秦楚時代37 西楚覇王(十一) 背水の陣 前204年(1)
今回は西楚覇王三年、漢王三年です。四回に分けます。
西楚覇王三年 漢王三年
前204年 丁酉
それを聞いた趙王・歇と成安君(代王)・陳余は井陘口に兵を集めました。二十万と号します。
広武君・李左車が成安君・陳余に言いました「韓信と張耳は勝ちに乗じており(前年、代を破って夏説を捕らえました)、国を去って遠征して来ました。その鋒(勢い)に当たるべきではありません。臣は『食糧を千里運んだら士に飢色が現れる。薪や草を取って食事を準備したら、軍は腹一杯になれない(千里餽糧,士有飢色。樵蘇後爨,師不宿飽)』と聞いています。今、井陘の道は、車は方軌(並走)できず、騎は列を成せず、行軍したら数百里に及ぶことになります。このような形勢なので、糧食は必ず後ろにあります。臣に奇兵三万人をお貸しください。間路から輜重を絶ちます。足下は溝を深く塁を高くして戦わないでください。そうすれば彼等は前に進んでも戦えず、後ろに退きたくても還れなくなり、野には奪う物もないので、十日も経たずに両将(韓信と張耳)の頭が麾下(旗下)に至ることになります。そうしなければ逆に二子の禽(擒)になるでしょう。」
韓信は秘かに人を送って状況を探っていました。陳余が李左車の策を用いなかったと知って大喜びし、兵を率いて直進します。
漢軍は井陘口から三十里離れた場所で駐軍しました。
夜半、韓信が伝令を発して軽騎二千人を選びました。一人一人が一本の赤幟を手に持ちます。赤は漢の旗幟の色です。
二千騎を間道から送って山上に隠し、趙軍の様子を伺わせてこう命じました「趙軍は我々が走るのを見たら必ず壁(営塁)を空にして我々を追うはずだ。その時、汝等は速やかに趙壁に入り、趙幟(趙の旗)を抜いて漢の赤幟を立てよ。」
諸将は簡単に趙軍を破れるとは思いませんでしたが、応じるふりをして「わかりました(諾)」と答えました。
韓信が言いました「趙は先に便地(有利な地)を占拠して壁(営塁)を築いている。彼等は我が大将の旗鼓を見つけなければ、我々の前行(先行部隊)を撃とうとはしないはずだ。彼等は我々が険阻な地で前を塞がれて引き還すことを恐れている。」
『資治通鑑』胡三省注を元に解説すると、趙が井陘の口を塞いだのは韓信が険阻な道を通って出て来たところを攻撃するためです。もし韓信の先行部隊を攻撃したら、韓信は険阻な道が塞がれていると判断して引き返してしまう恐れがあります。一方の韓信は趙軍の考えを見通して趙が先行部隊を攻撃することはないと判断しました。
これを背水の陣といいます。本来、川を背にした陣は退却が困難で動きが制限されるため、兵法では避けるべきものとされています。
趙軍は韓信の陣を眺め見て大笑いしました。
趙軍は韓信の大将旗を見て、塁壁を開いて迎撃しました。
趙軍は営壁を空にして漢軍の旗鼓を奪い、韓信と張耳を追撃しました。
しかし韓信と張耳が川辺の軍営に入ってから全ての漢兵が死戦したため、趙軍はなかなか攻略できません。
その間、韓信が出した奇兵二千騎は趙の陣営が空になるのを待っていました。趙軍が全て出撃したのを見届けて、一斉に趙の営壁に駆け入ります。二千騎が趙の旗を抜いて漢の赤幟二千本を立てました。
韓信を破ることができないと判断した趙軍は営壁に還ろうとしましたが、一面に漢の赤幟が立っています。驚いた趙軍は漢軍が既に趙王の将領を捕えたと思いました。兵達が混乱して遁走を始めます。趙将が逃げる兵を斬って制止しようとしましたが、止められませんでした。
漢兵は趙軍を挟撃して大破し、陳余を泜水(井陘山水)の辺で斬り、趙王・歇を捕らえました。
諸将が趙軍の首や捕虜を献上して戦勝の祝賀を終えてから、韓信に問いました「兵法では『右側と背面に山陵を置き、前方と左側に水沢を置け(右倍山陵,前左水沢)』と言います。しかし今回、将軍は臣等に水を背にした陣を布かせて『趙を破ってから会食しよう』と言いました。そのため臣等は不服でしたが、図らずも勝利しました。これな何の術ですか(どのような戦術ですか)?」
