秦楚時代39 西楚覇王(十三) 范増の死 前204年(3)

今回も西楚覇王三年、漢王三年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
漢王劉邦が陳平に問いました「天下が紛紛(混乱している様子)としているが、いつになったら定まるだろう。」
陳平が言いました「項王の骨鯁の臣(剛直な臣)には亜父(范増)、鍾離昩、龍且、周殷といった人材がいますが、数人に過ぎません。大王が数万斤の金を棄て、反間を行って君臣の間を割き、心に疑いを抱かせることができれば、項王の為人は内心疑い深くて讒言を信じやすいので、必ず内部で互いに誅殺しあいます。そこを漢が兵を挙げて攻めれば、必ず楚を破ることができます。」
漢王は「善し」と言って黄金四万斤を陳平に与え、自由に使うことを許可しました。
陳平は巨額の黄金で人を使って楚軍の中で反間を行い、こういう噂を流しました「諸将の鍾離昩等が項王の将となって多くの功を立てたのに、ついに地を分けて王になることができなかった。だから彼等は漢と一つになって項氏を滅ぼし、地を分けて王になるつもりだ。」
果たして項羽は鍾離昩等を信用しなくなりました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、鍾離昩は鍾離が姓氏で、鍾離子(鐘離国の国君)の後代です。国名を姓氏にしました。
龍姓は龍伯氏から生まれたという説と、帝舜の納言(帝王の言葉を伝える官)(人名)の子孫という説があります。
 
[] 『史記高祖本紀』『史記項羽本紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、楚が滎陽で漢王劉邦を包囲しました。
窮地に陥った漢王は楚軍に和を請い、滎陽を境に西を漢、東を楚にするという条件を出しました。
しかし楚の亜父范増が項羽に滎陽を急攻するように勧めます。それを知った漢王は憂いました。
 
以上の記述は主に『資治通鑑』を元にしました。『史記項羽本紀』は若干異なります(『漢書陳勝項籍伝』も『史記項羽本紀』とほぼ同じです)
楚軍がしばしば甬道を攻撃したため、漢軍の食糧が欠乏し始めました(上述)。漢王は恐れて項羽に和を請い、滎陽以西を漢にするという条件を出します。
項王はこれに同意しようとしましたが、歴陽侯范増が反対して言いました「漢を相手にするのは簡単です。今赦して取らなかったら、必ず後悔することになります。」
項王は范増と共に漢軍を急攻して滎陽を包囲しました。
憂いた漢王は陳平の計を用いて項王と范増を離間させることにしました。
 
以下、『史記項羽本紀』と『資治通鑑』からです。
 
項羽の使者が漢の陣営に来ました。
陳平は使者のために大牢具を準備します。大牢具というのは周代の礼で、盛大な料理や宴席を意味します。
料理を運んで来た陳平は楚の使者を見ると驚いたふりをしてこう言いました「私は亜父の使者だと思っていたが、項王の使者だったか。」
陳平は豪勢な料理を持ち去ってから、改めて悪草具(粗末で簡単な料理)を楚の使者に与えました。
 
楚の使者は帰ってから詳しく項王に報告しました。
その結果、項王は范増が漢と秘かに通じているのではないかと疑い、少しずつ権力を奪おうとしました。
范増が急いて滎陽城を攻略しようと欲しても、項王は信用せず、意見を聞こうともしません。
范増は項王が自分を疑っていると聞いて、怒ってこう言いました「天下の事は大定した(ほぼ定まった)。君王(あなた)は自分で為すべきことを為しなさい。骸骨(引退)を賜って卒伍(士兵)に帰ることを願います。」
項王が同意したため范増は帰路に就きましたが、彭城に至る前に疽(腫瘍)が背にできて死んでしまいました。
 
[] 『史記高祖本紀』『史記項羽本紀』『漢書陳勝項籍伝』と『資治通鑑』からです。
五月、漢の将軍紀信が漢王劉邦に言いました「事は急を要します。臣が楚を騙すので、王はその間に脱出してください。」
陳平が夜の間に甲冑を着た二千余人の女子を東門から出しました。楚軍は四面からこれを攻撃します。そこに紀信が王車に乗って現れました。車は黄屋(黄色い車の屋根。天子の車です)、左纛(天子の車の左前につける装飾。大旗)を具えています。
「食糧が尽きたため、漢王が降った」と伝えると、楚軍は皆、万歳を唱えて城東に見に来ました。
その隙に漢王は数十騎と共に西門から遁走しました。滎陽は韓王信、御史大夫周苛と魏豹、樅公(名は分かりません)に守らせます(魏豹は昨年九月に捕えられてから再び漢に仕えたようです)。漢王についていけなかった諸将や士卒も滎陽城中に残りました。
 
