秦楚時代 過秦論(上)

紀元前206年、秦が滅亡しました。

秦楚時代27 西楚覇王(一) 秦滅亡 前206年(1)


西漢の賈誼が書いた「過秦論」を紹介します。「秦の過ち」を論じた文章です。
史記・秦始皇本紀』『陳渉世家』等にも収録されていますが、ここでは『新書(巻第一)』を底本としました。上中下の三篇に分かれています。
まずは前篇です。
 
「過秦上」
秦孝公は崤(崤山と函谷関)の堅固な地形に拠って雍州の地を擁し、君臣が国を固守して周室を窺い、天下を接見して宇内(世界)を包挙(占有)し、四海を囊括(包みこむこと)しようという意思と、八荒(八方。東西南北と東南、東北、西北、西南)を呑みこもうという心があった。当時は商君商鞅が補佐し、国内では法度を立て、耕織(農耕と機織)に務め、守戦の具(武器)を修めた。国外では連衡して諸侯を闘わせた。そのおかげで秦人は拱手して西河の外を取ることができた。
 
孝公が死んでから、恵文昭襄王は故業(旧業。孝公の業績)を継承し、遺策(孝公が残した政策)によって南は漢中を取り、西は巴蜀を占領し、東は膏腴(肥沃)の地を割いて取り、北は要害の郡を収めた。そのため諸侯は恐懼し、会盟して秦を弱くする策を謀り、珍器重宝や肥饒の地を惜しむことなく天下の士を集め、合従して国交を締結し、共に一つになった。当時は、斉に孟嘗、趙に平原、楚に春申、魏に信陵がおり、この四君は皆、明智かつ忠信で、寬厚にして人を愛し、賢人を尊んで士を重んじ、合従の約束をして連衡から離れさせ、韓中山の衆を集合させた(『新書』は楚と斉が抜けています。『史記秦始皇本紀』は「中山」としています)。この頃は六国の士(『史記索隠』から解説します。六国というのは韓楚で、秦を併せると七国になります。これを七雄といいます。また、六国に宋中山を合わせると九国になりますが、この三国は微弱で六国よりも早く亡びました)甯越、徐尚、蘇秦、杜赫といった者がおり、各国で謀を行っていた(『史記集解』によると、「甯越」は「甯経」と書かれることもあります。または「甯越」と「甯経」は別の人物ともいわれています。『索隠』によると、「甯越」は「寧越」とも書き、趙人です。徐尚は詳細が分かりません。蘇秦は合従を称えた縦横家で、東周洛陽の人です。杜赫は周で遊説しました。『呂氏春秋士容論務大』に見られます。杜赫は周人です)。斉明、周最、陳軫、召滑、楼緩、翟景、蘇厲、楽毅といった徒がおり、各国の意見を通じさせていた(『索隠』によると、斉明は『戦国策』に見られ、東周の臣になってから秦楚に仕え、韓にも行きました。周最は周の公子で、秦に仕えました。陳軫は夏の人で秦に仕えました。昭滑は楚人です。楼緩は魏文侯の弟で、楼子とよばれています。蘇厲は蘇秦の弟で、斉に仕えました。楽毅は燕昭王から客礼で遇され、亜卿になりました。翟景は詳細不明です)呉起孫臏、帯佗、倪良、王廖、田忌、廉頗、趙奢といった朋(党。集団)がおり、兵を制していた(「倪良」は『秦始皇本紀』では「兒良」です。『索隠』によると、呉起は衛人で、魏文侯に仕えて将になりました。孫臏孫武の子孫です。『呂氏春秋審分覧不二』に「王廖貴先,兒良貴後」とあり、『索隠』は「二人とも天下の豪士」としています。王廖の「貴先(先を重視する)」というのは、「行動する前に確実な計策を立てることを重視した」という意味のようです。兒良の「貴後(後を重視する)」というのは、「人に先んじて動くのではなく、防御を重視した」という意味のようです。田忌は斉の将、廉頗と趙奢は趙の将です)。諸侯はかつて十倍の地を擁し、百万の師を率いており、関を仰いで秦を攻めた。しかし秦人が関を開いて敵を迎撃すると、九国の師(諸侯の連合軍)は逡巡するだけで前に進もうとしなかった。秦が矢も鏃も費やすことなく、天下が困窮したのである。その結果、合従は解散し、諸侯は地を割いて争って秦に献上した。秦は余力を持って各国の弊(短所)を制し、敗走する敵を駆逐した。(その戦果は)百万の尸が地に伏せて流れる血に櫓()が浮くほどだった。秦は勝利による便に乗じて天下を分割支配し、山河を分けさせた。強国は帰順を請い、弱国は入朝するようになった。
このような状況は孝文王襄王の代に及んだ。二人は享国(国を統治すること)の日が浅かったため、国家に大事は起きなかった。
 