韓信が言いました「これも兵法にあるが、諸君は察していないようだ。兵法はこうとも言っているではないか『死地に陥ってから生となり、亡地に置いてから存続する(陷之死地而後生,置之亡地而後存)』。そもそも信(私)が得たのはかねてから拊循(訓練)した士大夫ではない。まるで『市人を駆けさせて戦う(駆市人而戦之)』という状況だった。このような情勢においては、彼等を死地に置いて一人一人を自分のために戦わせなければならない。もし彼等に生地を与えたら皆逃げてしまっただろう。彼等を使えるはずがない。」
諸将は皆感服して「素晴らしいことです(善)。臣等のおよぶところではありません」と言いました。
韓信はすぐに縄を解き、李左車を東向きに座らせて師事します。
韓信が問いました「私は北の燕を討伐し、東の斉を討伐したいと思っています。どうすれば功を立てられるでしょう?」
李左車が謝辞して言いました「臣は敗亡の虜です。どうして大事を計ることができるでしょう。」
韓信が言いました「百里奚が虞にいた時には虞が亡び、秦にいた時には秦が霸を唱えたと聞いています(百里奚は春秋時代の虞国の大夫でしたが、虞公が諫言を用いなかったため国を滅ぼしてしまいました。その後、秦穆公が百里奚を信任して西戎の覇者になりました)。百里奚は虞では愚者だったのに、秦では智者になったのではありません。その言を用いるか用いないか、聴くか聴かないかの違いです。もし成安君(陳余)が足下の計を聴いていたら、信(私)のような者は既に禽(捕虜)になっていたでしょう。成安君が足下を用いなかったから、信(私)は教えを請うことができるのです。私は心を委ねて計を聴くつもりです。足下が辞退しないことを願います。」
李左車が言いました「今、将軍は西河を渡って魏王を虜とし、夏説を禽にしました。東は井陘を降し、朝の間に趙の二十万の衆を破って成安君を誅しました。将軍の名は海内に聞こえ、威は天下を震わせています。農夫は全て農耕を止めて耒(農具)を手離し(輟耕釋耒)、美しい服を着て美味しいものを食べ(褕衣甘食)、耳を傾けて命を待っています(『資治通鑑』胡三省注を元に解説すると、人々は韓信の威信を恐れているため、その日を満足させることだけを目標にして遠いことを考えられなくなったという意味のようです。「輟耕釋耒」は遠謀ができないため生業を棄てたことを意味し、「褕衣甘食」は目先の事に満足していることを意味します)。これ(威信が行き届いて民が命令に従順であること)は将軍の長所です。しかし衆は労して卒は罷(疲)しているので(民も兵も疲労しているので)、実際に用いるのは困難です。今、将軍は倦敝の兵を挙げて燕の堅城の下に駐留しようとしていますが、戦いたくても戦えず、攻略したくても落とせず、こちらの内情が露見して威勢が減少し、日を費やして持久する間に糧食を消耗し尽くしてしまうでしょう。燕が服さなかったら斉も必ず国境を守って自強します。燕も斉も共に対抗して降ることなく、劉と項の権もまだ分かれていません(決着がついていません)。これは将軍の短所です。用兵を善くする者は短所によって長所を撃たず、長所によって短所を撃つものです。」
韓信が問いました「それではどうするべきですか?」
李左車が言いました「今、将軍のために計るなら、甲を止めて兵を休め、趙民を鎮撫し、百里の内で牛酒が日々至るようにして士大夫をもてなすべきです。兵を北の燕路に向けてから辨士に咫尺(咫は八寸。「咫尺」は一尺か八寸の簡牘の意味)の書を奉じさせて派遣し、長所(民が帰心している様子)を燕に示せば、燕が従わないはずがありません。既に燕が従ってから東の斉に臨めば、たとえ智者がいたとしても斉のために計を為すことはできません。こうすれば天下の事を全て図ることができます。兵とは先に声(声望)があって後から実(行動)があるものです。これがその計です。」
燕に使者を送ると燕は声望を聞いて帰順します。
楚がしばしば奇兵を送り、渡河して趙を攻めました。
次回に続きます。