秦楚時代34 西楚覇王(八) 劉邦の進撃 前205年(1)

今回は西楚覇王二年、漢王二年です。三回に分けます。
 
西楚覇王二年 漢王二年
205年 丙申
 
[] 『資治通鑑』からです。
冬十月(歳首)、項王項羽が秘かに九江王黥布、衡山王呉芮、臨江王共敖に命じて義帝を襲わせ、江中(郴)で殺しました。
 
この事件で事実上、項羽が天下の頂点に立ったことになります。
尚、義帝暗殺を『史記項羽本紀』は前年に書いていますが、『史記秦楚之際月表』『漢書陳勝項籍伝』ともに漢二年(本年)冬十月の事としており、『資治通鑑』もそれに従っています。
 
[] 『資治通鑑』からです(『史記項羽本紀』『史記張耳陳余列伝(巻八十九)』『漢書張耳陳余伝(巻三十二)』は前年に、『秦楚之際月表』『漢書帝紀』『漢書陳勝項籍伝』は本年に書いています。『漢書』の顔師古注は『張耳陳余伝』の誤りとしています)
 
成安君陳余が三県(南皮周辺の封地の兵を総動員し、斉兵と共に常山を襲いました。
常山王張耳は敗れて漢に走り、廃丘で漢王劉邦に謁見しました。漢王は張耳を厚く遇します。
 
陳余は趙王歇を代から迎えて再び趙王に立てました。
趙王は陳余の徳に感謝して代王に立てました。
しかし陳余は趙王の勢力が弱小で国も定まったばかりだったため代国に赴かず、趙国に留まって趙王を補佐しました。
代わりに夏説を代の相国にして代国を守らせました。
 
尚、『史記秦楚之際月表』では、趙王歇が再び即位したのは十月、趙王が陳余を代王にしたのは十二月の事としています。
 
[] 『資治通鑑』からです。
張良が韓から間道を通って漢に戻りました。
漢王劉邦張良を成信侯に封じます。
張良は体が弱くて多病だったため単独で兵を率いたことはなく、画策の臣としていつも漢王の傍にいました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
漢王劉邦が陝県に入りました。関外の父老を按撫します。
 
[] 『資治通鑑』からです。
河南王申陽が漢に降りました。漢王劉邦は国を廃して河南郡を置きました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
漢王劉邦が韓襄王の孫信を韓の太尉に任命し、兵を率いて韓地を攻略させました。
韓信(襄王の孫・韓信。大将軍・韓信とは別人です)は韓王鄭昌がいる陽城を急襲します。
鄭昌は降伏しました。
十一月、漢王が韓信を韓王に立てました。大将軍韓信と区別するため、韓王信と呼ばれます。
韓王信は常に韓兵を指揮して漢王に従いました。
 
韓王信について、『資治通鑑』も『史記韓信盧綰列伝(巻九十三)』も韓襄王の孫としていますが、韓襄王の在位期間は紀元前311年から296年なので、韓王・信が王に封じられた時(前205年)はかなりの歳だったと思われます。あるいは、孫ではなく子孫かもしれません。
 
史記高祖本紀』は劉邦の東進をまとめてこう書いています。
漢王が東進して各地を攻略しました。塞王司馬欣、翟王董翳、河南王申陽が投降します。
しかし韓王鄭昌が従わなかったため、漢王は韓信を派遣して撃破させました。
こうして隴西、北地、上郡、渭南(後の京兆)、河上(馮翊)、中地郡(扶風)が置かれ、関外にも河南郡が置かれました。
韓の太尉韓信が韓王に立てられました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
漢王劉邦が櫟陽(かつては塞王司馬欣の都)に還りました。
漢書帝紀』は「漢王が帰還して櫟を都にした」と書いています。
 
[] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
漢の諸将が各地を攻略して隴西を占領しました。
 
諸将で一万人を率いて帰順した者や一郡を挙げて降った者には万戸を封じました。
また、漢王は河上の塞(『集解』によると、秦代に北方の胡を防ぐために作った要塞。長城)を修築しました。
かつて秦の朝廷が管理していた苑囿や園池は全て解放して人々に開墾させました。
 
[] 『史記項羽本紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、項王項羽が北の城陽に至りました。
資治通鑑』『史記秦楚之際月表』は漢二年(本年)の「春正月」に書いていますが、『史記項羽本紀』は「漢之二年冬」としています。『漢書陳勝項籍伝』は月を明記していません。
 
斉王田栄が楚軍と戦いましたが、敗れて平原に走りました。田栄は平原の民に殺されてしまいます。
項王は再び田假(斉王建の弟。楚に亡命していました)を斉王に立てました。
 
項王は斉地を攻略しながら北進して北海に至りました。途中で城郭や室屋を焼き払い、田栄の降卒を坑しました(生埋めにしました)。斉国の老弱な者や婦女は全て奪われます。楚軍が通った場所の多くが残滅(全滅、破壊)されたため、斉民は集まって楚に対抗するようになりました。
 
尚、『史記秦楚之際月表』では、項籍項羽が田假を斉王に立てたのを二月の事としています。
 
[] 『史記高祖本紀』と『資治通鑑』からです。
漢将が北地を攻略し、雍王章邯の弟章平を捕らえました。
 
資治通鑑』にはありませんが、『史記高祖本紀』『漢書帝紀』によるとこの時、罪人に大赦を行いました。
 
[十一] 『史記高祖本紀』からです。
二月(『漢書帝紀』によると「二月癸未」)、漢王が秦の社稷を除くように命じ、改めて漢の社稷を立てました。
 
漢書帝紀』はこの後に漢王劉邦の施政を追記しています。
漢王は恩徳を施して民に爵位を下賜しました。蜀漢の民は軍事物資の供給で労苦しているので、二年の租税を免除します。また、関中の士卒で従軍している者も一年の家賦を免除しました。
五十歳以上の民で脩行があって(品行が正しく声望があって)大衆を善く率いることができる者を三老としました。郷に一人置かれます。更に郷の三老から一人を選んで県三老とし、県令県丞県尉と共に政治を協議させ、繇戍(徭役)を免除しました。

十月を民に酒肉を下賜する月にしました。

[十二] 『史記高祖本紀』と『資治通鑑』からです。
三月、漢王劉邦が臨晋から黄河を渡りました。
魏王豹が投降し、兵を率いて漢王に従いました。
 
漢軍は河内を攻略して殷王司馬卬を捕え、河内郡を置きました。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
陽武の人陳平は家が貧しかったものの読書を愛しました。
里中(郷里)の社(土地神の社)で祭祀を行った時、陳平が祭祀の肉をさばいて均等に分配しました。
それを見て父老が言いました「陳孺子の宰(さばき。主宰)はすばらしい(善,陳孺子之為宰)。」
すると陳平はこう言いました「ああ(嗟乎)、もし平(私)が天下をさばくことができたら(宰天下)、肉と同じようにできるでしょう(公平で合理的に天下を治めることができます)。」
諸侯が秦に叛して挙兵すると、陳平は臨済で魏王咎に仕えて太僕になりました。『資治通鑑』胡三省注によると太僕は秦の官で輿馬(車馬)を管理しました。
陳平はしばしば魏王に策を献じましたが、魏王は採用しませんでした。
やがて、陳平を讒言する者が現れたため、陳平は魏から逃亡しました。
その後、項羽に仕えて卿と同格の爵位が与えられます。『資治通鑑』胡三省注によると、卿と同等の礼秩が与えられただけで実務の権限はなかったようです。
 
