秦楚時代38 西楚覇王(十二) 黥布謀叛 前204年(2)

今回は西楚覇王三年、漢王三年十月の続きからです。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
甲戌晦、日食がありました。
十一月癸卯晦にも日食がありました。
中華書局の『白話資治通鑑』は二回の日食の日(十月甲戌晦と十一月癸卯晦)を恐らく誤りとしています。
 
[] 『資治通鑑』からです。
漢の隨何が二十人を率いて九江に入りました(前年参照)
九江の太宰が隨何の相手をします。
太宰という官は、かつては国政を掌握する権限を持っていました。後世の丞相や宰相に相当します。春秋戦国時代の吴国に仕えた太宰嚭が有名です。しかし戦国時代以降は地位が下がり、秦代の太宰は帝王の食事を管理する官になっていました。
 
隨何は三日経っても九江王黥布に会えませんでした。そこで隨何が太宰に言いました「王が何(私)に会わないのは、楚が強くて漢が弱いと思っているからに違いありません。これこそ臣が使者になった理由です。何(私)に会う機会をください。もし話の内容が是(正しい)であったら、それは大王が聞きたいと思っていることです。もし話の内容が非であったら、何等(我々)二十人を九江の市で斧質(刑具)に伏させてください。(我々を殺せば)王が漢に逆らって楚に附いていることを明らかにできます。」
太宰は隨何の言葉を九江王に伝えました。
九江王が隨何を接見します。
隨何が言いました「漢王が臣を派遣し、大王の御者に書信を敬進させました(御者は侍者の意味です。直接大王に渡すことを憚って御者に渡すと言っています。当時の外交上の礼義です)(漢王は)大王と楚がどのような関係にあるのか、心中で疑問に思っています。」
九江王が答えました「寡人は北を向いて楚に臣事している。」
隨何が言いました「大王と項王は共に諸侯に列しています。それなのに北を向いて臣事しているのは、楚が強いから国を託せると思っているからに違いありません。ところが、項王が斉を討伐して自ら版築(築城の工具)を背負い、士卒の前を進んだ時、大王は九江の衆を総動員して自ら将となり、楚の前鋒になるべきだったのに、四千人の兵を発して楚を助けただけでした。北面して人に臣事するというのはこういうことでしょうか?漢王が彭城に入った時、項王はまだ斉から離れていませんでした。大王は九江の兵を総動員して淮水を渡り、日夜、彭城の下で会戦するべきだったのに、万人の衆を擁しながら一人も淮水を渡らせることなく、垂拱(垂衣拱手。衣服の袖を垂らして拱手すること。何もしない事の喩え)して誰が勝つかを傍観していました。国を人に託すというのはこういうことでしょうか?大王は楚に附いているという空名を挙げて自託(自分が頼りにしているもの)を厚くしようとしていますが(自分を守ろうとしていますが)、臣が見るに大王はそうするべきではありません。
それでも大王が楚に背けないのは漢が弱いと思っているからです。しかし、楚兵は強いとはいえ、天下は楚に不義の名を負わせています。盟約に背いて義帝を殺したからです。漢王は諸侯を収めて成皋、滎陽に還って守り、蜀漢の粟(食糧)を輸送させ、溝(濠)を深くして壁塁を固め、士卒を分けて徼(辺境。国境)を守らせたり塞(要塞。拠点)に配置しています。楚人は敵国八九百里に深入りしており(楚軍が彭城から滎陽や成皋に至るには、間に梁地があります。当時、彭越が梁地で楚に反していたため、楚の敵国になります)、老弱が食糧を千里の外に運んでいます漢が堅守して動かなければ、楚は進んでも攻めることができず、退いても解くことができません(脱することができません)。だから楚兵は頼るに足りないというのです。もし楚を漢に勝たせたら、諸侯はそれぞれ危懼して互いに助け合うでしょう(楚に対抗するでしょう)。楚の強盛が逆に天下の兵を招くことになるのです。よって楚が漢に及ばないという情勢は容易に見てとることができます。
今、大王は万全の漢と与せず、自ら危亡の楚に託しています。臣が見るに大王は惑わされています。臣は九江の兵で楚を亡ぼすことができるとは思っていません。大王が兵を発して楚に背けば、項王は必ず留まります。項王を数カ月留めることができれば、漢が天下を取るのに万全となります。臣は大王と共に剣を提げて漢に帰ることを請います。漢王は必ず地を割いて大王に封じます。また、九江も当然大王が有すことになります。」
九江王は「命を奉じさせてください(請奉命)」と答えました。但し陰で漢に附く約束をしただけで、公言はしませんでした。
 
この時、楚の使者が九江におり、伝舍(客舍)に留まっていました。黥布に急いで兵を発すように催促します。
隨何は直接伝舎に入って楚の使者の上の席に座り、こう言いました「九江王は既に漢に帰した。楚はなぜ兵を動員させようとするのだ?」
黥布は愕然とし、楚の使者は立ち上がりました。
隨何が黥布に言いました「事は既に決しました。楚の使者を殺すべきです。帰らせてはなりません。疾く漢に走って力を合わせましょう。」
黥布は「使者(隨何)の教えの通りにします」と言って楚の使者を殺し、兵を挙げて楚を攻めました。
 
