秦楚時代32 西楚覇王(六) 韓信登場 前206年(6)

今回も西楚覇王元年、漢王元年の続きです。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
淮陰の人韓信は家が貧しく善行もなかったため(無行)、官吏に選ばれることなく、商賈(商業)で生計を立てることもできず、常に人に頼って飲食を得ており、多くの人から嫌われていました。
ある日、韓信が城下で釣りをしていました。
すると水辺にいた漂母(洗濯をしている老母。または綿絮を洗っている老母)が餓えた韓信の姿を見て食物を与えました。
韓信は喜んで漂母にこう言いました「私は必ず母(あなた)に重く(厚く)報います。」
漂母が怒って言いました「大丈夫(立派な男)が自ら食べることもできないでいるから、私は王孫(若者)を哀れんで食を進めたのです。報いを望んだのではありません。」
 
淮陰に住む屠(屠殺を行う者。身分が低い者)の若者が韓信を罵ってこう言いました「汝は長大(背が高いこと)で刀剣を帯びることを好むが、中情(内心)は怯(臆病)だ。」
若者は大勢の前で韓信を辱めて言いました「信(汝)が死ねるのなら(死を畏れないのなら)わしを刺せ。死ねないのならわしの袴(胯。股)の下をくぐれ!」
韓信は若者を孰視してから体を屈め、匍匐して股の下をくぐりました。
市中の人々が韓信を嘲笑し、臆病者だと信じました。
 
項梁が淮水を渡った時、韓信は剣を持って従いました。しかし韓信は項梁の麾下にいても一向に名が知られません。
項梁が敗れてからは項羽に属しました。項羽韓信を郎中にします。韓信はしばしば項羽に策を与えましたが、項羽韓信を重く用いませんでした。
漢王劉邦が蜀に入ると、韓信は楚から逃げて漢に帰順しました。しかし韓信の名はまだ知られていません。
韓信は蜀で連敖(楚の官名。客を接待する官)になりましたが、罪を犯して斬首に処されることになりました。同じ罪で裁かれた十三人が処刑されて韓信の番になった時、韓信は頭を挙げて天を仰ぎ見ました。ちょうど滕公夏侯嬰(夏侯嬰は高祖劉邦に従って滕令になったため、後に滕公とよばれるようになりました)が目に入ります。そこで韓信が言いました「上(王。劉邦は天下を得たいと思わないのですか?なぜ壮士を斬るのですか?」
夏侯嬰はこの言葉を奇異に思い、壮健な容貌を見込んで罪を赦しました。
その後、二人で話をして韓信の能力に気がつき、大いに喜んで漢王に報告しました。
しかし漢王は韓信を治粟都尉穀物を管理する官)に就けただけで特別視はしませんでした。
 
韓信はしばしば蕭何と話をしました。蕭何も韓信の能力に気がつきます。
漢王が南鄭に入った時、諸将や士卒は皆、東に帰りたいという思いを詩にして歌い、多くが道中で逃亡しました。
蕭何等が何回も漢王に韓信を推薦しても漢王が一向に用いようとしないため、韓信も逃亡してしまいました。
蕭何は韓信が逃亡したと聞き、漢王に報告せず自ら後を追いました。
ある人が漢王に言いました「丞相(蕭何)が逃亡しました。」
漢王は激怒し、左右の手を失ったかのように動揺しました。
 
一二日してから蕭何が戻って漢王に謁見しました。
漢王は怒りと喜びを抱き、怒鳴って言いました「汝が逃亡したのはなぜだ!」
蕭何が言いました「臣に逃亡などできません。臣は亡者(逃亡者)を追ったのです。」
漢王が問いました「汝が追ったのは誰だ?」
蕭何が答えました「韓信です。」
漢王が再び怒鳴って言いました「諸将の亡者は十を数えるのに、公(汝)は誰も追わなかった。信韓信を追ったというのは嘘であろう!」
蕭何が言いました「諸将は得やすいものですが、信韓信のような者は国士無双というべきです。王が長い間、漢中の王でいたいのなら、信を使う場所はありません。しかし天下を争いたいと思うのなら、信でなければ共に事を計れる者はいません。王がどのような決断を選ぶかによります。」
漢王が言いました「わしも東に帰りたいと思っている。どうして鬱鬱としたまま久しくこの地に居られるか。」
蕭何が言いました「東に帰ることを計(方針)とするのなら(信を用いるべきです)、信を用いることができれば信は留まります。信を用いることができなければ、いずれ逃亡してしまいます。」
漢王が言いました「わしは公のために彼を将にしよう。」
蕭何が言いました「たとえ将に任命しても信は留まりません。」
漢王が言いました「それなら大将にしよう。」
蕭何が言いました「喜ばしいことです(幸甚)。」
漢王はすぐに韓信を招いて大将の任務を与えようとしました。
しかし蕭何が言いました「王はかねてから驕慢で礼がありません。今、大将を拝命するにも、小児を呼び出す時の態度と同じです。これだから信は去ってしまうのです。王が彼を大将に任命したいのなら、良日を選び、斎戒を行い、壇場を設けて礼を具えなければなりません。」
漢王は同意しました。
 
