秦楚時代36 西楚覇王(十) 劉邦再起 前205年(3)
今回で西楚覇王二年、漢王二年が終わります。
五月、漢王・劉邦が滎陽に至りました。
敗戦した諸軍が全て合流します。
蕭何も関中の老弱未傅の者(服役の義務から外れている老人や未成年者)を全て動員して滎陽に送りました。
漢軍が再び指揮を盛り返します。
『資治通鑑』胡三省注から「老弱未傅」の解説です。古代は二十歳で姓名が登記され、三年間農耕に従事して蓄えを作ってから、二十三歳で服役しました。但し身長六尺二寸以下の者は罷癃(障碍者)とみなされます。五十六歳で服役を免除され、庶民として田里に帰りました。ここでいう老弱未傅の者とは二十歳未満の者と、五十六歳を過ぎた者を指します。
楚軍は彭城を拠点にして兵を出し、勝ちに乗じて敗北した漢軍を追撃しました。滎陽南の京県と索(索亭)の間で漢軍と交戦します。
楚の騎兵が多数押し寄せて来ました。
漢王が軍中で騎将の能力がある者を探すと、諸将は秦の騎士だった重泉の人・李必と駱甲を推薦しました。
漢王は灌嬰を中大夫令に任命し、李必と駱甲を左・右校尉にしました。
三人は騎兵を率いて滎陽東で楚の騎兵を撃ち、大勝します。
楚は滎陽を越えて西に進むことができなくなりました。
楚と漢は滎陽を挟んで対峙することになります。
周勃、灌嬰等が漢王・劉邦に言いました「陳平は冠玉(冠を装飾する玉)のように美しい外貌をもっていますが、中身があるとは限りません。臣が聞いたところでは、平(陳平)は家にいた時、嫂を盗みました(嫂と私通しました)。魏に仕えても容れられず、楚に逃亡しても重用されず、また漢に逃げて来ました。今日、大王は尊官を与えて護軍としましたが、臣が聞くところによると、平は諸将から金を取っており、金が多い者は善処を得られ、金が少い者は悪処を得ているそうです。平は反覆の乱臣です。王が察することを願います。」
漢王は陳平を疑って紹介した魏無知を招きました。
譴責された魏無知はこう言いました「臣が語るのは能(能力)です。陛下が問うているのは行(行動。品行)です。今、尾生(孔子の弟子・微生高。または古の信士)や孝己(商高宗の子。孝行で名が知られています)がいても、勝負の数(命運)に対しては無益です。陛下はどこに暇があってそのような者を用いるというのですか。楚と漢が対抗しているので、臣は奇謀の士を進めました。その計が国家を利するに足りるかどうかを顧みただけです。盗嫂、受金(賄賂)を疑う必要がありますか。」
漢王は陳平を招いて直接譴責しました「先生は魏に仕えて重用されず、楚に仕えても去り、今またわしに仕えて周遊しているが、信を守る者とは多心なのか?」
陳平が言いました「臣は魏王に仕えましたが、魏王には臣の説(意見)を用いることができなかったので魏を去って項王に仕えました。しかし項王は人を信用できず、任愛しているのは諸項(項羽の親族)でなければ妻の昆弟(兄弟)に限られており、奇士がいても用いることができませんでした。漢王は人を用いることができると聞いたから、大王に帰順したのです。臣は躶身(裸)で来たので金を受け取らなければ資(資本。資金)ができませんでした。臣の計画(計策)が実際に採用するべきものであるのなら、大王に用いられることを願います。採用するに足りないのなら、金は全てそろっているので、封をして官に送り、引退することを請います(請骸骨)。」
漢王は陳平に謝罪して厚く賞賜を与えました。更に護軍中尉に任命して諸将を監督させます。
諸将は敢えて再び意見しなくなりました。
漢軍が廃邱の章邯を包囲していました。
漢兵は水を引いて廃丘に注ぎます。廃丘は投降し、章邯は自殺しました。
漢軍が雍地を平定し、中地郡、北地郡、隴西郡を置きました。廃丘は槐里に改名されました。
また、関内の士卒を動員して塞(営塞)を守らせました。
関中を大飢饉が襲いました。米一斛が万銭に高騰します。
漢王は関中の民に蜀・漢の地で食を求めるように命じました。
秦が滅亡したばかりの頃、豪桀(豪強富豪)が争って金玉を奪い合いましたが、宣曲の任氏だけは穴倉を造って食糧を貯えました。
楚と漢が滎陽で対峙すると、民が農耕ができなくなり、飢饉を招きました。
豪桀は金玉を任氏に贈って食糧と交換するようになります。
任氏はここから興隆し、数代にわたって富を有しました。
蕭何を太子に侍らせて関中(櫟陽)の守りを命じました。また、諸侯の子で関中にいる者を全て櫟陽に集めて守らせました。
漢王の決定を仰いでいる余裕がない場合は蕭何の判断で臨機応変に実行し、漢王が来てから事後報告します。
関中の戸口を把握し、漢軍に対する転漕(物資の輸送)、調兵(兵の調達)を欠かしたことがありませんでした。
酈食其は魏に入って魏王・豹を招きました。
しかし魏王・豹は拒否してこう言いました「漢王は傲慢で人を侮っており、諸侯や群臣に対して奴隷を罵るように罵詈している。わしには再び会うことなどできない。」
漢王は韓信を左丞相に任命し、灌嬰、曹参と共に魏を攻撃させました。
漢王が酈食其に問いました「魏の大将は誰ですか?」
酈食其が答えました「柏直です。」
漢王がまた問いました「騎将は誰ですか?」
酈食其が答えました「馮敬です。」
漢王が言いました「彼は秦将・馮無擇の子だ。賢才だが灌嬰に当たることはできない。」
漢王がまた問いました「歩卒の将は誰ですか?」
酈食其が答えました「項它です。」
漢王が言いました「曹参に当たることはできない。わしに憂患はない。」
韓信も酈生に問いました「魏は周叔を大将にしないのですか?」
酈生が答えました「柏直です。」
魏王は蒲坂に大軍を置いて臨晋を塞ぎました。
韓信は疑兵を増やして船を並べ、臨晋から渡河する姿を見せます。しかし一方で伏兵を送り、夏陽から木罌(罌は口が小さくて胴が大きい甕。木罌は甕の上に木を縛って作った筏)で渡河させました。漢軍が安邑を襲います。
漢軍が魏地を全て攻略して河東郡、上党郡、太原郡を置きました。
漢軍が彭城で敗れて西に帰った時、張耳が殺されていないことに陳余が気づきました。陳余は漢に背きます。
魏を平定した韓信は人を送って兵三万を請いました。北は燕、趙を占領し、東は斉を撃ち、南は楚の糧道を断つことを願います。
漢王はこれに同意して張耳を派遣しました。
この時、代国は相・夏説が守っており、代王・陳余は趙の政治を助けていました。
尚、『史記・淮陰侯(韓信)列伝(巻九十二)』は「夏説を捕えた(禽夏説)」としており、『資治通鑑』もそれに従っていますが、『史記・曹相国世家(巻五十四)』には「夏説を斬った(斬夏説)」とあります。あるいは、この「禽」は「斬」と同じ意味かもしれません。
次回に続きます。