秦楚時代40 西楚覇王(十四) 斉の帰順 前204年(4)

今回も西楚覇王三年、漢王三年の続きです。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、孛星が大角に現れました。
孛は彗星、異星を指し、兵乱を象徴します。大角は天王の帝廷(朝廷)といわれる星です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
項羽が立てた臨江王共敖が死んで子の尉が継ぎました。
 
[] 『史記高祖本紀』『漢書陳勝項籍伝』と『資治通鑑』からです。
漢王劉邦韓信の軍を得てから再び振興しました。
八月、漢王が兵を率いて黄河に望み、南に向かって小脩武に駐軍しました。そこで楚軍との再戦を望みます。
しかし郎中鄭忠が漢王を諫め、営塁を高くして塹(濠)を深くするように勧めました。
漢王は鄭忠の計に従って直接の交戦を避け、将軍劉賈と盧綰に士卒二万人と騎兵数百を率いて白馬津を渡らせました。二将は楚地に入り、彭越を助けて楚軍を燕郭西(燕県の城西。かつての南燕国)で破ってから積聚(食糧輜重)を焼きます。
楚軍は後方物資の基盤を失ったため、項王の軍に食糧を供給できなくなりました。
楚兵が劉賈を攻めましたが、劉賈はいつも営壁を堅くして戦おうとせず、彭越と助け合って楚に対抗しました。
 
[十一] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
彭越等が梁地を攻略して睢陽、外黄等の十七城を落としました。
九月、項王項羽が大司馬曹咎に言いました「謹んで成皋を守れ。漢王が挑戦してきても決して戦ってはならない。彼等を東に向かわせなければそれでいい。わしは十五日間で必ず梁地を平定する。その後、戻ってから将軍と合流しよう。」
項羽は兵を率いて東に向かい、陳留、外黄、睢陽等の城を攻めて全て攻略しました。
 
史記高祖本紀』『史記項羽本紀』『漢書陳勝項籍伝』は陳留、外黄、睢陽等の攻略を翌年に書いています。以下、『史記項羽本紀』からです。
彭越が再び項王に反して梁地を占領し、楚の食糧を絶ちました。項王が海春侯大司馬曹咎等に言いました「謹んで成皋を守れ。漢王が挑戦してきても決して戦ってはならない。彼等を東に向かわせなければそれでいい。わしは十五日間で必ず彭越を誅して梁地を平定する。その後、戻ってから将軍と合流しよう。」
項王は兵を率いて東に向かい、陳留、外黄を攻めました。
項王が攻撃しても外黄を攻略できませんでしたが、数日後に投降しました。
項王は怒って十五歳以上の男子を全て城東に集めさせ、阬殺(生埋め)しようとしました。
外黄令(県令)の舍人に十三歳の子がいました。
舍人の子が項王に会いに行って言いました「彭越が武力によって外黄を強制したので、外黄は恐れて暫く投降し、大王が来るのを待っていました。大王が来たのにまた全て阬してしまったら、百姓にどうして帰心が生まれるでしょう。ここから東にある梁地の十余城は皆恐れて帰順しなくなってしまいます。」
項王はこの言葉に納得して外黄で阬殺されそうになった者達を赦しました。
外黄から東の睢陽に至る地が噂を聞いて争って項王に降りました。
 
資治通鑑』に戻ります。
漢王劉邦は成皋以東の地を棄てて、鞏洛の地で楚に対抗しようとしました。
酈生(酈食其)が言いました「臣はこう聞いています『天の天を知る者(民が食を大切にしているということを知っている者)は王事を成せる(知天之天者,王事可成)。』王者とは民を天とし、民とは食を天とするものです(「知天之天者」の最初の「天」は王者にとっての「天」で、「民」を指します。二つ目の「天」は民にとっての天で、「食」を指します)。敖倉は天下に転輸して(食糧を供給して)久しくなります。臣は敖倉に多数の粟(食糧)が蓄えられていると聞きました。楚人は滎陽を攻略したのに敖倉を堅守せず、兵を率いて東に向かい、適卒(讁卒。讁戍。罪を犯して懲役している者)を分けて成皋を守らせています。これは天が漢を助けているのです。今、楚を取るのは容易なのに、漢は退いて自ら便を奪おうとしています(自ら機会を失おうとしています)。臣は心中でこれを過ちだと思っています。そもそも両雄が共に立つことはできません。楚漢が久しく対峙して決しなければ、海内が搖盪(動揺)し、農夫が釋耒し(農具を棄て)、工女が機を下り(機織りができなくなり)、天下の心が安定できません。足下が急いで再び兵を進め、滎陽を奪取し、敖倉の粟を占拠し、成皋の険を塞ぎ、太行の道を絶ち、蜚狐の口(飛狐口)で対抗し、白馬の津を守り、諸侯に形制の勢(有利な地形を制圧して楚より優勢にいること)を示すことを願います。そうすれば天下が帰するべき場所を知るでしょう。」
漢王はこれに従い、敖倉を取る計を謀りました。
 