諸将は大将が任命されると聞き、自分にその資格があると信じて喜びました。
ところが大将を拝命したのは無名の韓信だったため、全軍が驚愕しました。
 
こうして韓信が大将として漢軍を指揮することになりました。尚、『史記淮陰侯韓信列伝』『漢書韓彭英盧呉伝』『資治通鑑』ともに「大将」ですが、『漢書帝紀』は「大将軍」としています。
 
韓信の拝命の儀式を終えてから漢王が席に着きました。
漢王が問いました「丞相(蕭何)がしばしば将軍の話をした。将軍はどのようにして寡人に計策を教えるつもりだ?」
韓信は謙遜してから漢王に問いました「今、東に向かって天下の権を争うとしたら、相手は項王ではありませんか?」
漢王が答えました「そうだ(然)。」
韓信が問いました「大王が自ら量るに、勇悍仁強という点で項王とどちらが優れていますか?」
漢王は久しく黙ってから「(わしは)及ばない」と答えました。
すると韓信は再拝祝賀してこう言いました「信(私)も大王が及ばないと思っています。臣はかつて項王に仕えていたことがあるので、項王の為人について語らせてください。項王が喑悪叱咤(怒気を帯びて叱咤すること)すると、千人が皆廃します(動けなくなります)。ところが項王は賢将を任用することができません。これは単なる匹夫の勇です。項王は人に会うと恭敬慈愛で言語が嘔嘔(温和な様子)としており、人に疾病があったら涙を流して飲食を分け与えます。しかし項王が用いた者が功を立てて爵を封じる時になると、印を手離すことを惜しみ、印の角が摩耗しても与えようとしません。これは婦人の仁というものです。項王は天下に覇を称えて諸侯を臣にしましたが、関中を拠点とせず彭城を都にしました。しかも義帝の約に背き、親愛によって諸侯を王に封じたので公平ではありません。故主(各国の旧主)を逐ってその将相を王に立て、義帝を遷逐して江南に置き、項王が通れば残滅(全滅)しない場所がなく、百姓は親附せず、威強によって脅かしているだけです。名は霸者ですが実は天下の心を失っているので、その強も容易に弱となります。今、もし大王(劉邦)がその道項羽のやり方)に逆らって進むことができ、天下の武勇を信任すれば、誅滅できない相手はいません。天下の城邑を功臣に封じれば、服さない者はいません。義兵(義に則った軍事)によって東に帰りたがっている士の心に従えば、離散する者はいません(東に帰りたがっている兵を用いて東の敵を撃てば必ず勝てます)。しかも三秦王(章邯、司馬欣、董翳)は秦将として数年にわたって秦の子弟を率いてきましたが、殺亡(殺害逃亡)した数は数え切れず、後には衆を欺いて諸侯に降りました。新安に至ったら項王が騙して秦の降卒二十余万を阬(生埋め)にし、邯、欣、翳の三人だけが逃げ延びました。秦の父兄はこの三人を怨み、痛みは骨髓に達しています。今、楚は威によって強引にこの三人を王にしましたが、秦の民は愛していません。大王は武関に入ってから秋毫(わずかな物)も害すことなく、秦の苛法を除き、秦の民と三章の法を約束しました(約法三章。秦民の中で大王が秦の王になることを願わない者はいません。諸侯との約束においては大王が関中の王となるべきであり、関中の民も皆知っています。しかし大王は失職して(封職の約束を破られて)漢中に入りました。秦民でこれを恨んでいない者はいません。今、大王が兵を挙げて東に向かえば、三秦は檄を伝えるだけで平定できます。」
大喜びした漢王は韓信を得るのが遅すぎたと思いました。韓信の計に従って出撃する諸将の配置を決めます。また、軍に供給する糧食を確保するため、蕭何を留めて巴蜀の租税を徴収するように命じました。
 
 
 
次回に続きます。

秦楚時代33 西楚覇王(七) 劉邦東進 前206年(7)