秦楚時代30 西楚覇王(四) 項羽の封王 前206年(4)

今回も西楚覇王元年、漢王元年の続きです。
 
[] 『史記項羽本紀』『史記高祖本紀』と『資治通鑑』からです。
項羽が人を送って楚懐王の命を聴きました。
懐王は「約束の通りにせよ(如約)」と答えます。
先に関中に入った沛公劉邦が関中の王になるべきだという意味です。
項羽は懐王が項羽の西進に同意せず、北の趙を援けに行かせたことを怨んでいました。関中入りが遅れたのは懐王のせいだと思っています。
懐王の回答を聞いた項羽は怒ってこう言いました「懐王は我が家の項梁が立てたのだ(『漢書陳勝項籍伝』では「懐王は我が家の武信君(項梁)が立てたのだ」)。彼に功伐(功績)があるわけではない。なぜ一人で約を定めるのだ!天下が初めて難を発した時(挙兵した時)、仮に諸侯の後代を立てて秦を討伐した。しかし身に堅(甲冑)をつけて鋭(武器)を持ち、率先して事を起こして野に身を曝すこと三年、やっと秦を滅ぼして天下を定めたのは、全て将相諸君と籍(私)の力によるものである。懐王には功がない。地を分けて治めさせるのが相応しいだろう(諸侯の長とするのではなく、一地方を治めさせるべきだ)。」
諸将は皆、「その通りです(善)」と言いました。
項羽は自分自身が王になりたかったため、天下を分けて諸将を侯王に立てることにしました。
 
資治通鑑』からです。
春正月、項羽は表面上は懐王を尊んで義帝とし、こう伝えました「古の帝は、地は方千里を治め、必ず上游に住んだものです。」
義帝は江南に遷されることになりました。郴が都です。
 
史記項羽本紀』では「漢之元年(本年)四月」にこう書いています。
項王が関を出て自国(西楚彭城)に入ってから、人を義帝に送ってこう伝えました「古の帝は、地は方千里を治め、必ず上游に住んだものです。」
項羽は更に使者を送って義帝を長沙の郴縣に遷らせました。
項羽が義帝に出発を催促すると、義帝の群臣が徐々に離反していきました。
項羽は秘かに衡山王(呉芮)と臨江王(共敖)に命じて義帝を江中で撃殺させました(再述します)
 
史記秦楚之際月表』を見ると、
本年春正月 諸侯が懐王を尊んで義帝とする。
二月 都を江南の郴に遷す。
翌年十月 項羽が義帝を滅ぼす。
とあり、『史記項羽本紀』とは大きく異なります。『漢書陳勝項籍伝』は『月表』を元に記述を変えています。
資治通鑑』は『秦楚之際月表』と『漢書陳勝項籍伝』に従ったようです。
 
以下、『史記項羽本紀』と『資治通鑑』からです。
二月、項羽が天下を分けて諸将を王に封じました。
項羽自ら西楚霸王に立ちます。梁(魏)楚の地九郡を治め、彭城を都にしました。
資治通鑑』胡三省注は西楚について二つの説を挙げています。一つは、淮水以北の沛汝南南郡を西楚、彭城以東の呉広陵を東楚、衡山九江と江南の長沙豫章を南楚とする説。一つは江陵を南楚、呉を東楚、彭城を西楚とする説で、胡三省は後者が正しいとしています。
項羽は彭城を都にしたかったため、自ら西楚の覇王になりました。
 
項羽と范増は沛公劉邦を疑いました。しかし双方は既に講和しており、関中の王にするという約束を無視するわけにもいきません。信用を失ったら諸侯が離れてしまう恐れがあります。
そこで二人は秘かに謀ってこう言いました「巴蜀の道は険阻で、秦の遷人(移住させられた人)は皆その地に住んでいる。」
項羽は「巴蜀も関中の地である」と宣言して沛公を漢王に立てました。巴漢中を治め、南鄭が都になります。『史記高祖本紀』の注(集解)では劉邦が治める地を三十二県としています。
資治通鑑』胡三省注から漢の地の解説です。巴漢中は秦が置いた三つの郡で、南鄭県は漢中に属します。元々、南鄭と漢中は別の地で、南鄭は古褒国でした。秦が漢中や蜀を取る前に南鄭は秦に占領されました。後に秦が漢中を得てから、南鄭を漢中に属させて一つの郡にしました。
 
なお、『資治通鑑』は劉邦が漢王になったのを二月の事としており、『秦楚之際月表』も二月に「漢王始」と書いていますが、『史記項羽本紀』の注(集解)は「正月」としています。
 
項羽は関中を三分して秦の降将を王に封じました。三王に漢の路劉邦が東に出てくる道)を塞がせます。
章邯が雍王になり、咸陽以西を治めることになりました。都は廃丘です。
資治通鑑』胡三省注によると、廃丘は周代には犬丘とよばれており、西周懿王が都にしました。秦が領有するようになってから、周を廃したいと欲したため、廃丘と改名されました。
 
