秦楚時代28 西楚覇王(二) 鴻門の会(前) 前206年(2)

西楚覇王元年、漢王元年の続きです。
 
[] 『史記項羽本紀』と『資治通鑑』からです。
項羽は河北を平定してから諸侯の兵を率いて西の関中に向い、新安に至りました。
漢書陳勝項籍伝』には「項羽は諸侯の兵三十余万を率いていた」とあります。しかし項羽に投降した秦兵だけでも二十余万おり、『史記項羽本紀』と『資治通鑑』では新豊鴻門に駐軍した時(下述)、四十万の兵を擁していたとしているので、この時の兵力は三十万以上だったと思われます。
 
諸侯の吏卒の中にはかつて繇使(徭役)や屯戍(守備兵)として秦中(関中)に行ったことがある者もいました。その時、秦中の吏卒は多くが無礼な態度で諸侯の吏卒を遇しました。
章邯が秦軍を率いて諸侯に降ってから、諸侯の多くの吏卒は勝ちに乗じて秦兵を奴虜(奴隷や捕虜)のように扱い、秦の吏卒をしばしば辱しめてきました。
怨みを積もらせた秦の吏卒は陰でこう相談しました「章将軍等は我々を騙して諸侯に降った。今から関に入って秦を破ることができたら大善だが、もしできなかったら諸侯は我々を虜(捕虜)として東に連れて行くだろう。秦は我々の父母や妻子を全て誅殺するはずだ。どうすればいい?」
秦の吏卒が相談していた内容は諸将の耳に入りました。諸将から項羽に告げられます。
項羽は黥布と蒲将軍を招いてこう言いました「秦の吏卒はまだ大勢おり、その心は服していない。関に至ってから命令を聞かなくなったら、事が危うくなる。彼等を撃殺するべきだ。章邯、長史欣、都尉翳だけを残して秦に入ろう。」
楚軍は夜の間に秦兵を襲撃し、二十余万人を新安城南に阬(生埋め)しました。
 
[] 『史記項羽本紀』『史記・高祖本紀』と『資治通鑑』からです。
ある人が沛公劉邦に言いました「秦(関中)の富は天下の十倍もあり、地形も強(優位。険要)です。最近、章邯が項羽に降ったので、項羽は章邯を雍王と号して関中の王にしたと聞きました。彼が来たら沛公は恐らくこの地を有すことができなくなります。急いで兵を送って函谷関を守らせるべきです。諸侯の軍を中に入れてはなりません。同時に関中の兵を徐々に徴集して自分の勢力を拡大し、彼等を防ぐべきです。」
沛公はこの計に納得して実行しました。
 
劉邦に函谷関を守るように進言した人物を『史記・高祖本紀』も『資治通鑑』も「ある人(或説)」としていますが、『高祖本紀』の注(索隠)は『楚漢春秋』から「解先生が『函谷に兵を送って守るべきです。項王を入れてはなりません』と言った」という部分を紹介しています。
また、劉邦張良の会話では「鯫生」という名も出てきます(下述)
 
項羽が秦地を攻略しながら函谷関に来ました。すると関門は閉鎖されており、兵が守っています。この時初めて沛公が既に咸陽を破って関中を平定したと知りました。
項羽は激怒して当陽君・黥布等に函谷関を攻撃させ、関門を突破しました。
 
十二月、項羽が関に入って戲の西まで進軍しました。
沛公劉邦は霸上に駐軍しており、まだ項羽に会う機会がありません。
劉邦の左司馬曹無傷は項羽が激怒して劉邦を攻撃しようとしていると聞き、項羽と通じて封賞を求めようと考えました。人を送って項羽にこう伝えます「沛公は関中で王になろうとしており、子嬰を相にしました。珍宝をことごとく占有しています。」
項羽は激怒して「旦日(明朝)、士卒に充分な食事を採らせよ!沛公の軍を撃破するためだ!」と言いました。
 
