秦楚時代34 西楚覇王(八) 劉邦の進撃 前205年(1)
今回は西楚覇王二年、漢王二年です。三回に分けます。
西楚覇王二年 漢王二年
前205年 丙申
この事件で事実上、項羽が天下の頂点に立ったことになります。
[二] 『資治通鑑』からです(『史記・項羽本紀』『史記・張耳陳余列伝(巻八十九)』『漢書・張耳陳余伝(巻三十二)』は前年に、『秦楚之際月表』『漢書・高帝紀』『漢書・陳勝項籍伝』は本年に書いています。『漢書』の顔師古注は『張耳陳余伝』の誤りとしています)。
陳余は趙王・歇を代から迎えて再び趙王に立てました。
趙王は陳余の徳に感謝して代王に立てました。
しかし陳余は趙王の勢力が弱小で国も定まったばかりだったため代国に赴かず、趙国に留まって趙王を補佐しました。
代わりに夏説を代の相国にして代国を守らせました。
張良が韓から間道を通って漢に戻りました。
張良は体が弱くて多病だったため単独で兵を率いたことはなく、画策の臣としていつも漢王の傍にいました。
鄭昌は降伏しました。
韓王・信は常に韓兵を指揮して漢王に従いました。
韓王・信について、『資治通鑑』も『史記・韓信盧綰列伝(巻九十三)』も韓襄王の孫としていますが、韓襄王の在位期間は紀元前311年から296年なので、韓王・信が王に封じられた時(前205年)はかなりの歳だったと思われます。あるいは、孫ではなく子孫かもしれません。
漢王が東進して各地を攻略しました。塞王・司馬欣、翟王・董翳、河南王・申陽が投降します。
こうして隴西、北地、上郡、渭南(後の京兆)、河上(馮翊)、中地郡(扶風)が置かれ、関外にも河南郡が置かれました。
漢の諸将が各地を攻略して隴西を占領しました。
諸将で一万人を率いて帰順した者や一郡を挙げて降った者には万戸を封じました。
また、漢王は河上の塞(『集解』によると、秦代に北方の胡を防ぐために作った要塞。長城)を修築しました。
かつて秦の朝廷が管理していた苑囿や園池は全て解放して人々に開墾させました。
斉王・田栄が楚軍と戦いましたが、敗れて平原に走りました。田栄は平原の民に殺されてしまいます。
項王は再び田假(斉王・建の弟。楚に亡命していました)を斉王に立てました。
項王は斉地を攻略しながら北進して北海に至りました。途中で城郭や室屋を焼き払い、田栄の降卒を坑しました(生埋めにしました)。斉国の老弱な者や婦女は全て奪われます。楚軍が通った場所の多くが残滅(全滅、破壊)されたため、斉民は集まって楚に対抗するようになりました。
漢将が北地を攻略し、雍王・章邯の弟・章平を捕らえました。
五十歳以上の民で脩行があって(品行が正しく声望があって)大衆を善く率いることができる者を三老としました。郷に一人置かれます。更に郷の三老から一人を選んで県三老とし、県令・県丞・県尉と共に政治を協議させ、繇戍(徭役)を免除しました。
十月を民に酒肉を下賜する月にしました。
魏王・豹が投降し、兵を率いて漢王に従いました。
漢軍は河内を攻略して殷王・司馬卬を捕え、河内郡を置きました。
陽武の人・陳平は家が貧しかったものの読書を愛しました。
里中(郷里)の社(土地神の社)で祭祀を行った時、陳平が祭祀の肉をさばいて均等に分配しました。
それを見て父老が言いました「陳孺子の宰(さばき。主宰)はすばらしい(善,陳孺子之為宰)。」
すると陳平はこう言いました「ああ(嗟乎)、もし平(私)が天下をさばくことができたら(宰天下)、肉と同じようにできるでしょう(公平で合理的に天下を治めることができます)。」
陳平はしばしば魏王に策を献じましたが、魏王は採用しませんでした。
やがて、陳平を讒言する者が現れたため、陳平は魏から逃亡しました。
戻った陳平は都尉に任命され、金二十鎰が下賜されます。
しかしすぐに漢王が殷を攻略しました。
項王は怒って殷を平定してきた将吏を殺そうとしました。懼れた陳平は下賜された金や官印に封をしてから使者を送って項王に返し、自身は間道から去りました。剣を持って逃走し、黄河を渡って脩武で漢王に帰順します。
陳平は魏無知を通じて漢王に謁見を求めました。漢王は陳平を招き入れると食事を与えて館舍に帰らせようとします。しかし陳平はこう言いました「臣は事を為すために来ました。言うべきことは今日を逃してはなりません(今話す必要があります)。」
漢王は陳平と談話してその能力に気がつき、とても喜びました。
漢王が問いました「子(汝)が楚にいた時の官は何だ?」
陳平が答えました「都尉になりました。」
その日、漢王は陳平を都尉に任命し、参乗(車に同乗すること)と典護軍(諸将の監督)を命じました。
それを聞いた諸将が不満を抱き、「大王は楚の亡卒(逃亡兵)を得て一日しか経っておらず、能力の高下(高低)も分からないのに、同載(同乗)を命じて長者(旧将、老将)を監護(監督)させた」と言って騒ぎ始めました。
しかし漢王は諸将の不満の声を聞いてもますます陳平を信任しました。
そこで三老の董公が漢王を遮りました。
董公が漢王に言いました「臣は『徳に順じる者は栄え、徳に逆らう者は亡ぶ(順徳者昌,逆徳者亡)』と聞いています。また、『出兵に名分が無ければ事は成せない(兵出無名,事故不成)』とも聞いています。だから『相手が賊であることを明らかにすれば、敵を屈服させることができる(明其為賊,敵乃可服)』と言われているのです。項羽は無道を行い、その主(義帝)を放逐して殺しました。彼は天下の賊です。仁とは勇に頼らず、義とは力に頼らないものです(原文「仁不以勇,義不以力」。仁義があれば天下が服すので、勇力は必要ないという意味です)。大王は三軍の衆を率いて素服(喪服)に着替え、諸侯に(項羽の罪を)宣言してから東伐するべきです。そうすれば四海の内で(漢王の)徳を仰がない者はいなくなります。これは三王(夏・商・周三代の王)の挙というものです。」
漢王は「素晴らしい(善)。夫子(先生)がいなかったら、このような意見を聞くことはできませんでした」と言って義帝のために喪を発しました。袒(肩を出すこと)して大哭し、全軍が三日に渡って哀哭します。
その後、諸侯に使者を送ってこう伝えました「天下が共に義帝を立てて、北面して仕えた。しかし今、項羽は義帝を江南に放って弑殺した。大逆無道である。寡人は自ら喪を発し、兵(『漢書・高帝紀』が「兵」。『史記・高祖本紀』では「諸侯」。『漢書』の方が意味が通ります)は皆、縞素(喪服)を身につけている。寡人は関中の兵をことごとく発して三河(河南、河東、河内)の士を収め、江・漢(長江・漢水)に沿って南下する(『資治通鑑』胡三省注によると、三河の兵が北から彭城を攻め、南の長江・漢水からも兵を進めて挟撃するという意味)。諸侯王に従って楚の義帝を殺した者を撃ちたいと願う。」
使者が趙に入ると陳余は「漢が張耳を殺したら従おう」と答えました。
漢王は張耳に似た者を斬ってその頭を陳余に送ります。
陳余は兵を出して漢を助けました。
次回に続きます。