秦楚時代29 西楚覇王(三) 鴻門の会(後) 前206年(3)

西楚覇王元年、漢王元年十二月の続きからです。
 
[(続き)] 翌朝、沛公・劉邦が百余騎を率いて鴻門に行き、項羽に謝罪して言いました「臣と将軍は戮力(協力)して秦を攻め、将軍は河北で戦い、臣は河南で戦ってから図らずも先に関に入って秦を破り、またここで将軍と会うことができました。ところが今は小人の言によって将軍と臣の間に隙(間隙。対立)ができてしまいました。」
項羽が言いました「沛公の左司馬曹無傷が言ったのだ。そうでなかったら籍(私)がこのようにすることはなかった。」
項羽は沛公を留めて酒宴を開きました。
項羽と項伯は東を向いて座り、亜父(「亜」は「次」と同義。父に次いで尊敬する地位という意味)范増は南を向いて座り、沛公は北を向いて座り、張良は西を向いて侍ります(原文「向西侍」。「侍」だけでは立っていたのか坐っていたのかはっきりしませんが、恐らく「侍坐」を指すと思います。「劉邦に従って坐った」という意味です)
 
古代の席次では、部屋の西側に座って東を向く席が最上位とされており、次は南向き、次は北向きで、西向きの席が最下位でした。これは古代の多くの家屋が東に戸をつけていたためです。部屋の奥になる西の席が上座、入り口に近い東の席が下座になります。
鴻門の会では劉邦が客なので本来は劉邦が上座に坐るはずです。しかし項羽が自ら上座に坐り、次席には亜父の范増が坐りました。項伯も上座に坐ったのは項羽の叔父だからだと思われます。客である劉邦を北向きに坐らせたことで、項羽と劉邦の主従関係を明らかにさせました。劉邦に従う張良は末席になります。
 
范増がしばしば目で項羽に合図を送ったり、身につけていた玉玦を再三手で持ち上げました。「玦」は玉環の一部が欠けた形をしており、「玦」の字は「決」にも通じるので、「決裂」「決別」を意味します。范増は玉玦を使って劉邦との決別を示唆しました。
しかし項羽は黙ったまま応じません。
范増は立ち上がって酒席から出ると、項荘(『史記正義』によると項羽の従弟)を招いて言いました「君王項羽の性格は忍ぶことができない(手を下せない)。汝が入って寿を祝え(酒を献じよ)。寿が終わったら剣舞を請い、それを機に沛公を席で撃って殺せ。そうしなかったら、汝等は皆、(沛公の)(捕虜)となるだろう。」
項荘は宴席に入って寿を祝い、こう言いました「君王と沛公が宴を開きましたが、軍中には楽(娯楽)とするものがありません。私に剣舞を披露させてください。」
項羽は「わかった(諾)」と答えます。
項荘が剣を抜いて舞を始めましたが、項伯も剣を抜いて舞を始めました。項伯がしばしば体を張って沛公を守ったため、項荘は沛公を撃てませんでした。
 
張良が席を外して軍門に行き、樊噲に会いました。
樊噲が問いました「今日の事はどうなっていますか?」
張良が言いました「急を告げている(甚急)。今、項荘が剣を抜いて舞を始めた。その意思は常に沛公にある(沛公を撃つことが目的だ)。」
樊噲は「それほど緊迫しているのですか(此緊矣)。臣に入らせてください。彼と命をかけます」と言うと、剣と盾を持って軍門を入ろうとしました。
軍門を守る戟を持った衛士が樊噲を止めようとしましたが、樊噲は盾を倒して衛士を撃ちます。衛士が地面に倒れた隙に軍門を入り、帷幕を引いて中に進みました。
 
樊噲は西を向いて立つと目を見開いて項羽をにらみました。頭髪は逆立ち、大きく開いた目尻は裂けるほどです。
項羽が剣に手を置いて膝で立ち、「客は何者だ?」と問いました。
張良が言いました「沛公の参乗樊噲です。」
項羽が言いました「壮士だ!巵酒(一杯の酒)を与えよ。」
樊噲に一斗の酒が与えられました。
樊噲は拝謝してから立ち上がって酒を飲み干します。
項羽が言いました「彘肩(豚の肩肉)を与えよ。」
樊噲に生の彘肩が与えられました。樊噲は盾で地面を覆って彘肩をその上に載せ、剣を抜いて切り取り、そのまま呑み込みます。
項羽が問いました「壮士はまだ飲めるか?」
樊噲が言いました「臣は死を避けることもありません。巵酒を辞すことがあるでしょうか!秦には虎狼の心があり、人を殺したら殺し尽くせないことを恐れ(殺人如不能挙)、人に刑を用いたらことごとく罰せられないことを恐れたため(刑人如恐不勝)、天下が皆叛しました。懐王は諸将と約束して『先に秦を破って咸陽に入った者を王にする』と言いました。今、沛公は先に秦を破って咸陽に入りましたが、毫毛も近づけようとせず、宮室を封鎖し、軍を霸上に還して将軍を待ちました。将を派遣して関を守らせたのは、他の盗賊の出入りや非常事態に備えるためです。このように労苦し、功も高いのに、封爵の賞を与えることなく、逆に細人(小人)の説(話)を聞いて功がある人を誅殺しようとしています。これは亡秦を継続させるのと同じなので、将軍にはそのようなことができないと思っています。」
項羽はこれには答えず「坐れ」と命じました。
樊噲は張良に従って坐りました。
 
