秦楚時代31 西楚覇王(五) 反項羽の動き 前206年(5)
今回も西楚覇王元年、漢王元年の続きです。
周勃、灌嬰、樊噲も劉邦に挙兵を勧めます。
蕭何が漢王を諫めて言いました「漢中の王にされたのは憎むべき事ですが、死よりもひどくはないでしょう。」
漢王が問いました「なぜ死に至る必要があるのだ?」
蕭何が言いました「今、(漢王の)衆は(項羽に)及びません。百戦したら百敗するので、死なないはずがありません。湯(商王朝の成湯)や武(西周武王)は一人の下に屈して万乗の上に伸びることができました。臣は大王が漢中で王となり、民を養って賢人を招き、巴・蜀の財を集めて利用することを願います。その後、東に還って三秦(雍王、翟王、塞王。旧秦の地)を平定すれば、天下を図ることができるでしょう。」
漢王は「善し」と言って国に赴きました。
蕭何を丞相に任命します。
夏四月、諸侯が自軍の兵を率いて解散し、それぞれの国に向かいました。
『史記・項羽本紀』の原文は「漢之元年四月,諸侯罷戲下,各就国」で、「戲下」の解釈によって訳が異なります。「戲下」が「麾下」と同じ意味であるとすると、「諸侯が自軍の兵を解散させた」となり、「戲下」を地名だと解釈したら「諸侯は戲下に集結させた兵を解散してそれぞれの国に赴いた」となります。
張良が襃中まで漢王を送りました。
漢王は張良を韓国に帰らせます。
漢の元年(本年)四月、諸侯が自軍の兵を率いてそれぞれの国に向かいました(上述)。
韓王・成には軍功がなかったため、項王は韓成を韓国に帰らせず、彭城に連れて行きました。そこで王位を廃して侯に落としてから、暫くして殺してしまいました(七月)。
『項羽本紀』『高祖本紀』と『秦楚之際月表』は韓広が無終で殺されたとしていますが、無終は遼東の都です。韓広が燕から出ることを拒否したのなら、燕都・薊で殺されたのではないかと思われます。あるいは、薊で臧荼に対抗して敗れたため無終に遷り、その後で臧荼に滅ぼされたのかもしれません。
怒った田栄は田巿を追撃し、膠東の都・即墨で田巿を殺しました。田栄が自ら斉王に立ちます(六月)。
更に西を攻めて済北王・田安を撃殺しました。こうして田栄が三斉の王となります(七月)。
田栄は彭越に将軍の印を与えて梁の地で楚と対抗させました。
陳余が秘かに張同と夏説を派遣し、斉王・田栄にこう伝えました「項羽が天下を主宰しましたが不公平です(為天下宰不平)。今、故王(旧王)は全て醜地(悪い地)の王にされ、彼の群臣諸将が善い地の王となっています。故主(旧主)の趙王も北の代に住んでおり、このような状況を余(私)は相応しくないと思っています。大王は兵を起こして不義(項羽の命)を拒否したと聞きました。大王が余(私)に兵を貸して常山を撃たせ、趙王を復させることを願います。趙を斉の扞蔽(藩屛。壁)にさせてください。」
斉王は同意して兵を出し、趙に向かわせました。
陳余は旧趙王・歇を代から迎えて趙に帰らせました。趙王は陳余を代王に立てました。
斉の経歴を簡単にまとめます。
もともと斉では旧斉の王族・田儋が王を名乗りました。田儋が章邯に敗れて戦死すると、田儋の弟・田栄が田巿を斉王に立てました。田巿は田儋の子です。
田都はもともと田栄の部下です。章邯が趙を包囲した時、田都は楚に非協力的な田栄の指示を聞かず、勝手に兵を率いて楚陣に参加しました。
その田都が項羽によって斉王に立てられたので、田栄が怒るのも当然のことです。
五月、田都が斉都・臨菑に入ろうとしましたが、田栄が兵を発して撃退しました。田都は楚に逃走します。
田栄は斉王・田巿を臨菑に留めて膠東へ行かせませんでした。
六月、怒った田栄が田巿を追撃し、膠東の都・即墨で田巿を殺しました。
田栄が自ら斉王に立ちます。
当時、彭越が鉅野におり、一万余人の衆を率いていましたが、誰にも帰属していませんでした。
田栄は彭越に将軍の印を与えて済北を攻撃させました。
秋七月、彭越が済北王・田安を殺しました。田安は戦国時代の斉国最後の王・田建の孫です。
田栄は更に彭越を送って楚を撃たせました。
張耳が封国の常山に向かいました。
陳余は秘かに張同と夏説を派遣し、斉王・田栄にこう伝えました「項羽が天下を主宰しましたが不公平です(為天下宰不平)。善い地は全て諸将が王となり、故王(旧王)は醜地(悪い地)に遷されました。今、趙王も北の代に住んでおり、(このような状況を)余は相応しくないと思っています。大王が兵を起こして不義(項羽の命)を拒否したと聞きました。大王が余に兵を貸して常山を撃たせ、趙王を復させることを願います。趙を斉の扞蔽(藩屛。壁)にさせてください。」
斉王は同意して兵を出し、陳余に従わせました。翌年、陳余が張耳を攻めます。
項羽は韓王・成を連れて彭城に入り、王位を廃して穰侯に落としてから、暫くして殺してしまいました。
次回に続きます。