秦楚時代32 西楚覇王(六) 韓信登場 前206年(6)
今回も西楚覇王元年、漢王元年の続きです。
ある日、韓信が城下で釣りをしていました。
漂母が怒って言いました「大丈夫(立派な男)が自ら食べることもできないでいるから、私は王孫(若者)を哀れんで食を進めたのです。報いを望んだのではありません。」
韓信は若者を孰視してから体を屈め、匍匐して股の下をくぐりました。
市中の人々が韓信を嘲笑し、臆病者だと信じました。
韓信は蜀で連敖(楚の官名。客を接待する官)になりましたが、罪を犯して斬首に処されることになりました。同じ罪で裁かれた十三人が処刑されて韓信の番になった時、韓信は頭を挙げて天を仰ぎ見ました。ちょうど滕公・夏侯嬰(夏侯嬰は高祖・劉邦に従って滕令になったため、後に滕公とよばれるようになりました)が目に入ります。そこで韓信が言いました「上(王。劉邦)は天下を得たいと思わないのですか?なぜ壮士を斬るのですか?」
夏侯嬰はこの言葉を奇異に思い、壮健な容貌を見込んで罪を赦しました。
その後、二人で話をして韓信の能力に気がつき、大いに喜んで漢王に報告しました。
漢王が南鄭に入った時、諸将や士卒は皆、東に帰りたいという思いを詩にして歌い、多くが道中で逃亡しました。
蕭何は韓信が逃亡したと聞き、漢王に報告せず自ら後を追いました。
ある人が漢王に言いました「丞相・何(蕭何)が逃亡しました。」
漢王は激怒し、左右の手を失ったかのように動揺しました。
一二日してから蕭何が戻って漢王に謁見しました。
漢王は怒りと喜びを抱き、怒鳴って言いました「汝が逃亡したのはなぜだ!」
蕭何が言いました「臣に逃亡などできません。臣は亡者(逃亡者)を追ったのです。」
漢王が問いました「汝が追ったのは誰だ?」
蕭何が答えました「韓信です。」
蕭何が言いました「諸将は得やすいものですが、信(韓信)のような者は国士無双というべきです。王が長い間、漢中の王でいたいのなら、信を使う場所はありません。しかし天下を争いたいと思うのなら、信でなければ共に事を計れる者はいません。王がどのような決断を選ぶかによります。」
漢王が言いました「わしも東に帰りたいと思っている。どうして鬱鬱としたまま久しくこの地に居られるか。」
蕭何が言いました「東に帰ることを計(方針)とするのなら(信を用いるべきです)、信を用いることができれば信は留まります。信を用いることができなければ、いずれ逃亡してしまいます。」
漢王が言いました「わしは公のために彼を将にしよう。」
蕭何が言いました「たとえ将に任命しても信は留まりません。」
漢王が言いました「それなら大将にしよう。」
蕭何が言いました「喜ばしいことです(幸甚)。」
漢王はすぐに韓信を招いて大将の任務を与えようとしました。
しかし蕭何が言いました「王はかねてから驕慢で礼がありません。今、大将を拝命するにも、小児を呼び出す時の態度と同じです。これだから信は去ってしまうのです。王が彼を大将に任命したいのなら、良日を選び、斎戒を行い、壇場を設けて礼を具えなければなりません。」
漢王は同意しました。
諸将は大将が任命されると聞き、自分にその資格があると信じて喜びました。
ところが大将を拝命したのは無名の韓信だったため、全軍が驚愕しました。
韓信の拝命の儀式を終えてから漢王が席に着きました。
漢王が問いました「丞相(蕭何)がしばしば将軍の話をした。将軍はどのようにして寡人に計策を教えるつもりだ?」
韓信は謙遜してから漢王に問いました「今、東に向かって天下の権を争うとしたら、相手は項王ではありませんか?」
漢王が答えました「そうだ(然)。」
韓信が問いました「大王が自ら量るに、勇悍仁強という点で項王とどちらが優れていますか?」
漢王は久しく黙ってから「(わしは)及ばない」と答えました。
すると韓信は再拝祝賀してこう言いました「信(私)も大王が及ばないと思っています。臣はかつて項王に仕えていたことがあるので、項王の為人について語らせてください。項王が喑悪叱咤(怒気を帯びて叱咤すること)すると、千人が皆廃します(動けなくなります)。ところが項王は賢将を任用することができません。これは単なる匹夫の勇です。項王は人に会うと恭敬慈愛で言語が嘔嘔(温和な様子)としており、人に疾病があったら涙を流して飲食を分け与えます。しかし項王が用いた者が功を立てて爵を封じる時になると、印を手離すことを惜しみ、印の角が摩耗しても与えようとしません。これは婦人の仁というものです。項王は天下に覇を称えて諸侯を臣にしましたが、関中を拠点とせず彭城を都にしました。しかも義帝の約に背き、親愛によって諸侯を王に封じたので公平ではありません。故主(各国の旧主)を逐ってその将相を王に立て、義帝を遷逐して江南に置き、項王が通れば残滅(全滅)しない場所がなく、百姓は親附せず、威強によって脅かしているだけです。名は霸者ですが実は天下の心を失っているので、その強も容易に弱となります。今、もし大王(劉邦)がその道(項羽のやり方)に逆らって進むことができ、天下の武勇を信任すれば、誅滅できない相手はいません。天下の城邑を功臣に封じれば、服さない者はいません。義兵(義に則った軍事)によって東に帰りたがっている士の心に従えば、離散する者はいません(東に帰りたがっている兵を用いて東の敵を撃てば必ず勝てます)。しかも三秦王(章邯、司馬欣、董翳)は秦将として数年にわたって秦の子弟を率いてきましたが、殺亡(殺害・逃亡)した数は数え切れず、後には衆を欺いて諸侯に降りました。新安に至ったら項王が騙して秦の降卒二十余万を阬(生埋め)にし、邯、欣、翳の三人だけが逃げ延びました。秦の父兄はこの三人を怨み、痛みは骨髓に達しています。今、楚は威によって強引にこの三人を王にしましたが、秦の民は愛していません。大王は武関に入ってから秋毫(わずかな物)も害すことなく、秦の苛法を除き、秦の民と三章の法を約束しました(約法三章)。秦民の中で大王が秦の王になることを願わない者はいません。諸侯との約束においては大王が関中の王となるべきであり、関中の民も皆知っています。しかし大王は失職して(封職の約束を破られて)漢中に入りました。秦民でこれを恨んでいない者はいません。今、大王が兵を挙げて東に向かえば、三秦は檄を伝えるだけで平定できます。」
次回に続きます。