范増も項羽に言いました「沛公が山東にいた時は財貨に貪婪で美姫を好みましたが、今、関に入ってからは財を取ることがなく、婦女を幸すこともありません。これは志が小さくないからです。私が人に命じて気を観望させたところ、全て龍虎となり、五采(五色)が現れました。これは天子の気です。急いで撃つべきです。時を失ってはなりません。」
 
項羽軍は翌日の決戦のために準備を始めました。
この時、項羽の兵は四十万で百万と号していました。新豊鴻門に駐軍しています。
資治通鑑』胡三省注によると、新豊県は秦代の驪邑で、西漢高祖劉邦七年に置かれた県です。当時はまだ驪邑と呼ばれていたはずです。
一方、霸上の沛公軍は十万で二十万と号していました。
 
楚の左尹項伯は項羽の季父(叔父)で、以前から張良と親しくしていました。『史記索隠』によると、項伯の名は纏で、伯は字です。後に漢の射陽侯に封じられます。
項伯は夜の間に沛公の軍営に走り、秘かに張良に会って事情を話しました。
項伯は張良を一緒に逃げるよう誘って「(沛公と)共に死ぬ必要はない」と言いました。
しかし張良はこう言いました「臣は韓王のために沛公を送ってきました。今、沛公に危急があるのに逃亡してしまったら不義となります。この事を伝えないわけにはいきません。」
張良は沛公の帷幕に入って詳しく報告しました。沛公は大いに驚いて「どうするべきだ」と問います。
張良が逆に問いました「誰が大王にこの計(関門を閉じること)を与えたのですか?」
沛公が言いました「鯫生だ。彼がわしに『関を塞いで諸侯を中に入れなければ秦地を全て治めることができる』と言ったから従ったのだ。」
史記・集解』は、「鯫」は魚の名で、「鯫生」とは小人を指すという説と、「鯫」が姓という説を載せています。
張良が問いました「公の士卒が項羽に対抗できると思いますか?」
沛公は少し黙ってから「元々敵うはずがない。どうすればいい?」と問いました。
張良が言いました「私を項伯に会いに行かせてください。沛公に叛すつもりはないと説明します。」
沛公が問いました「君はどうして項伯と交際があるのだ?」
張良が言いました「秦の時代に交遊しました。項伯はかつて人を殺しましたが、臣が彼を活かしました(助けて匿いました)。今、事が急を告げていますが、幸いにも彼が良(私)に知らせに来たのです。」
沛公が問いました「君と較べてどちらが年少でどちらが年長だ?」
張良が言いました「彼が臣より年長です。」
沛公が言いました「君は私のために彼を呼んできてくれ。私は彼に兄事する必要がある。」
張良は一度外に出てから項伯を説得して連れて来ました。
項伯が帷幕に入って沛公に会います。
沛公は巵(杯)を持って項伯の寿を祝い、婚姻の約束をしてから言いました「私は入関してからわずかな物(秋毫)も身の回りに近づけませんでした。吏民の籍を記録し、府庫を封鎖して将軍項羽を待っていたのです。将を送って関を守らせたのは、他の盗賊が出入りしたり非常事態が起きた時の備えとするためです。日夜、将軍の到着を望んでいました。どうして背くことがあるでしょう。伯(あなた)から臣が徳に裏切るつもりはないことを詳しく説明していただけないでしょうか。」
項伯は同意して沛公に「旦日(明朝)早い時間に自ら謝りに来る必要があります」と言いました。
沛公は「わかりました(諾)」と答えました。
 
項伯は夜の間に楚の軍中に戻り、沛公の言を全て項羽に報告してからこう言いました「沛公が先に関中を破らなかったら、公は入ることができませんでした。今、人に大功があるのにそれを撃ったら不義となります。大功を理由に善く遇すべきです。」
項羽は同意しました。
項伯が項羽を説得する部分は、『史記項羽本紀』と『資治通鑑』では項伯が項羽に直接会って話をしていますが、『史記・高祖本紀』では「項伯が項羽に書を送って諭した」と書いています。
 
 
 
次回に続きます。