秦楚時代35 西楚覇王(九) 彭城の戦い 前205年(2)
今回は西楚覇王二年、漢王二年の続きです。
夏四月、田横が田栄の子・田広を斉王に立てて楚に対抗しました。
その間に漢軍が東進していると聞きましたが、すでに斉と戦っているため、まずは斉を破ってから漢を撃つことにしました。
この時の事を『史記・項羽本紀』は「漢王が五諸侯の兵五十六万人を率いて東の楚を討伐した(漢王部五諸侯兵,凡五十六万人,東伐楚)」と書いており、『漢書・陳勝項籍伝』も「漢王が五諸侯の兵五十六万人を強制して東の楚を討伐した(漢王劫五諸侯兵,凡五十六万人,東伐楚)」としています。「五諸侯の兵」は『史記・高祖本紀』『漢書・高帝紀』にもそれぞれ記述がありますが、『資治通鑑』は省略しています。
『集解』は「塞、翟、魏、殷、河南」とする説と「雍、翟、塞、殷、韓」とする説を載せています。
『索隠』は『漢書』の顔師古注から三秦を入れずに常山、河南、韓、魏、殷とする説と、陳余の兵を入れる説を紹介していますが、韓王・鄭昌が韓信に敗れた時、韓兵は離散したため、五諸侯の兵に韓兵を含むのは誤りであり、「塞、翟、河南、魏、殷」が正しいと書いています。
『正義』は、五諸侯とは関東の諸侯であり、「常山、河南、韓、魏、殷」が正しいとしています。これまでに常山王・張耳、河南王・申陽、韓王・鄭昌、魏王・豹降が降り、殷王・司馬卬が捕虜になりました。
また、上述の劉邦の言葉に「三河の士を収め」とありました。三河とは河南、河東、河内を指します。申陽の都・雒陽と韓王の都は陽翟で河南にあります。魏豹の都は平陽で河東です。司馬卬の都・朝歌と張耳の都・襄国は河内です。よって上述の「三河の士」が「五諸侯の兵」に当たると考えられます。
漢王が外黄に至った時、彭越が兵三万余人を率いて漢に帰順しました。
漢王は彭越を魏の相国に任命し、自由に兵を率いて梁地を攻略するように命じました。
漢王自身は楚都・彭城に入って貨宝や美人を奪い、日々酒宴を開きます。
彭城が占領されたと聞いた項王は諸将に斉攻撃を命じると、自ら精兵三万を率いて南下し、魯県(旧魯国)から胡陵を出て蕭県に至りました。
早朝、漢軍を襲って東に進み、彭城に至ります。
正午、漢軍を大破しました。
漢軍は皆敗走し、次々に穀水と泗水に入っていきました。死者が十余万人を数えます。
漢の士卒は全て南の山中に逃走しました。
楚軍は追撃を続けて霊璧東の睢水に至ります。
漢軍は退却しましたが、楚軍に圧迫されて十余万の士卒が睢水に入りました。そのため川の水が流れなくなったほどです。
楚軍は漢王を三重に包囲しました。
その時突然、大風が西北から吹きました。木が倒れて家屋が倒壊し、沙石を舞い上げて昼間なのに夜のように暗くします。大風を迎えた楚軍は大混乱に陥って壊散しました。
漢王はその隙に数十騎を率いて遁走しました。
途中で沛に寄って家室(家族)を迎えようとしましたが、楚も沛に人を送って漢王の家族を捕えようとしていたため、既に家族は逃亡しており、漢王と再会できませんでした。
漢王は二人を馬車に乗せて進みました。
ところが楚の騎兵が追ってきました。
危急に陥った漢王は二人の子を押して車の下に落としました。
太僕(車馬を管理する官)を勤める滕公・夏侯嬰がそれを見てすぐに二人の子を助けて車に乗せました。
同じことが三回繰り返されると、夏侯嬰が言いました「今は危急の時ですが、追い払うわけにはいきません(二子を棄てるわけにはいきません。原文「雖急不可以驅」)。(二子を)棄ててどうするのですか!」
夏侯嬰は敢えてゆっくり進みました。
漢王は怒って十余回も夏侯嬰を殺そうとしましたが、結局、夏侯嬰が二人の子を守って危機から脱しました。
楚軍は太公や呂后等を楚営に連れて帰ります。
項王は人質として軍中に置きました。
漢王は間道から下邑に向かって呂沢と合流してから徐々に離散した士卒を集めました。
諸侯は大敗した漢から離れて再び楚に附きました。
塞王・司馬欣と翟王・董翳は逃亡して楚に降りました。
彭城の戦いの地図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
田假は楚に走りましたが、楚に殺されました。
こうして田横が再び三斉の地を平定しました。
張良が言いました「九江王・布(黥布)は楚の梟将(勇将)ですが項王と隙(対立)があります。彭越も斉と共に梁地で楚に反しました。この二人はすぐに使えます。漢王の将においては、韓信だけが大事を任せて一面に当てることができます。関東を与えたいのなら、この三人に与えれば楚を破ることができます。」
漢軍が楚の彭城を破った時も、黥布は病と称して楚を助けませんでした。
そのため楚王は黥布を怨むようになり、しばしば使者を送って譴責し、黥布を呼び出しました。ところが黥布はますます恐れて会いに行こうとしません。
当時の項王は北は斉・趙を憂い、西は漢を患っており、九江王だけが味方でした。しかも黥布の才能を尊重しており、関係を親密にして用いたいと思っていたため、たとえ不満が積もっても黥布を攻撃することはありませんでした。
漢王は下邑から軍を碭に遷し、更に梁地を越えて西の虞県(旧虞国)に至りました。
漢王が左右の者に言いました「汝等のような者では天下の事を計るに足りない。」
謁者・隨何が進み出て問いました「陛下の発言の意図が分かりません。」
漢王が言いました「誰かわしのために九江に使いし、九江の兵を発して楚に背かせることができないか。項王の足を数カ月留められれば、わしが天下を取るには充分だ。」
隨何が言いました「臣が使者になることを請います。」
漢王は隨何を使者にして二十人と共に九江に向かわせました。
『史記・高祖本紀』はここで「隨何が九江王・黥布を説得に行くと、黥布は楚に背いた。楚は龍且に黥布を攻撃させた」と書いており、年末に「当時、九江王・黥布が龍且と戦ったが勝てず、隨何と共に間道を通って漢に帰順した」としていますが、『史記・秦楚之際月表』『資治通鑑』とも黥布が項羽に背くのは翌年(漢三年)の事としています。また、『史記・黥布列伝(巻九十一)』は隨何を派遣したのも翌年としています(本年は漢二年です)。
次回に続きます。