樊噲が坐って暫くすると、沛公が立ち上がって厠に行きました。樊噲を呼び出します。
項羽は都尉陳平を送って沛公を呼び戻そうとしました。
沛公が樊噲に言いました「今(酒席から)出て来たが、別れの辞を述べていない。どうすればいい?」
樊噲が言いました「大事を行う時は細謹(小事)を顧みないものです。今は人方(相手)が刀俎であり、我方(我々)は魚肉と同じです。何の辞が必要なのですか。」
沛公は楚営を出ることにしました。張良を留めて項羽に謝辞を述べさせます。
張良が問いました「大王は何を持ってきましたか?」
沛公が言いました「わしは白璧一双を持っており、項王に献じようと思っていた。また玉斗一双を亜父に与えようと思っていた。しかし怒りに触れたため献上できなかった。公がわしのために献上してくれ。」
張良は「謹んでお受けします(謹諾)」と答えました。
 
鴻門から霸上まで四十里あります。沛公は車騎を鴻門に残し、自分で馬に乗って樊噲、夏侯嬰、靳彊、紀信の四人だけを連れて去りました。
資治通鑑』胡三省注によると夏侯は夏后(夏王)の子孫です。杞国(夏王の子孫の国)の簡公が楚に滅ぼされてから、弟の佗が魯に奔りました。魯悼公は佗が夏后氏の出身だったため侯の爵位を与えました。ここから夏侯氏が生まれました。

紀は春秋時代の紀侯の子孫で、国名が姓氏になりました。なお、『史記項羽本紀』と『資治通鑑』では紀信が劉邦と同行していますが、『漢書帝紀』では紀成となっています。紀信と紀成は同一人物のようです。『史記』と『漢書』の注釈を見ると、紀成の子を紀通といいます西漢少帝八年・前180年にも触れます)

 
四人は剣と盾を持って走りました。驪山の下から芷陽を通り、間道に沿って霸上に向かいます。
沛公は鴻門を出る前に張良にこう言いました「この道を通って我が軍に行けば二十里もない。わしが軍中に到着する頃を見計らって公(汝)は入れ項羽に会いに行け)。」
沛公が間道を通って自軍に入った頃、張良が宴席に入り、謝辞を伝えて言いました「沛公は桮杓(酒器)に勝てず(酒に弱いので)、挨拶ができませんでした。謹んで臣良を派遣し、白璧一双を奉じて将軍足下(『資治通鑑』は「将軍足下」。『史記項羽本紀』では「大王足下」)に再拝献上し、玉斗一双を亜父足下(『資治通鑑』は「亜父足下」。『史記項羽本紀』では「大将軍足下」)に再拝奉上させました。」
項羽が問いました「沛公はどこだ?」
張良が答えました「将軍に督過(譴責)の意思があると聞いたので、身を脱して一人で去りました。既に軍中に入りました。」
項羽は璧を受け取って席の上に置きました。
范増は玉斗を受け取ると地面に置き、剣を抜いて打ち砕きながらこう言いました「ああ(唉)、豎子(愚かな若者)とは謀るに足らない!将軍(『資治通鑑』は「将軍」。『史記項羽本紀』では「項王」)の天下を奪うのは沛公に違いない。我々は今すぐ彼の虜となるだろう!」
 
軍中に帰った沛公はすぐに曹無傷を誅殺しました。
 
[] 『史記項羽本紀』と『資治通鑑』からです。
数日後、項羽が兵を率いて西に向かい、咸陽を屠しました(皆殺しにしました)
秦の降王子嬰を殺し、秦の宮室を焼きます。広大な宮殿が焼かれたため、火が三カ月も消えませんでした。
項羽は秦の貨宝や婦女を集めて東に還りました。
秦の民は大いに失望して項羽を恐れましたが、服従せざるを得ませんでした。
 
項羽が咸陽に入った時の事を『史記秦始皇本紀』からです。
諸侯の兵が咸陽に至りました。項籍項羽が従長(合従の長。関東諸侯の長)です。
項籍は子嬰や秦の諸公子・宗族を殺しました。
その後、咸陽を屠して宮室を焼き、子女を捕え、珍宝貨財を回収しました。諸侯が共に分け合います。
秦が滅んでからその地は三分されました(後述します)。雍王、塞王、翟王が治めます。これを三秦といいます。項羽は西楚霸王となり、天下の主として王や諸侯を分封しました。秦が完全に滅亡します。
その五年後、天下は漢によって平定されました。
 
史記項羽本紀』と『資治通鑑』に戻ります。
韓生が項羽に言いました「関中は険阻な山に守られて河に囲まれている四塞の地です。土地も肥饒なので都にすれば霸を称えられます。」
項羽は秦の宮室が全て焼毀されおり、しかも東に帰りたいという想いが強くなっていたため、こう答えました「富貴を得たのに故郷に帰らなかったら、刺繍をした美しい服を着ているのに夜歩くのと同じで、誰にも分からないではないか。」
韓生は退いてから「人は『楚人とは沐猴(獼猴。猿の一種)が冠をつけているのと同じだ(楚人沐猴而冠耳)』と言うが、まさにその通りだ」と言いました。
これを聞いた項羽は怒って韓生を煮殺しました。
 
項羽に諫言した人物を『資治通鑑』は「韓生」としており、『漢書陳勝項籍伝』が元になっています。『史記項羽本紀』には「或説(ある人が言った)」とあるだけで誰の言葉かはっきりしません。しかし『史記集解』は「蔡生」という説を載せています。
 
 
 
次回に続きます。