楚は項声と龍且(龍が姓、且が名)に九江を攻撃させました。
数か月後、龍且が九江軍を破ります。
黥布は兵を率いて漢に走ろうとしましたが、楚兵に殺されるのを恐れたため、間道から隨何と一緒に逃走して漢に帰順することにしました。
 
十二月、九江王黥布が漢に入りました。
漢王劉邦は床に座って足を洗ったまま黥布を接見します。
漢王の無礼な態度に激怒した黥布は後悔して自殺しようとしました。
ところが、漢王の部屋から退出して自分の館舍に入ると、帳御(幕帳や服。日用品を指します)、飲食、従官とも全て漢王と同等でした。黥布は望外の喜びを得ます(大喜過望)
資治通鑑』胡三省注によると、漢王は黥布が久しく九江王だったため自尊自大になっていることを警戒し、わざと無礼な態度で接して黥布が漢王の下であることを認識させました。その後に漢王と同等の帷帳や飲食、従官を見たため、黥布にとっては望外の喜びとなりました。
 
黥布が九江に人を送りましたが、楚が項伯に命じて九江の兵を併合させており、黥布の妻子も全て殺されていました。黥布の使者は故人(友人)、幸臣等、数千人を率いて漢に帰りました。
漢王は九江王の兵を増やして共に成皋に駐留させました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
楚がしばしば漢の甬道を攻撃して食糧を奪ったため、漢軍の食糧が不足し始めました。
漢王劉邦は酈食其と楚の勢力を削る方法を謀りました。
酈食其が言いました「昔、湯商王朝最初の王。成湯)が桀夏王朝最後の王)を討伐してから、その後代を杞に封じました。武王西周最初の王)が紂商王朝最後の王)を討伐してからはその後代を宋に封じました。今、秦は徳を失い義を棄てて諸侯を侵伐し、その社稷を滅ぼしてから、立錐の地(わずかな土地)も与えませんでした。陛下がもし再び六国の後を復すことができれば、その君臣も百姓も必ず皆、陛下の徳を奉戴し、嚮風慕義(義を慕ってその風紀に従うこと)して臣妾になることを願うでしょう。徳と義が行われたら、陛下は南を向いて霸を称えられます。そうなれば楚は必ず斂袵(襟を正すこと)して朝見に来るはずです。」
漢王は「素晴らしい(善)。すぐに印(六国の印璽)を彫刻しよう。先生はそれを佩して各国に行ってください」と言いました。
酈食其が出発する前に張良が外から戻って漢王に謁見しました。
食事中だった漢王が言いました「子房張良の字)よ、前に来なさい。客(賓客)がわしのために楚の権勢を削る計を為してくれた。」
漢王は酈生の言葉を詳しく話してから「如何だ?」と問いました。
しかし張良はこう言いました「誰が陛下のためにこのような計を画策したのですか?陛下の大事が去ってしまいます。」
漢王は「なぜだ?」問いました。
張良が答えました「前にある箸を借りて大王のために形勢を描くことをお許しください。昔、湯と武王が桀紂の後者を封じたのは、彼等の死生の命(運命。命数)を制御できると判断したからです。今、陛下は項籍の死命(運命。命数)を制御できますか?これが不可とする一つ目の理由です。武王は殷に入ってから商容の閭を表彰し、箕子の囚を解き、比干の墓を封じました(全て西周初期の故事です)。今の陛下にできますか?これが不可とする二つ目の理由です。(武王は)巨橋(穀倉の名)の粟(食糧)を発して鹿台の銭を散じ、貧窮の者に下賜しました。今の陛下にできますか?これが不可とする三つ目の理由です。(武王は)殷の事が終わってから(殷を滅ぼしてから)、革(兵車)を廃して軒(普通の馬車)に改め、干戈(兵器)を逆さに置いて天下に再び兵を用いないことを示しました。今の陛下にできますか?これが不可とする四つ目の理由です。(武王は)馬を華山の陽(南)で休めて用がなくなったことを示しました(戦争が終わったことを天下に示しました)。今の陛下にできますか?これが不可とする五つ目の理由です。牛を桃林の陰(北)に放って再び輸積(物資の輸送)に使わないことを示しました。今の陛下にできますか?これが不可とする六つ目の理由です。天下の游士は自分の親戚から離れ、墳墓を棄て、故旧(旧友)から去り、陛下に従って周遊しています。それは咫尺の地(わずかな地)を得ることを日夜願っているからです。今もし再び六国の後代を封じたら、天下の游士はそれぞれ帰って自分の主に仕え、自分の親戚(家族)に従い、故旧がいて墳墓がある故郷に戻ってしまうでしょう。陛下は誰と一緒に天下を取るのですか?これが不可とする七つ目の理由です。そもそも、今は楚だけが強盛で、他に強い国はありません。もし六国に立てた者が弱小なため楚に従ったら、陛下はどうして臣服させることができますか?これが不可とする八つ目の理由です。本当に客の謀を用いるのなら、陛下の大事は去ってしまいます。」
漢王は食事を止めて口の中の物を吐き出し、「豎儒(知識人を罵倒する言葉)がわしの大事(「わしの大事」の原文は「而公事」です。「而」は「汝」、「公」は尊称で劉邦自身を指します。直訳すると「汝の主人の大事」となります)を台無しにするところだった!」と罵って、すぐに六国の印璽を破毀するように命じました。
 
人の意見を素直に聴き入れることができるというのは、劉邦の大きな特徴であり、項羽と対照的な部分です。
 
 
 
次回に続きます。