秦楚時代 秦略史

紀元前206年に秦が滅亡しました。

秦楚時代27 西楚覇王(一) 秦滅亡 前206年(1)

史記秦始皇本紀』が本文の後ろに秦の略史を記載しています。本編とは異なる部分もあるので、ここで紹介します。
 
襄公が立ちました。享国(国を治めること。在位)十二年です。初めて西畤を造りました。西垂に埋葬されました。文公を生みました。
『索隠』からです。襄公は秦仲の孫で荘公の子です。(東周に遷都した時)周王室を援けたため、周が始めて秦を諸侯に任命しました。襄公は初めて西畤を造って白帝を祀りました。即位して十三年で死に、西土に埋葬されました(上文と『史記・秦本紀』は在位年数を十二年としています)
 
文公は即位してから西垂宮に住みました。五十年で死し、西垂に埋葬されます。静公を生みました。
『索隠』からです。文公は鄜畤を造り、また陳宝祠を造りました。
『秦本紀』では西山に埋葬されたとしています。
 
静公(『秦本紀』では「竫公」)は即位する前に死にました。憲公を生みました。
 
憲公(『秦本紀』では「寧公」。一説では「曼公」)は享国十二年です。西新邑に住みました。死後、衙に埋葬されました。武公、徳公、出子を生みました。
『索隠』からです。憲公は蕩社を滅ぼして新邑に住みました。衙に埋葬されます。
『秦本紀』では、憲公は平陽に遷って住み、西山に埋葬されたとしています。
 

出子は饗国(「享国」と同じ)六年で、西陵に住みました。庶長弗忌、威累、参父の三人が賊を率いて出子を鄙衍で殺害しました。衙に埋葬されます。武公が立ちました。

『索隠』によると、一説では出子は西陂に住みました。衙に埋葬されます。
 
武公は饗国二十年です。平陽封宮(『集解』によると一説では「平封宮」)に住み、宣陽聚東南に埋葬されました。三庶長が罪に伏しました。徳公が立ちます。
『索隠』からです。武公は平陽に埋葬され、初めて人を従死(殉死。殉葬)させました。
 

徳公は享国二年です。雍の大鄭宮に住みました。宣公、成公、繆公を生みます。陽(地名)に埋葬されました。初めて伏三伏を規定し、蠱(悪疫)を防ぎました(東周恵王元年676年参照)

 
宣公は享国十二年です。陽宮に住み、陽に埋葬されました。閏月の記録を始めました。
『索隠』からです。四年に密畤を造りました。
 
成公は享国四年です。雍の宮に住み、陽に埋葬されました。当時、斉が山戎と孤竹を討伐しました。
 
繆公は享国三十九年です。天子が霸者の地位を与えました。雍に埋葬されます。繆公は著人に学びました。繆公は康公を生みました
『索隠』によると「著人」の「著」は「宁」と同義で、宮殿の門と屏の間を「宁」といいます。屏は門を入って正面にある小さい壁で、「照壁」ともいいます。「著人」は「宁門の人」、門の守衛です。
『秦本紀』と『世本(秦嘉謨輯補本)』は繆公の名を任好としています。
 

康公は享国十二年です。雍の高寝に住み、社に埋葬されました。共公を生みました。

『秦本紀』と『世本(秦嘉謨輯補本)』は康公の名を罃としています。
 
共公は享国五年です。雍の高寝に住み、康公の南に埋葬されました。桓公を生みました。

『秦本紀索隠』と『世本(秦嘉謨輯補本)』は共公の名をとしています。

 
桓公は享国二十七年です。雍の太寝に住み、義里丘北に埋葬されました。景公を生みました。
『世本(秦嘉謨輯補本)』は桓公の名を和としています。
 
景公は享国四十年です。雍の高寝に住み、丘里南(『正義』によると、一説では「二里南」)に埋葬されました。畢公を生みました。
『索隠』によると、「景公」は「僖公」とも書きます。
『世本(秦嘉謨輯補本)』は景公の名を后伯車としています。
 
畢公は饗国三十六年です。車里北に埋葬されました。夷公を生みました。
『秦本紀』では、「畢公」は「哀公」になっています。
『正義』によると、畢公の在位年数は、一説では三十七年です。
 
夷公は即位せず死にました。左宮に埋葬されます。恵公を生みました。
 
恵公は享国十年です。車里に埋葬されました。悼公を生みました。
『正義』からです。恵公は十年で死に、車里に埋葬されました。元年に孔子が魯相の政務を代行しました(行魯相事)
 
悼公は享国十五年です。僖公の西に埋葬されました。雍に築城しました。剌龔公を生みました。
『秦本紀』では悼公の在位年数を十四年としています。
 
剌龔公は享国三十四年です。入里(『集解』によると一説では「人里」)に埋葬されました。躁公と懐公を生みました。十年に彗星が現れました。
『正義』と『索隠』によると、「剌龔公」は「利龔公」「厲共公」とも書きます。『秦本紀』も「厲共公」としています。
 
躁公は享国十四年です。受寝に住みました。悼公の南に埋葬されました。元年に彗星が現れました。

『集解』は「年表(『六国年表』)に『星が昼現れる(星昼見)』という記述がある」と注記していますが、中華書局の『史記六国年表』を見ても躁公元年(前442年)には記述がありません。厲共公三十四年(前443年。前年)に「日蝕。昼暗くなる。星が現れる日蝕。昼晦。星見)」と書かれています。