殷王司馬卬が楚に背いた時(『史記陳丞相世家』によると、劉邦が三秦を平定して東に向かった時に殷王は楚に背いたようです)項羽は陳平に殷王を撃たせて降しました。
戻った陳平は都尉に任命され、金二十鎰が下賜されます。
しかしすぐに漢王が殷を攻略しました。
項王は怒って殷を平定してきた将吏を殺そうとしました。懼れた陳平は下賜された金や官印に封をしてから使者を送って項王に返し、自身は間道から去りました。剣を持って逃走し、黄河を渡って脩武で漢王に帰順します。
陳平は魏無知を通じて漢王に謁見を求めました。漢王は陳平を招き入れると食事を与えて館舍に帰らせようとします。しかし陳平はこう言いました「臣は事を為すために来ました。言うべきことは今日を逃してはなりません(今話す必要があります)。」
漢王は陳平と談話してその能力に気がつき、とても喜びました。
漢王が問いました「子(汝)が楚にいた時の官は何だ?」
陳平が答えました「都尉になりました。」
その日、漢王は陳平を都尉に任命し、参乗(車に同乗すること)と典護軍(諸将の監督)を命じました。
それを聞いた諸将が不満を抱き、「大王は楚の亡卒(逃亡兵)を得て一日しか経っておらず、能力の高下(高低)も分からないのに、同載(同乗)を命じて長者(旧将、老将)を監護(監督)させた」と言って騒ぎ始めました。
しかし漢王は諸将の不満の声を聞いてもますます陳平を信任しました。
 
[十四] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
漢王劉邦が南下して平陰津で黄河を渡り、洛陽新城に至りました。
そこで三老の董公が漢王を遮りました。
資治通鑑』胡三省注によると、十里ごとに一亭を置いて亭長が管理し、十亭ごとに一郷を置いて三老が民衆を敎化しました。秦の制度です(漢も三老を置いたことは二月に書きました)
董公が漢王に言いました「臣は『徳に順じる者は栄え、徳に逆らう者は亡ぶ(順徳者昌,逆徳者亡)』と聞いています。また、『出兵に名分が無ければ事は成せない(兵出無名,事故不成)』とも聞いています。だから『相手が賊であることを明らかにすれば、敵を屈服させることができる(明其為賊,敵乃可服)』と言われているのです。項羽は無道を行い、その主(義帝)を放逐して殺しました。彼は天下の賊です。仁とは勇に頼らず、義とは力に頼らないものです(原文「仁不以勇,義不以力」。仁義があれば天下が服すので、勇力は必要ないという意味です)。大王は三軍の衆を率いて素服(喪服)に着替え、諸侯に項羽の罪を)宣言してから東伐するべきです。そうすれば四海の内で(漢王の)徳を仰がない者はいなくなります。これは三王(夏周三代の王)の挙というものです。」
漢王は「素晴らしい(善)。夫子(先生)がいなかったら、このような意見を聞くことはできませんでした」と言って義帝のために喪を発しました。袒(肩を出すこと)して大哭し、全軍が三日に渡って哀哭します。
その後、諸侯に使者を送ってこう伝えました「天下が共に義帝を立てて、北面して仕えた。しかし今、項羽は義帝を江南に放って弑殺した。大逆無道である。寡人は自ら喪を発し、兵(『漢書帝紀』が「兵」。『史記高祖本紀』では「諸侯」。『漢書』の方が意味が通ります)は皆、縞素(喪服)を身につけている。寡人は関中の兵をことごとく発して三河(河南、河東、河内)の士を収め、江(長江漢水に沿って南下する(『資治通鑑』胡三省注によると、三河の兵が北から彭城を攻め、南の長江漢水からも兵を進めて挟撃するという意味)諸侯王に従って楚の義帝を殺した者を撃ちたいと願う。」
 
使者が趙に入ると陳余は「漢が張耳を殺したら従おう」と答えました。
漢王は張耳に似た者を斬ってその頭を陳余に送ります。
陳余は兵を出して漢を助けました。
 
 
 
次回に続きます。

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