始皇の代に至ると、旧六世(『史記集解』によると孝公恵文王武王昭王孝文王襄王)の余烈(残した功績)を継承し、長策(鞭)を奮って宇内(天下)を御し、二周を併呑して諸侯を亡ぼし(実際に周を滅ぼしたのは昭襄王と荘襄王の時代です)、尊位(帝位)に登って六合(天地と四方。天下)を制し、手に敲朴(鞭。刑具)を持って天下を鞭笞し(鞭打ち)、その威が四海を震わせた。南は百越の地を取って桂林象郡とした。百越の君は俛首係頸(頭を下げて首に縄を巻くこと。服従の姿)して秦の下吏に命を委ねた。更に蒙恬を派遣して北に長城を築き、藩籬(国境。本来は柵や壁の意味)を守らせて匈奴を七百余里も退けた。胡人は敢えて南下して牧馬をすることができなくなり、士は敢えて弓を引いて怨に報いることができなくなった。そこで始皇帝は)先王(夏・商・周三代の王)の道を廃し、百家の言を焼き焚書、黔首(民)を愚かにさせた。名城(堅城)を破壊し(各地の抵抗を防ぐためです)、豪傑を殺し、天下の兵(兵器)を収めて咸陽に集め、鋒鏑(鋭利な鏃。ここでは武器の意味)を溶かして十二体の金人を鋳造することで、天下の民を弱くさせた。その後、華山に登って城壁とし(華山の地形を利用して秦の城壁とし)、河黄河を利用して池(濠)を造り、億丈の高さ(華山)に頼り、不測の淵黄河に臨み、これらによって守りを固めた。良将と勁弩(強い弩。または優秀な弓兵)が要害の地を守り、信臣と精卒が利兵(鋭利な兵器)を並べて誰何(問い正すこと。警備の意味)した。天下が既に定まると、始皇の心は関中が堅固で千里の金城(堅固な城)に等しいと考え、子孫も帝王を継いで万世の業(功業)になると信じた
 
始皇が死んでからも余威が殊俗(風俗が異なる場所。遠方)を振わせた。(ところが陳勝によって状況が一変した。)陳渉は瓦甕で窓を作り、縄で戸を縛って閉めるような貧しい家に生まれた甿隸の人(身分が賎しい人。農夫)に過ぎず、しかも遷徙(流浪)の徒であった。その才能は中人(普通の人)に及ばず、仲尼孔子墨翟墨子の賢があったわけでも陶朱や猗頓(どちらも富豪)の富があったわけでもなかったが、行伍(士卒の行列)の間で足を運び、什伯(十百。わずかな人数)の中で立ち上がり、罷散(疲弊散乱)した卒を率い、数百の衆を指揮し、身を転じて秦を攻めた。木を伐って兵器とし、竿を掲げて旗を作ると、天下が雲集するように響応し、食糧を持って景従(影のように従うこと)した。こうして山東の豪俊が共に決起し、秦族を亡ぼすことになったのである。
 
(秦が亡んだのは)秦の天下が小弱(弱小)だったわけではない。雍州の地があり、崤函の固(崤山と函谷関の堅固な守り)があったのは以前と変わらない。陳渉の地位は斉中山の君のように尊いものではなかった。鉏耰棘矜(「耰」は「櫌」とも書きます。柄がついた鍬等の農具です)は鈎戟長鎩(「鈎戟」は「句戟」とも書きます。戟や矛等の武器です)のように鋭利ではなかった。適戍の衆(辺境を守るために徴集された人々)は九国の師(諸侯の軍。正規兵)に匹敵するものではなかった。深謀遠慮も行軍用兵の道も、かつての士に及ぶものではなかった。しかし成敗に異変が起こり、功業が相反するものになった(戦国時代の諸侯は失敗したのに、陳渉は成功した)。これはなぜだろうか?もし山東の国(秦以外の諸侯国)と陳渉の長短や大小を較べ、権勢や力を較べるとしたら、同日に論じることはできない(原文「不可同年而語矣」。双方の差は歴然としているという意味)
秦は区区とした(わずかな)地から万乗の勢に発展し、八州(豫、兗、青、揚、荊、幽、冀、并州。秦の雍州を併せたら九州)を支配して同列の王(諸国の王。秦も六国も王を称していたので同列になります)を朝見させた。その後、百余年を経て六合(天下)を家とし、殽(殽山と函谷関に守られた地)を宮にすることができた。ところが一夫が難を為しただけで七廟が破壊され、その身は人の手に殺されて天下の笑い者になった。これはなぜだろうか?仁心を施すことなく、攻守の勢(情勢)が変わったからである(攻勢の時は仁義を施さなくても通用したが、天下を統一して国を守る時になっても仁義を施さなかったために滅亡したのである)
 
 
 
次回は中編です。