酈食其がまた言いました「最近、燕と趙を平定しましたが、斉だけが攻略できていません。諸田宗(田氏の諸族)は強盛で、斉地は海(東海)と岱(太山。泰山)を負い、河黄河と済(済水)で阻み(斉の地は、東は海、南は太山に至り、西は済水、北は黄河が道を阻んでいます)、南は楚に近く、斉人の多くは変詐(狡猾で詐術を好むこと)です。足下が数万の師を派遣したとしても、歳月(一年や数カ月)で破ることはできません。臣が明詔(漢王の詔書を奉じて斉王を説得し、漢のために東藩と称させることをお許しください。」
漢王は「善し」と言いました。
 
こうして漢王は酈生を斉に送りました。
酈食其が斉王田広に問いました「王は天下が帰す所を知っていますか?」
斉王が言いました「知らない。天下はどこに帰す?」
酈生が言いました「漢に帰します。」
斉王が問いました「先生は何を根拠にそう言うのだ?」
酈生が言いました「漢王は先に咸陽に入りましたが、項王が約束を破って漢中の王にしました。その後、項王が義帝を遷して殺したので、それを聞いた漢王は蜀漢の兵を挙げて三秦を撃ち、関を出て義帝の居場所を問い詰めました。また、天下の兵を集めて諸侯の後代を立て、城を降したらその将を封侯し、賂(財物)を得たら士に分け与え、天下と利を共にしているので、豪英賢才は皆、喜んで用いられています。項王は倍約(背約)の名があり、義帝殺害の負(罪。負い目)をもち、人の功績を記憶することなく、人の罪を忘れることもなく、将士は戦に勝っても賞を得られず、城を落としても封を受けられず、項氏でなければ重用されないため、天下が項王に畔(叛)し、賢才が項王を怨み、用いられようとする者がいません。よって天下の事が漢王に帰しており、坐して策すことができるのです(坐して天下を図ることができます)。漢王は蜀漢の兵を発して三秦を定め、西河を渡って北魏(河北の魏王豹)を破り、井陘を出て成安君(陳余)を誅しました。これは人の力ではなく天の福というものです。今、既に敖倉の粟を占拠し、成皋の険を塞ぎ、白馬の津を守り、太行の阪を断ち、蜚狐の口で対抗しているので、天下で後から服した者が先に亡ぶことになります(『資治通鑑』胡三省注によると、漢軍が敖倉と成皋を占拠しているので項羽は西に進めません。漢軍が白馬と太行を抑えて蜚狐で対抗しているため、河北の燕趙の地も漢に属します。斉と楚には先がないので、早く漢に帰順しなければ滅ぼされることになります)。王が速く漢王に降れば斉国を保てるでしょう。そうしなければ危亡はすぐに訪れます。」
 
酈食其の説得には作った部分があります。例えば劉邦項羽に逆らって東進を開始したのは項羽が義帝を殺す前です。また、劉邦は諸侯の後裔を分封することに反対しました。しかし酈食其の説得は斉王・田広を動かしました。
 
これ以前に斉は韓信が兵を率いて東進していると聞いたため、華無傷と田解に重兵を与えて歴下に駐軍させていました。
資治通鑑』胡三省注によると、華姓は春秋時代宋国の華父督から始まります。
 
斉王は酈生の言に同意して漢に和平の使者を送りました。同時に歴下の守りを解かせます。
安心した斉王は酈生と日々酒を飲んで楽しみました。
 
東進していた韓信は平原(恐らく黄河の河港)を渡る前に酈食其が斉を説得して降したと知りました。
韓信は進軍を止めようとしましたが、辨士蒯徹が韓信に言いました「将軍は斉を攻撃する詔を受けました。漢が秘かに使者を送って斉を降しましたが、将軍を止める詔が出されたのですか。どうして進軍を止めることができるのですか。そもそも酈生は一士に過ぎないのに、伏軾(軾に伏せる。車に乗ること。軾は馬車の前についた横木)して三寸の舌を弄しただけで斉の七十余城を下しました。将軍は数万の衆を率いて一年余を費やしたのに、趙の五十余城を下しただけです。将になって数歳(数年)も経つのに、一豎儒の功にも及ばなくなります。」
韓信は納得して黄河を渡りました。
 
 
 
次回に続きます。