『索隠』によると、「躁公」は「公」とも書きます。

 
懐公は晋から来ました。享国四年です。櫟圉氏(地名?)に埋葬されました。霊公を生みました(下の記述と異なります)。諸臣が懐公を包囲したため、懐公は自殺しました。
 
粛霊公は昭子の子です(『集解』によると、懐公が昭子を生み、昭子が霊公を生みました)。涇陽に住みました。享国十年です。悼公の西に埋葬されました。簡公を生みました。
『世本(秦嘉謨輯補本)』では「粛」がなくて「霊公」としています。『秦本紀』でも「霊公」です。在位年数の十年は『六国年表』『世本』とも同じですが、『秦本紀』は十三年としています。
 
簡公は晋から来ました。享国十五年です。僖公の西に埋葬されました。恵公を生みました。七年に百姓が初めて剣を帯びました。
『索隠』からです。簡公は名を悼子といい、剌龔公の子で懐公の弟に当たります。『秦本紀』も『系本(世本)』もそう書いており、霊公の子とするのは誤りです。『索隠』によると、簡公の在位年数は十六年です。
 
恵公は享国十三年です。陵圉に埋葬されました。出公を生みました。
『索隠』は「簡公の後を敬公が継ぎ、敬公が即位して十三年後に恵公に至った」という説を載せています。『古本竹書紀年』が元になっています。
 
出公は享国二年です。出公は自殺し、雍に埋葬されました。
『世本(秦嘉謨輯補本)』では「出公」を「少主」としています。
 
献公は享国二十三年です。囂圉に埋葬されました。孝公を生みました。
『集解』によると、献公は霊公の子です。
『世本(秦嘉謨輯補本)』では「献公」を「元献公・隰」としており、在位年数は二十二年です。『六国年表』では在位年数二十三年、『秦本紀』では二十四年です。
 
孝公は享国二十四年です。弟圉に埋葬されました。恵文王を生みました。十三年に始めて咸陽を都にしました。
『秦本紀』には「十二年に咸陽を造り、冀闕を築いた」とあります。翌十三年から正式に都になったようです。
『世本(秦嘉謨輯補本)』は孝公の名を渠梁としています。
 
恵文王は饗国二十七年です。公陵に埋葬されました。悼武王を生みました。
『索隠』によると十九歳で即位しました。
『正義』によると、秦恵文王陵は雍州咸陽県の西北十四里の場所にあります。
『世本(秦嘉謨輯補本)』は恵文王の名を駟としており、十九歳で即位して在位年数は二十二年だったと書いています。
 
悼武王は享国四年です。永陵に埋葬されました。
『集解』によると、皇甫謐(『帝王世家』)は畢に埋葬したと書いています。
『世本(秦嘉謨輯補本)』は「悼武王」を「武烈王・蕩」としており、十九歳で即位して在位年数は三年だったと書いています。
『秦本紀』では「武王」としており、在位年数は四年です。
『正義』によると、秦悼武王陵は雍州咸陽県の西十里の場所にあります。俗名を周武王陵といいますが、誤りです。
 
昭襄王(昭王)は享国五十六年です。茞陽に埋葬されました。孝文王を生みました。
『索隠』によると、十九歳で即位して、死後は芷陵に埋葬されました。
『世本(秦嘉謨輯補本)』は昭王の名を側としています。
『秦本紀索隠』は昭襄王の名を則、一名を稷と書いています。
 
孝文王は享国一年です。寿陵に埋葬されました。荘襄王を生みました。
『世本(秦嘉謨輯補本)』によると、孝文王の名は柱といい、五十三歳で即位しました。
 
荘襄王は享国三年です。茞陽に埋葬されました。始皇帝を生み、呂不韋を相にしました。
『正義』によると、秦荘襄王陵は雍州新豊県西南三十五里の場所にあります。始皇陵が北にあるため、「見子陵」ともいいます始皇帝荘襄王の子です)
『世本(秦嘉謨輯補本)』によると、荘襄王の名は子楚といい、三十二歳で即位しました。
 
献公が即位して七年で始めて市を開いて交易を始めました(初行為市)。十年に戸籍を作って五家で伍を編成する制度を始めました(戸籍相伍)
孝公が即位して十六年、桃李が冬に開花しました。
恵文王は生まれて十九年で即位しました。即位して二年、始めて貨幣を発行しました(初行銭)。生まれたばかりの嬰児が「秦が間もなく王になる(秦且王)」と言いました。
悼武王は生まれて十九年で即位しました。即位して三年に渭水が三日間赤くなりました。
昭襄王は生まれて十九年で即位しました。即位して四年に田を拡げて農地の境界を設けました(原文「田開阡陌」。井田制を廃止したことを意味します)
孝文王は生まれて五十三年で即位しました。
荘襄王は生まれて三十二年で即位しました。即位して二年に太原を取りました。

荘襄王は元年に大赦を行い、先王の功臣を厚く遇し、骨肉(親族)に徳厚(仁徳寛厚)を施し、民に恵を与えました。東周が諸侯と共に秦を謀ったため、秦は相国呂不韋に東周を誅滅させ、その国を全て収めました。しかし秦は周の祭祀を絶たず、陽人の地を周君に与えて祭祀を続けさせました。

 
始皇は饗国三十七年です。酈邑に埋葬されました。二世皇帝を生みました。始皇は生まれて十三年で即位しました。
 

二世皇帝は享国三年です。宜春に埋葬されました。趙高が丞相安武侯になりました。二世は生まれて十二年で即位しました。

史記秦始皇本紀』は二十一歳で即位したとしています。
『正義』によると、秦の胡亥陵は雍州万年県南三十四里の場所にあります。黔首(平民)として埋葬されました。
 
以上、秦は襄公から二世に至るまで、六百十歳(年)です(異説あります。本編参照)