月(歳首)、子嬰が秦王に即位して四十六日目、楚が派遣した沛公劉邦が霸上に至りました。

劉邦西進の地図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
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沛公が秦の都城に人を送って投降を呼びかけたため、秦王子嬰は素車(装飾がない白い車)に乗り、白馬に車を牽かせ、首に組印綬。印の紐)をかけ、皇帝の璽、符、節を持って、軹道(地名)の横で沛公に降りました。
資治通鑑』胡三省注によると、素車と白馬は喪人の様相です。組(綬)を首にかけたのは自殺を欲しているという意味です。
子嬰が献上した璽は始皇帝から二世皇帝を経て子嬰に伝えられたもので、「受天之命,皇帝壽(寿)昌」と刻まれていたようです。また、天子には六璽(皇帝行璽、皇帝之璽、皇帝信璽、天子行璽、天子之璽、天子信璽)があったという説と、これら六璽以外に伝国の璽(子嬰が劉邦に献上した璽)が存在し、全部で七璽だったという説があります。
 
諸将の中には秦王を誅殺するように主張する者もいました。『史記・高祖本紀』の注索隠)は『楚漢春秋』から引用して「樊噲が秦王を殺すように求めた」と書いています。
しかし沛公はこう言いました「懐王が私を派遣したのは、私が寬容に対処できると判断したからだ。そもそも人が既に降ったのに殺してしまったら不祥となる。」
沛公は子嬰を官吏に渡して監守させました。
 
こうして秦が滅亡しました。天下を統一してわずか十六年後の事です。
資治通鑑』は西漢の賈誼の言葉を紹介しています(『過秦論』の一部です。全文は『新書』『史記秦始皇本紀』等に記載されています。別の場所で紹介します)「秦は区区とした(わずかな)地から万乗の権に発展し、八州(豫、兗、青、揚、荊、幽、冀、并州。秦の雍州を併せたら九州)を制圧して同列の王(諸国の王。秦も六国も王を称していたので同列になります)を朝見させた。その後、百有余年を経て六合(天下の総称。天、地、東、西、南、北)を家とし、殽、函を宮にすることができた。ところが一夫が難を為しただけで七廟が破壊され、その身は人の手に殺されて天下の笑い者になった。それはなぜだろうか?仁誼(仁義)を施すことなく、攻守の勢(情勢)が変わったからである(攻勢の時は仁義を施さなくても通用したが、天下を統一して国を守る時になっても仁義を施さなかったために滅亡したのである)。」
 
『帝王世紀』は秦が始封されてから滅亡するまでを三十六世、六百五十年としています。
『秦始皇本紀』の後ろに付記された「秦史」では、秦襄公から二世皇帝までを六百十年としており、『正義』は五百七十六年と五百六十一年という説も紹介しています。
『秦本紀』の「索隠」には六百十七年とも書かれています。
どれが正しいかはわかりません。
 
別の場所で『過秦論』と『史記・秦始皇本紀』に記載された秦の略史を簡訳します。

秦楚時代 過秦論(上)

秦楚時代 過秦論(中)

秦楚時代 過秦論(下)

秦楚時代 秦略史

 
[] 『資治通鑑』からです。
沛公劉邦が西に進んで秦都・咸陽に入りました。
諸将が皆争って金帛財物が保管されてる府庫に走り、財物を分け始めます。
蕭何だけは秦の丞相府に入って図籍を集め、全て保管しました。そのおかげで沛公は天下の阨塞(山川要塞)や戸口の数、強弱(財力や物資等)の分布をことごとく把握できました。
 
沛公は秦の宮室や帷帳、狗()馬、重宝および千人を数える婦女(宮女)を見て、秦の宮殿に留まろうとしました。
樊噲が諫めて言いました「沛公は天下を有しようと思っているのですか?それとも富家の翁になろうとしているのですか?これら奢麗の物は全て秦に滅亡を招きました。沛公は何に使おうというのですか。急いで霸上に帰るべきです。宮中に留まってはなりません。」
 
資治通鑑』胡三省注はこの時の樊噲を評してこう書いています「樊噲は狗屠(犬の屠殺業者)から身を起こしたがこのように見識があった。樊噲の功は秦宮に留まろうとした沛公を諫めた事が最上であり、鴻門の会で項羽を譴責したのは次である。」
樊氏は西周宣王が仲山甫を樊に封じて生まれたといわれています。
 
沛公は樊噲の諫言を聴きませんでした。
そこで張良が言いました「秦が無道だったから、沛公はここに至ることができたのです。天下のために残賊を除く時は、縞素(喪服)を資(根本)とするべきです(天下のために害を除く時は、喪に服して民を悼む時と同じ態度でいなければなりません)。今、秦に入ったばかりなのにその楽に安んじたら(歓楽に浸って満足してしまったら)、『暴君桀を助けて残虐を行う(助桀所虐)』ということになってしまいます。それに、忠言とは耳に痛くても行動すれば利があるものです。毒薬(強い薬)とは口に苦くても病に対しては利があるものです(忠言逆耳利於行,毒薬苦口利於病)。沛公が樊噲の言を聞くことを願います。」
沛公は軍を還して霸上に駐留しました。

この時の事を『秦始皇本紀』は「沛公は咸陽に入ったが、宮室や府庫を封鎖して軍を霸上に還した」と書いています。
史記・高祖本紀』も「沛公が秦の宮殿に留まって休もうとしたが、樊噲と張良が諫めたため、秦の重宝財物の府庫を封鎖して軍を霸上に還した」としています。
漢書・高帝紀』は『史記・高祖本紀』 と同じ記述をした後、「蕭何が秦の丞相府から図籍文書をことごとく回収した」と追記しています。
諸将が財物を奪う中、蕭何だけが書籍を確保した故事は『史記・蕭相国世家』に、樊噲と張良劉邦を諫めた故事は『史記・留侯張良世家』に記述されています。
 
[] 『史記・高祖本紀』と『資治通鑑』からです。
十一月、沛公・劉邦が関中諸県の父老、豪傑を全て招いて言いました「父老が秦の苛法(苛酷な法律)に苦しんで久しくなる。(政府を)誹謗した者は族滅され、偶語耦語。議論すること。ここでは諸子の学説について討論すること)した者は弃市棄市。市中で処刑を行うこと)に処された私は諸侯との間で先に関に入った者が王になるという約束をした。よって私が関中の王となるべきである。父老と約束しよう。法は三章のみとする(約法三章。人を殺した者は死に、人を傷つけたり盗みをはたらいた者は軽重によって罪を定める。それ以外は全ての秦法を廃止する(秦が定めた誹謗や偶語に対する刑および連座の制度等がなくなります)。諸吏民は皆、今まで通り安堵せよ(この地から離れる必要はない)。私がここに来たのは、父老(『漢書・高帝紀』では「父兄」)のために害を除くことが目的であり、侵暴を行うためではない。恐れる必要はない。私が軍を霸上に還すのは、諸侯の到着を待って約束を定めるためである(正式に新しい法を定めるためである。または正式に関中王になるためである)。」
沛公は人を派遣して秦吏と一緒に県、郷、邑をまわらせ、告諭を行いました。
資治通鑑』胡三省注によると、秦の制度では県は方百里を統治します。十里で一亭、十亭で一郷になります。
 
劉邦の言葉を聞いた秦民は大喜びし、争って牛羊や酒を持って軍士に献上しました。しかし沛公は全て拒否して「倉の粟(食糧)が多いので、欠乏している物はない。民の物資を費やすつもりはない」と言いました。
民衆はますます喜び、沛公が秦王になることを強く望みました。
 
 
 
次回に続きます。