紀信を見た項羽が問いました「漢王はどこだ?」
紀信は「漢王は既に脱出した」と答えます。
項羽は紀信を焼き殺しました。
 
滎陽を守る周苛と樅公が相談して言いました「反国の王(漢を裏切った王)と城を守るのは困難だ。」
二人は魏豹を殺してしまいました。
 
史記秦楚之際月表』では漢王三年(本年)七月に漢王が滎陽を出て八月に魏豹が殺され、漢王四年(翌年)三月に周苛が死んで四月にまた魏豹が死んでいます。
記述に混乱が見られ、『資治通鑑』とも合いません(年表参照)
 
漢王は滎陽を出てから成皋に至り、更に函谷関に入りました(漢王が成皋を出てから、項羽が成皋を占領したようです)
漢王は兵を集めて再び東進しようとしましたが、轅生が漢王に言いました「漢と楚は滎陽で対峙して数年が過ぎ、常に漢が困窮しています。君王は武関から出るべきです。そうすれば項王は必ず兵を率いて南に走ります。王は濠を深くして壁を高くするだけで戦ってはなりません。その間に滎陽と成皋一帯は休息を得られます。同時に韓信等を送って河北の趙地を安輯(安定)させ、燕斉と連合してから、君王(あなた)が再び滎陽に向かったとしても晩くはありません。こうすることで楚は備えるもの(対抗するもの)が多くなり、力が分散します。逆に漢は休息を得られるので、再び戦う時には必ず楚を破ることができます。」
資治通鑑』胡三省注によると轅は姓で、春秋時代陳国の大夫轅濤塗の後代です。爰袁という二姓とも通じています。『漢書帝紀』と『資治通鑑』では「轅生」ですが、『史記高祖本紀』では「袁生」と書かれています。
 
漢王は轅生の計に従って軍を宛葉の間に出しました。黥布と共に兵を集めながら行軍します。
 
項羽は漢王が宛にいると聞いて、兵を率いて南に向かいました。
しかし漢王は営壁を固めて戦おうとしませんでした。
 
漢王が彭城で敗戦した時、軍が崩壊して西に撤退しました。
彭越もそれまでに攻略した城を全て失いましたが、一人で兵を率いて北の河黄河沿岸)に留まっていました。
そこでしばしば漢の游兵として楚軍を攻撃し、後方で食糧を絶ちます。
この月、漢王と項羽が南方で対峙すると、彭越は睢水を渡って項声、薛公と下邳(『史記高祖本紀』『漢書帝紀』『漢書陳勝項籍伝』『資治通鑑』は「下邳」。『史記項羽本紀』では「東阿」)で戦いました。彭越が大勝して薛公を殺します(『史記項羽本紀』は翌年の事としています。『資治通鑑』は『史記高祖本紀』『漢書陳勝項籍伝』に従っています)
項羽は終公(終が姓。『資治通鑑』胡三省注によると陸終の後代です)に成皋を守らせ、自ら東に向かって彭越を撃ちました。
その間に漢王が兵を率いて北に向かい、終公を撃破してから再び成皋に駐軍しました。
 
六月、項羽が彭越を破りました。
項羽は漢軍が再び成皋に駐軍したと聞き、兵を率いて西に向かいました。まず滎陽城を落として周苛を生け捕りにします。
項羽が周苛に言いました「わしのために働くなら公を上将軍に任命し、三万戸に封じよう。」
しかし周苛は罵ってこう言いました「汝が速く漢に降らなければ今すぐ虜(捕虜)になるだろう。汝は漢王の敵ではない。」
項羽は周苛を烹(釜茹で)に処し、併せて樅公を殺して韓王信を捕虜にしました。
 
項羽は更に兵を進めて成皋を包囲します。
漢王劉邦は滕公夏侯嬰だけを連れて車で成皋の玉門(北門)から逃走しました。
北に向かって黄河を渡り、小脩武の伝舍に泊まります。
 
翌早朝、漢王は漢の使者と称して趙軍(張耳と韓信の営塁に入りました。張耳も韓信もまだ起きる前です。
漢王は臥室に入って印符を奪い、麾(指揮する旗)で諸将を集めて配置を換えました。
韓信と張耳は目がさめてから漢王が来たと知って大いに驚きます。
 
二人の軍権を奪った漢王は張耳に北方を巡行させて趙の地を守るように命じました。
また、韓信を相国に任命し、まだ徴発していない趙兵を率いて斉を撃たせました。
やがて、諸将も少しずつ成皋から脱出して漢王に従いました。
 
楚が成皋を攻略して西進しようとしましたが、漢が兵を送って鞏で抵抗し、楚軍の西進を阻止しました。
 
 
 
次回に続きます。