長史司馬欣はかつて櫟陽獄掾として項梁に恩を施したことがあり、都尉董翳は章邯に楚への投降を勧めた功績がありました。
そこで司馬欣を塞王に封じて咸陽以東から黄河に至る地を治めさせました。都は櫟陽です。
また、董翳を翟王に封じて上郡を治めさせました。都は高奴です。
資治通鑑』胡三省注によると、塞とは長安の桃林塞を指すという説と、河黄河(華山)の堅固な地形(阨塞)を指すとする説があります。
上郡は北に戎や翟と近接していたため、翟が国名になりました。
 
項羽は自ら梁の地を取るため、魏王豹を西魏王に遷しました。河東を治めさせ、平陽を都にします。
 
瑕丘の申陽(申が氏、陽は名。『史記集解』によると一説では「瑕丘公申陽」。または姓が瑕丘で字が申陽は張耳の嬖臣(寵臣)で、河南郡を占領して楚軍を河上で迎えました。
項羽は申陽を河南王に立てました。都は洛陽(雒陽)です。
資治通鑑』胡三省注から洛陽の説明です。洛陽は西周の周公が築きました。これを成周城といいます。秦荘襄王が洛陽県とし、三川守(郡守)の治所にしました。
後に後漢東漢が洛陽を都にしました西漢の都は長安です)。漢は火徳のため、水を嫌って「洛」から「水」を取り、「隹」を加えました。「雒陽」と書きます。漢の後の魏は土徳を称しました。土は水に克つとされており、水を避ける必要がないため、「隹」を「水」に戻して「洛陽」にしました。
 
韓王成は韓国の故都(旧都)をそのまま拠点としました。陽翟が都です。
 
趙将司馬卬は河内の平定においてしばしば功を立てたため、殷王に封じられました。河内を治めて朝歌を都とします。
資治通鑑』胡三省注によると、河内郡朝歌県は旧殷都商王朝の都)だったため、殷が国名になりました。
 
趙王歇を遷して代王にしました。『史記秦楚之際月表』によると代が都です。
趙相張耳は以前から賢人として知られており、項羽に従って入関したため、常山王に立てられました。趙地を治めて襄国を都にします。
 
当陽君黥布は楚将となり、常に冠軍(軍の筆頭)の立場にいました。
項羽は黥布を九江王に立てました。都は六(地名。旧六国)です。
資治通鑑』胡三省注によると、九江は尋陽県南を流れる川で、全て東に流れて大江(長江)に合流します。戦国時代、楚が陳から寿春に都を遷して郢に改名しました。秦は楚を滅ぼしてからその地に九江郡を置きました。
 
番君(または「鄱君」)呉芮は百越(百粤)を率いて諸侯を援け、項羽に従って入関しました、
項羽は呉芮を衡山王に立てました。都は邾(旧邾国)です。
 
義帝(楚懐王)の柱国共敖(共が氏。敖が名)は兵を率いて南郡を攻撃し、多くの功を立てました。
項羽は共敖を臨江王に立てました。都は江陵です。
資治通鑑』胡三省注によると、共は商代の諸侯の国です。晋に左行共華がいました。または鄭の共叔段の後代ともいわれています。
 
燕王韓広を遷して遼東王にしました。都は無終です。
資治通鑑』胡三省注によると、無終はかつて無終子の国でした。無終県は北平郡に属しており、遼東郡ではありません。項羽は韓広の都を無終としましたが、併せて遼東の地を統治させるために遼東王としたようです。
 
燕将臧荼は楚に従って趙を援け、項羽と共に入関しました。
項羽は臧荼を燕王に立てました。都は薊です。
資治通鑑』胡三省注によると、臧氏は魯孝公の子臧僖伯の後代です。
 
斉王巿を遷して膠東王にしました。都は即墨です。
 
斉将田都は楚に従って趙を援け、項羽と共に入関しました。
項羽は田都を斉王に立てました。都は臨菑です。
 
項羽が河を渡って趙を援けた時、田安(斉王建の孫)が済北の数城を攻略し、兵を率いて項羽に降りました。
項羽は田安を済北王に立てました。都は博陽です。
 
田栄はしばしば項梁に逆らい、楚に従って秦を撃とうともしなかったため、王侯に封じられませんでした。
 
成安君陳余も将印を棄てて去り、入関に従わなかったため、封じられませんでした。
しかし多くの客(賓客)項羽にこう言いました「張耳と陳余は趙で一体となって功を立てました。今、張耳を王に立てたのですから、陳余を封じないわけにはいきません。」
項羽はやむなく陳余を探し、南皮にいると知って南皮周辺の三県を封じました。
 
番君の将梅鋗が多くの功を立てたので十万戸侯に封じられました。

西楚と十八王の勢力地図です。
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次回に続きます。